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静かに扉を開く。
暖かい風が吹いた。
花の香り。
鳥の鳴き声。
木々が揺れる音。
白い世界が消えていく。
レヴァンはゆっくりと中へ足を踏み入れた。
一面の花畑。
小さな家。
煙突から煙が上がっている。
木製のテーブルには二つのカップ。
風がカーテンを揺らしていた。
「……」
レヴァンは周囲を見渡す。
ただ穏やかな時間だけが流れていた。
庭先で、一人の女性が花に水をあげている。
白いワンピース。
見間違えるはずがなかった。
「……アカネ」
その声に、女性の手が止まる。
ゆっくりと振り返る。
一瞬だけ驚き、そして優しく笑った。
「お父さん」
レヴァンは走った。
ただ父親として、娘を抱きしめた。
「よかった……」
声が震える。
「本当に、生きていてよかった」
アカネは少しだけ苦しそうに笑う。
「お父さん」
「苦しいよ」
レヴァンは慌てて腕を離した。
「すまない」
アカネは笑う。
「どうしたの? いきなり」
その笑顔を見て、レヴァンはようやく息をついた。
「帰ろう」
その一言だった。
アカネは首を傾げる。
「帰る?」
「現実へ」
花畑を風が吹き抜ける。
アカネは不思議そうにレヴァンを見た。
「ここが家だよ?」
レヴァンの笑顔が消える。
「何を言っている。目を覚ませ」
アカネは少しだけ笑った。
「目を覚ます?」
「どうして?」
「お父さんも目の前にいるし」
「アウロも」
「みんなここにいるよ」
そう言って手を振る。
レヴァンが振り向く。
黒い影が一人。
こちらへ笑いかけながら手を振っている。
「……アウロ」
一瞬だけ、そう見えた。
だが違う。
顔がない。
輪郭だけが黒く滲んでいる。
あれはアウロじゃない。
「アカネ」
「ほら、孫も紹介したじゃん」
アカネは嬉しそうに家へ振り返る。
「おいで」
家の扉が開く。
小さな足音。
黒い小さな影が走ってきた。
「忘れちゃったの? まったく、ひどいおじいちゃん」
黒い小さな影はアカネの足元まで走ると、その手を握った。
アカネは優しく頭を撫でる。
「おじいちゃん、ひどいんだよ。あなたのこと忘れちゃってたの。怒ってやろう」
小さな影は何度も頷いた。
レヴァンは言葉を失う。
「……おい、何を言ってるんだ」
アカネは頬を膨らませる。
「さすがに怒るよ。冗談でも」
「分からない」
「何も」
アカネの表情が少しだけ曇る。
「大丈夫? お父さん?」
小さな影がレヴァンを見上げる。
顔は見えない。
輪郭だけが黒く揺れている。
「おじいちゃん」
幼い声だった。
レヴァンの呼吸が止まる。
「……違う」
思わず一歩下がる。
「そんな子はいない」
アカネは不思議そうに首を傾げた。
「どうして?」
「ここにいるじゃない」
小さな影はレヴァンへ歩み寄る。
手を伸ばす。
「おじいちゃん」
レヴァンは反射的に後ろへ下がった。
「お父さん! 何するの!」
「アカネ!」
思わず声を荒げる。
「目を覚ませ!」
「これは夢だ!」
アカネの笑顔が消えた。
「何言ってるの?」
「おかしくなったの?」
「お前こそどうしたんだ」
「私は何も変わってないよ」
アカネは黒い小さな影を庇うように抱き寄せる。
「お父さんが変だよ」
レヴァンは言葉を失った。
アカネは本気だった。
黒い影を子どもだと思っている。
顔のない何かをアウロだと思っている。
そして、ここを家だと思っている。
「もういいだろ」
後ろから声がした。
レヴァンはゆっくり振り返る。
白いフードの男が立っていた。
「……お前か」
レヴァンは背中のアンカーへ手を掛ける。
大剣のような刃が抜かれ、重い金属音が花畑に響いた。
「お父さん!」
アカネの顔が青ざめる。
「何してるの?」
「それ何?」
「なんでそんなもの持ってるの?」
レヴァンの手が止まりかける。
アカネはアンカーすら覚えていない。
「娘に何をした」
男は首を横へ振った。
「何も」
「嘘をつけ」
「彼女はここを選んだ」
「それだけだよ」
レヴァンはアンカーを構える。
「アカネを返せ」
「だから」
「彼女は物じゃない」
「黙れ!」
レヴァンが踏み込む。
大剣が白いフードの男へ振り下ろされた。
届かない。
刃は男の目の前で止まっていた。
何もない空間に縫い付けられたように動かない。
「なに……」
レヴァンは両手に力を込める。
アンカーは微動だにしない。
「もう帰る時間だよ」
「ふざけるな」
「君の役目は終わった」
「まだ何も終わっていない!」
レヴァンはアンカーから手を離し、アカネへ走る。
「アカネ!」
「来ないで!」
アカネは黒い影を抱きしめる。
その顔には、初めて恐怖が浮かんでいた。
「アカネ!」
あと少し。
手を伸ばせば届く。
その瞬間、レヴァンの身体が後ろへ引かれた。
「なっ――」
足が地面から離れる。
花畑が遠ざかる。
「アカネ!」
レヴァンは必死に手を伸ばす。
「アカネ!」
娘の姿が小さくなっていく。
花畑が消える。
家が消える。
黒い影も消えていく。
最後まで見えていたのは、アカネだった。
黒い影を抱きしめながら、レヴァンを見ている。
「待て!」
世界が白く染まる。
身体の内側が焼ける。
頭の中に知らない記憶が流れ込む。
誰かの夢。
誰かの後悔。
誰かの願い。
何百、何千もの声が一度に響く。
「やめろ……!」
レヴァンは頭を押さえる。
意識が引き裂かれる。
白いフードの男だけが、遠くに立っていた。
「安心してくれよ。今は、帰してあげる」
男は静かに笑った。
「深層に一度来たんだ」
レヴァンの身体が白い世界へ沈んでいく。
「もう一度潜ってさえくれれば」
男の姿が遠ざかる。
「君が最強の種になる」
世界が消えた。
「レヴァン隊長!」
身体が大きく跳ねる。
レヴァンは息を吸った。
肺が焼けるように痛む。
「レヴァン隊長! 聞こえますか!」
ランの声が聞こえる。
身体を起こそうとする。
力が入らない。
視界が揺れる。
頭の中では、まだ無数の声が響いていた。
「……アカネは」
ランは答えない。
「アカネは戻ったのか」
沈黙。
その顔を見て、レヴァンは全てを理解した。
「もう一度潜る」
「駄目です!」
ランがレヴァンの身体を押さえる。
「離せ」
「無理です! 今の数値を見てください!」
壁のモニターでは、いくつもの警告が点滅していた。
『精神負荷、許容値超過』
『再接続禁止』
レヴァンは立ち上がろうとする。
足が床へ落ちた。
それでも前へ進もうとする。
「娘が、まだあそこにいる」
「分かっています!」
「なら離せ!」
「もう一度潜ったら、隊長も戻ってこられません!」
レヴァンの動きが止まる。
床に手をついたまま、何も言えなかった。
アカネは帰ってこなかった。
そしてレヴァンも、あの日から一度もフォレストへ潜っていない。




