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Broker

 帰還したあと、アウロはランに言われるまま、その日は身体を休めた。

 フォレストで受けた傷が、そのまま現実の外傷として残っているわけではない。

 それでも右肩の痺れも、脇腹の鈍い痛みも消えてはいなかった。

 翌日。

 ナナミがレヴァンへ確認を取り、短い面会時間だけ許可が下りたと連絡をくれた。

 病室の扉を開ける。

 アカネは、変わらず眠っていた。


「ただいま」


 返事はない。

 アウロはベッドの横の椅子へ座った。

 ポケットへ入れた指先に、小さな銀色の欠片が触れる。

 《コマンダー》だったものだ。

 取り出すことはせず、そのまま指で形だけを確かめた。


「一人、帰ってきたよ」


 眠るアカネを見る。


「最後は、自分で帰りたいって言ってくれた」


 昨日のミオを思い出す。

 最初は、まだ帰りたくないと言った。

 迎えに来たアウロを怖がり、現実へ戻ることを拒んだ。

 それでも最後には、自分の口で本物のハルに会いたいと言った。


「難しいね、救助って」


 アウロは背もたれへ身体を預けた。


「俺、君を見つければ終わりだと思ってたんだよね」


 深層へ行く。

 アカネを見つける。

 手を取って連れて帰る。

 それだけを考えていた。

 けれど、レヴァンから断片的に聞いた話がある。

 向こうには、自分の姿をした影がいる。

 子どももいる。

 そしてアカネは、その場所を家だと呼んだ。

 そこまで知っている。

 でも、アカネ本人の言葉はまだ一度も聞いていない。

 なぜそこを家だと思うのか。

 何を大切にしているのか。

 そこから帰ることで、何を失うのが怖いのか。


「君にさ」


 アウロはアカネの横顔を見る。


「帰りたくないって言われたら、どうしようね」


 声にした途端、その言葉だけが病室に残った。

 アウロは少しだけ笑う。


「まあ、それでも会いには行くけど」


 そこだけは変わらない。

 連れて帰ると決める前に、まずアカネ自身の話を聞く。

 そのためには深層へ行く必要がある。


「……フォレストコイン」


 昨日、自分たちを帰した一回限りのものではない。

 深層へ続く経路そのものを保持する、本来のフォレストコイン。

 レヴァンは持っている。

 そして、アウロへ渡すつもりはない。

 VIGILを辞めた今、正規の記録も自由には使えない。

 外から情報を集めるなら、頼れる相手は限られている。

 アウロはスマートフォンを取り出し、一つの名前を選んだ。

 数回の呼び出し音のあと、低い男の声が返ってくる。


『またお前か』

「また用事ができちゃってね、レイン」

『今度は何だ』

「フォレストコイン」


 短い沈黙。


『……まだ諦めてなかったのか』

「諦めると思った?」

『知ってても言えない。約束がある。そう言ったはずだ』

「覚えてるよ。客を殺したくない、もね」

『なら、同じ質問をするな』

「今日は同じ質問じゃないよ」

『何が違う』

「昨日、一回作った」


 今度は、さっきより長く沈黙した。


『……何を』

「フォレストコイン」

『お前、今どこだ』

「病院」

『説明しろ』

「電話で?」

『今すぐだ』


 アウロは少し笑った。


「正規の設備じゃなくても潜れたよ。五世代前くらいのスリープ・アンカーでね」

『……どこで使った』

「急に声変わったね」

『型番は見たか』

「見てない」

『機体番号は』

「そこまで確認してないな」

『誰が持ってた』

「普通の民家にいた男」

『普通の民家に五世代前のスリープ・アンカーがある時点で普通じゃない』

「それはそう」

『今から来れるか』

「行っていいの?」

『来い。フォレストコインの話もする』

「最初からそう言ってくれればいいのに」

『切るぞ』

「行きます」


 通話が切れた。

 アウロは画面を見てから、アカネへ視線を戻した。


「ちょっと行ってくる」


 椅子から立ち上がる。


「また来るよ」


 病室を出た。

 レインの店へ着いた頃には、外はもう暗くなっていた。

 扉を開ける。


「こんばんは」

「座れ」

「今日は歓迎してくれるんだ」

「してない。話があるだけだ」


 アウロは一番奥の席へ腰を下ろした。


「酒は?」

「いらない。まだ身体痛いし」

「珍しくまともだな」

「失礼だなあ」


 レインはグラスを置き、カウンターの下から薄い端末を取り出した。


「それで」

「うん」

「何をした」


 アウロは昨日のことを必要な範囲だけ話した。

 第六階層まで沈んだ女性。

 失われていた帰還信号。

 現実側との同期だけが戻ったこと。

 そして、手元にあったジョブコインの情報を消し、今いる場所と現実側を結ぶ経路を書き込んだこと。

 レインは途中で口を挟まなかった。


「それで、一回だけ通れるフォレストコインになった」

「使ったあとは」

「砕けた」

「現物は?」

「欠片なら持ってる」

「見せろ」


 アウロはポケットから銀色の欠片を取り出し、カウンターへ置いた。

 レインはすぐには触れず、しばらくそれを見ていた。


「……これが《コマンダー》だったのか」

「うん」

「よく残したな」

「一応ね」


 レインは視線を欠片から外す。


「それで、その五世代前のスリープ・アンカーは?」

「場所は分かるよ」


 アウロはスマートフォンを取り出した。


「ランさんから教えてもらった住所」


 住所をレインへ見せる。


「現場へ行くなら、先にランさんを通して。昨日、実際に機械を見てるのはあの人だから」

「ラン?」

「昔の教官」

「……なるほどな」


 レインは住所を控えた。


「なんでそんなに気にしてるの?」


 レインは少し迷ってから、端末をアウロの方へ向けた。

 画面には二つの記録が並んでいる。


「左がVIGIL側の廃棄記録の写し。右が、半年前に裏で動いた機材の流通記録だ」

「よくそんなもの持ってるね」

「仕事だからな」


 アウロは画面を見る。

 細かな数字の中に、よく似た番号が並んでいた。


「……これ?」

「ああ。今確認できてるのは、廃棄済みの機体と一致する番号が、裏の流通記録にあることだ」

「じゃあ、VIGILの機材が流れてる?」

「まだそこまでは言えない」


 レインはすぐに否定した。


「記録上の番号が一致してるだけだ。実物も同じものなのか、番号だけ使われてるのか、そこから確かめる」

「なるほど」

「廃棄後に盗まれたのか、処分業者から抜かれたのか、内部から意図的に出されたのか。それもまだ分からない」

「昨日俺が使ったやつも、その流れにあるかもしれない?」

「だから現物を確認する」

「REVERIE?」

「決めつけるな。番号の一致だけで、犯人までは分からない」

「はい」


 アウロはそれ以上言わなかった。

 レインが少しだけ目を細める。


「……珍しいな」

「何が?」

「いや」


 レインは端末を操作した。


「もう一つ。フォレストコインだ」


 アウロが姿勢を戻す。


「噂はいくらでもある。深層から持ち帰った、売った、誰かが保管してる。だが、俺が追えた本物は極端に少ない」

「レヴァンが持ってる一枚以外にも?」

「ある」

「誰が持ってる?」

「今はそこじゃない」

「俺にとってはそこなんだけど」

「最後まで聞け」


 アウロは口を閉じた。


「本物らしいものが確認されたあと、その先が追えなくなる例がある」

「追えなくなる?」

「持ち主が変わったのか、回収されたのか、記録自体が消えたのかも分からない」

「誰かが集めてる?」

「可能性はある。だが断定はできない」


 アウロは少し考える。


「じゃあ、今日は話していいんだ?」

「約束に触れる話はしてない」

「別の話?」

「ああ。今見せてるのは、俺が別に追ってる記録だ」

「なるほど」

「勘違いするなよ。前に言えないって言ったことを、話せるようになったわけじゃない」

「そこはまだ秘密なんだ」

「そういうことだ」


 レインは別の画面を開いた。


「その記録の中で、一件だけ気になってるものがある」


 古い一覧が表示される。


「この番号。数年前、フォレスト関連の押収物として処理されてる」

「VIGIL?」

「ああ」

「そのあと?」

「この写しでは、先が追えない」

「空欄?」

「そうだ。単なる記載漏れかもしれない。閲覧制限で伏せられてるだけかもしれない。それも含めて確認する」


 アウロは画面を見る。

 廃棄された機材と一致する番号。

 その後を追えない押収物。

 どちらも途中まではVIGILの記録に残っている。


「……VIGILの中に何かある?」

「まだ言うな」


 レインが遮る。


「今あるのは、途中から追えなくなる記録がある。それだけだ」

「慎重だね」

「情報屋が推測で客を殺したら商売にならない」

「確かに」


 レインは端末を閉じた。


「これから何を調べるの?」

「押収物を最後に扱った部署と、廃棄機材の処理経路。それから昨日お前が使った旧式が同じ流れにあるか」

「どれくらいかかる?」

「まず明日まで待て。そこまでに確認できた分を話す」

「俺も手伝う?」

「邪魔だ」

「即答」

「お前が動けば、誰かがいた場合に気づかれる可能性がある」

「誰かって?」

「それが分からないから調べるんだろ」

「確かに」


 レインがアウロをじっと見る。


「明日まで待てるか」


 アウロはすぐには答えなかった。

 昨日までなら、住所だけ聞いて勝手に向かっていたかもしれない。

 深層へ行けるかもしれない。

 アカネに一歩近づけるかもしれない。

 それだけで十分だった。

 けれど昨日、ミオを前にして、自分一人の判断だけでは帰れない場面が何度もあった。

 ランの声を聞き、条件を確認し、ミオ本人の意思を聞いて、ようやく二人で帰ってきた。


「……分かった」

「本当に?」

「明日まで待つ」


 レインは少しだけ眉を上げた。


「気味が悪いな」

「そこまで言う?」

「お前だからな」


 アウロはカウンターへ置いていた銀色の欠片を拾い、ポケットへ戻した。

 椅子から立ち上がろうとして、ふと止まる。


「レイン」

「なんだ」

「昨日さ」


 少し考えてから続けた。


「帰りたくないって人に会った」


 レインは黙って聞く。


「最初は、どうやって帰すかばっかり考えてた。でも結局、その人が自分で帰りたいって言うまで、何やっても駄目だった」

「それで?」

「アカネも、向こうにいたいって思ってるかもしれない」

「今さらか」

「知ってはいたよ」


 アウロは小さく笑う。


「でも、昨日やっと意味が分かった」


 レインは端末から手を離した。


「アカネに帰りたくないって言われたら、どうすればいいと思う?」

「それを俺に聞くのか」

「情報屋でしょ」

「人生相談は扱ってない」

「サービスしてよ」

「嫌だ」

「冷たいな」


 レインはしばらくアウロを見ていた。


「……まず会え」

「結局、そこからか」

「会わずに分かると思ってるのか」

「思ってない」

「なら会え。そのあと本人に聞け」

「帰りたいか?」

「違う」


 レインは少しだけ間を置いた。


「何が幸せか」


 アウロが黙った。


「帰るか残るかなんて、そのあとだろ」

「……何が幸せか」

「あいつの人生だ。お前が先に答えを決めるな」


 アウロは視線を落とした。

 少しして、小さく笑う。


「レインって、たまにいいこと言うよね」

「帰れ」

「照れた?」

「今すぐ帰れ」

「はいはい」


 アウロは扉へ向かった。


「じゃあ明日」

「ああ」

「ちゃんと待つよ」

「そうしろ」


 扉へ手をかける。


「アウロ」

「ん?」

「フォレストコインだけ追うな」


 アウロが振り返る。


「どういう意味?」

「誰が持ってるかより」


 レインはカウンターの向こうから、まっすぐアウロを見る。


「誰が深層へ行く道を管理してるのかを見ろ」


 アウロは少しだけ眉を上げた。

 今度は、すぐに答えなかった。


「……明日、その続き聞かせて」

「ああ」


 店を出る。

 夜の空気が頬に触れた。

 アカネへ続く道は、まだ見えていない。

 だから今夜は、動かない。

 明日まで待つ。

 それが今のアウロにできる、最初の一歩だった。

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