84 番外編38 金目鯛、獲ったの
「パパー。あな、きんめだい、とったのー」
娘のあまりに突飛な発言に、シリウスは思わず書類を書く手を止めてアナを見た。
それでもすぐに、アナがよくわからないことを言い出すのはいつものことだと思い直し、話半分で会話をしながら再び書類の作成のために手を動かした。
「海に釣りでもしに行って来たのか?」
そんな話は聞いていないのだが、最近は事後報告も多い。
近場でも一日で海まで行って帰って来れるかは微妙なところではあるが、不可能ではないのかもしれない。
「あな、まちいったの」
「街か」
ということは、市場で売っていた金目鯛を買って来た、という意味なのだろう。鮮魚が並んで売られているところを見たら大泣きしそうな気がするのに、アナは平気そうな顔をしてシリウスの足をよじ登って膝に乗ると、にこっと笑った。
もはや膝までは難なく登る。遠からず頭まで登りそうな勢いだ。肩車は肩に乗せるまでが難しいので、自分から登ってくれた方がやりやすくはあるが。あまり仕事中には乗らないでほしいが、頭までなら特になにも言わずに受け入れることに決めている。
アナは書きかけの書類を見て、「パパ、たのしー?」と訊いてきたので、「楽しいことはひとつもない」と正直に答えておいた。
好きでやっているわけではなく、仕事だからやっているだけだ。帳簿の数字がぴたりと合ったところで、なんとも思わない。合わなかったときに面倒だなと思うだけだ。何事も楽しいと思えるのははじめだけであり、それが日常になると後は淡々とこなすだけの習慣になる。
アナには好きな仕事を慣習化することなく、好きなまま続けてもらえたらと思う。
「あなねー、けーしゃん、ちょっとできるの」
「そうか。足し算でも教えてもらったのか?」
あまり期待せずに問うと、アナは自信満々に書類を両手で持ち上げ言った。
「はんがく!」
半額。
数字が出て来ると思ったら予想外の言葉が来た。
ひとまず書類は下ろさせる。アナの手形がついてしまったので、黙ってしわを伸ばす。多少くしゃっとしていても読めるので大丈夫だろう。
「はんがくせーるはねー、おねだん、はんぶんなの」
(計算……ではあるのか)
なぜ足し算より先に割り算を覚えたのかという謎は残るが、きっと街のせいだろう。どこかで半額セールをしていて、なにか買ってもらって覚えたに違いない。
「半額でなにを買ったんだ?」
「だんごむし」
「……」
そこらで捕まえたダンゴムシに手頃な値段をつけて子供に売りつける詐欺まがいの違法な店があるのか、それとも、なにかとダンゴムシを言い間違えているのか。願わくば後者であれ。
「はんがく、おとくなの」
「……そうだな」
その点は否定しないが、なにかしらの理由があって半額になっているのだから、場合によっては定価で買う方が得ということもある。
「あとねー、ざいこしょぶん」
「……在庫処分」
(とうとう計算ではなくなったな)
「ざいこしょぶんはねー、あかじ、かくごなの」
「……そうだな」
無駄な在庫を抱えているよりは、赤字覚悟でも売った方がいいとは思う。これも場合によりけりではあるが。
アナは傍らに置いてあった帳簿の赤い数字を指して言う。
「ここのじ、あか。これ、あかじ」
「違うな」
領地の経営は安定している。確かに赤いインクで記してあるが、勝手に赤字にされてはたまらない。
アナは書類を眺めるのに飽きたのか、自由気ままにジェノベーゼを机へと置いて、一番かわいく見える角度を模索し微調整をはじめるが、結局どの角度から見てもかわいいとばかりにため息をついた。どこから見てもかわいいのがぬいぐるみなのでこれは仕方がない。
(……しまった。半額のダンゴムシの謎が残ったまま話が終わってしまった)
しかし蒸し返すほどの話題でもない。
アナは書類に落書きしようとするので、いらない紙を滑り込ませて防いでいると、アナはたった今思いついたとばかりに振り返って言った。
「パパ、あなのきんめだい、みる?」
「……生きているのか?」
そのひと言で、金目鯛が生きている可能性が浮上してしまった。生捕りされた金目鯛が庭の池や噴水で泳いでいたりするのだろうか。
娘と首を傾げ合っていると、サフィニアがシリウスのために軽食を運んで来てくれた。そういえばコーヒーを飲んで食べた気になっていたが、朝も食べずに仕事をして、もう昼過ぎだ。
昔ならいざ知らず、今はさすがに体が持たない。休憩にしようとサンドウィッチを手に取った瞬間にアナが横からぱくりと食べてしまったので、仕方なくそれはアナに与えて、反対の手を伸ばした。
「さっきからアナが金目鯛がどうのと言っているが、金目鯛を飼うのか?」
サフィニアは金目鯛に覚えがないのか、目を丸くしていたが、しばし考えてから思い当たったのだろう、アナへ言い間違いを訂正した。
「金目鯛じゃなくて、金メダルでしょう?」
「きんめだい」
「金メダル? アナがか?」
アナは金目鯛が気に入ってしまっているので、もうそこは金目鯛でもいい。それよりもなぜ、アナが金メダルをもらうことになったのかの詳細を知ることの方が先決だ。
「街でのど自慢大会が行われていて、子供創作歌唱の部で、アナが金メダルを獲りました」
(子供創作歌唱の部……)
まるでアナのためにあるような部門だ。
もしかするとアナ以外出場者がいなかったのではないだろうか。たとえ出場者ひとりでも、金メダルは金メダルだ。
アナはいそいそと服の中から金メダルを取り出すと、シリウスへと見せた。
断りを入れて金メダルを触ってみたが、思ったよりもずいぶんと軽い。当然ながら素材は純金ではなく、木彫りのメダルだった。それでも表面に金色を塗りつけているので、それなりに手は込んでいる。
(忖度……は、ないか)
街ののど自慢大会である。忖度したところで誰の利もないだろう。
娯楽的な催しとはいえ、アナが金メダルを取った。
やはりアナの歌は世間に通用するもののようだ。
最近は絵に集中しているが、音楽家の道も捨てきれない。
「しかし、金メダルを取ったわりには冷静だな」
もっと大はしゃぎしてもいいと思うのだが。
シリウスが苺タルトを買って帰って来たときの方が倍は騒がしい。相変わらずアナの中で苺の価値は相場よりもずっと高かった。
アナはきょとんとしながら、金メダルを服の中へと丁寧にしまい込む。いまいち価値は理解していないにしても、大事にはしているようだ。
「もしかすると、金メダルの意味をあまりよくわかっていないのかもしれませんね」
「ああ、なるほど」
参加したら全員がもらえる記念品的なものだと思っているのか。
「アナ。金メダルとは、一番だと評価されることだ。二番では金メダルはもらえない。金色は一番の人しかもらえない色だ。わかるか?」
「きんめだい、きれい」
「金色は綺麗だな。アナとサフィニアの目の色だ」
アナは「そうなのー」と、こっくりとうなずいてから、ジェノベーゼを持ち上げた。
「でもねー、あな、みどりのおめめがすきー」
アナに好きだと言われた翠の瞳をきらきらさせたジェノベーゼが、しっぽをふぁさっとさせた。全身が喜びに満ち溢れている。
「翠のメダルは聞いたことがないが、これはアナの歌が上手だと評価された証だ」
「あな、おうたじょうずよ?」
それこそ世の真理とばかりの顔をするアナに、シリウスは一瞬言葉に詰まった。
「……そうか」
金メダルの価値を理解していないわけではなく、評価されることは当然の権利だと思っているだけかもしれない。
挫折して悲しむ姿を見るよりは、当然の結果だとばかりにきょとんとしている方がいいに決まっている。
この先、高い壁にぶち当たらないことを願うばかりだ。
「それで、どんな歌を歌って金メダルを? ジェノベーゼの歌か?」
「パパのおうたー」
「私の歌?」
そんなのレパートリーにあっただろうかと思っていると、アナはシリウスの膝から滑り降りて床に立つと、体を左右にゆらゆらさせながら笑顔で歌いはじめた。
「♪パパ、パパ、あなのパパー」
はじめて聴く新曲だ。即興でシリウスの歌を創作したのだろうか。もはや才能しかない。
「♪やしゃしー、かわいー、にんきものー」
のっけから本当に自分の歌なのかの疑問が生じはじめた。
「♪おともだちーは、ぬいぐるみー」
ぬいぐるみと関係を築いている父親をほかに知らないので、やはり自分の歌で間違いなさそうだ。
「♪おしごといっぱい、たいへんよー」
執務室に気ままに出入りするアナなので、シリウスの仕事の大変さをよく理解している。
「♪ママのおひざで、ひとやすみー」
それは知っていても黙っていてほしかった。
これを衆目の前で披露したのか。その場に知人がいなかったことを願うばかりだ。
「♪しーり、うーす、ばっろー」
だめだ。フルネームが出された。
ようやくシリウスの名前をだいぶきちんと言えたというのに、これは状況が悪過ぎる。
シーリ・ウース・バッローという名の他人がいないかと、一縷の望みに賭けるしかない。
「♪あーなーのーパーパー」
アナがにこにこしながらシリウスの足にしがみつく。
「♪ずぅーっと、いーっしょよ、だーいすきよー」
サフィニアがぱちぱちと拍手しながら上手ねと褒める。
シリウスは無言のまま、アナを抱きしめた。
ちょっと泣きそうになったのを隠すように。
言いたいことは多々あったが、むしろ言いたいことしかないが、それを差し引いて余りあるくらいに最後の一文が心に響いた。
間違いなく金メダルだ。
少なくともシリウスにとっては金メダル以上のものとなった。
↓後日、王太子の執務室で元気にパパの歌を披露するアナ
「♪ やしゃしー、かわいー、にんきものー」
「優しい!? かわいい!? 人気者!? そんなわけないだろう!?」
王太子が激しく突っ込みを入れるが、これはアナの主観の歌なので黙って聴いていてほしい。
「♪おともだちーは、ぬいぐるみー」
側近たちの、「……ああ、確かに」という声がそこかしこから聞こえてくる。なぜだ。
「♪ママのおひざで、ひとやすみー」
「シリウス……」
王太子の目がうるさい。うるさいのは口だけにしてもらいたい。
「♪しーり、うーす、ばっふぁろー」
「「バッファロー!?」」
アナの舌がうまく回らず、バッファローになってしまった。
この歌のモデルがシリウスだと世間に知れ渡るよりは、シーリ・ウース・バッファローという謎の人物に関する歌である方がいいのかもしれない。
後日一瞬だけ、暴れ馬のシリウス・バッファローという異名がついたが、馬なのか水牛なのかわけがわからないと不評だったらしく、結局暴れ馬のシリウスへと逆戻りしたという。




