Real
病室には、機械音だけが響いていた。
レヴァンはアカネの手を握ったまま、俯いている。
「……それが、お前と最後に話した日だ」
眠り続けるアカネは何も答えない。
ベッドの下で、アウロは息を殺したまま動けずにいた。
聞いたことのない話だった。
アカネが深層で見ていた世界。
白いフードの男。
黒い影。
そして、自分ではない自分。
レヴァンは小さく息を吐いた。
「笑えるだろ」
「最強などと呼ばれていた男が」
「一度深層に触れただけで、このざまだ」
「だが今日決心をつけたよ。もともと、もう長く潜れる身体じゃない」
アカネの指先は動かない。
「お前は、まだあそこにいる」
「私の知らない家で」
「私の知らない家族と」
「私の知らない幸せの中にいる」
アウロは拳を握った。
爪が手のひらに食い込む。
「それでも」
レヴァンはアカネの手を強く握った。
「私は、お前を現実に戻したい」
「たとえお前に憎まれても」
「たとえ、お前の世界を壊すことになっても」
「私は」
言葉が途切れる。
レヴァンはゆっくりと顔を上げた。
「私は、お前の父親だから」
病室に沈黙が落ちる。
機械音だけが、規則正しく鳴っている。
「それに、あいつはもう十分だ」
その言葉に、アウロの息が止まった。
レヴァンは気付いていない。
眠るアカネに向けて、ただ話していた。
「十分すぎるほど、いい息子を持った」
「あいつは立派になったよ」
「お前が戻ったら、抱きしめてやってくれ」
レヴァンは小さく笑う。
「きっと、泣かないふりをする」
「昔から、そういうところだけは可愛げがない」
アウロは奥歯を噛んだ。
胸の奥が熱くなる。
今すぐ出ていきたかった。
勝手に終わったみたいに話すな。
まだ何も終わってないだろ。
そう言いたかった。
けれど、声は出なかった。
「すまない」
レヴァンは小さく呟く。
「私はまた、お前に怒られることをする」
椅子が小さく軋む。
レヴァンはゆっくりと立ち上がった。
アカネの前髪をそっと整える。
「また来る」
少しだけ間を置く。
「今度は、手ぶらでは来ない」
レヴァンは病室の扉へ向かった。
扉が開く。
廊下の光が細く差し込む。
足音が遠ざかっていく。
完全に聞こえなくなってから、アウロはゆっくりと息を吐いた。
ベッドの下から這い出る。
床に膝をついたまま、しばらく動けなかった。
「……聞いてないよ」
眠るアカネを見る。
「そんな話」
椅子に座る。
アカネの手を取る。
細い指は冷たかった。
「アウロもいるって」
アウロは小さく笑った。
「そいつ、絶対俺より性格悪いだろ」
返事はない。
「子どもまでいるってさ」
「ずるいな」
「俺、まだ何も聞いてないのに」
笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
アウロはアカネの手を額に当てる。
「幸せなのか」
その問いに答えはない。
もし本当に幸せなら。
連れ戻すことは、正しいのか。
レヴァンが壊そうとしているものは、アカネにとって本当に家なのか。
分からない。
何も分からない。
それでも、一つだけ分かっていることがあった。
「俺は」
アウロはゆっくりと顔を上げた。
「偽物に、君を任せるつもりはない」
アカネは眠ったままだった。
「待っててくれ。」
アウロはその手をそっと離す。
「本物が行くから」
病室を出る。
廊下には誰もいなかった。
面会時間はとうに過ぎている。
アウロは足音を殺して、病棟を抜けた。
地下病棟の重い扉が閉まる。
エレベーターで地上へ上がり、病院を出た。
夜の空気が頬に触れた。
街は何も知らない顔で光っている。
コンビニの看板。
信号機。
駅へ向かう人の波。
誰かの笑い声。
どれも現実だった。
天城が残したコマンダーのコイン。
使い方は分からない。
だが、ただの記念品で終わるとは思えなかった。
「VIGILの正規設備を使わずに潜る方法」
呟いてみる。
馬鹿げている。
正規部隊なら、聞いただけで鼻で笑うだろう。
それでも、フォレストには正規の道だけじゃない。
リーフはアンカーなしで現れた。
白いフードの男も、深層にいた。
なら、道はある。
知らないだけだ。
アウロは夜の街へ歩き出した。




