83 番外編37 ぬいぐるみクリーニング
「やなのーーっ!!」
執務室に籠り仕事をしていると、どこからかアナの大絶叫が聞こえて、シリウスは一瞬ペンを持つ手を止めた。
「それっ、あなのでしょーー!? ママ、めっ! めーなのーー!!」
アナの叫びを聞く限り、なにやらサフィニアと一悶着を起こしているようだ。
一方的な娘の声でしか状況がわからないが、アナがなにかやらかしてサフィニアに叱られているのだとは思う。むしろ、それ以外にない。
「やぁぁぁーー!」
距離を隔てていても鼓膜に突き刺さる甲高い絶叫に、思わず両手で耳を塞いでいた。これではまったく仕事にならない。
慌てて様子を見に行くと、案の定と言うべきか、ダイニングの床にうずくまり咽び泣くアナの姿が最初に目に飛び込んできた。
「あなの……あなの、なのに……!」
アナの正面には叱る顔つきをしたサフィニアが立っており、なんとなく腰が引けて介入するのに躊躇してしまった。下手にアナを庇えばこちらに飛び火することは間違いないので、正確に状況を見極めなくてはと黙って見守る。
「ママ、あくまなの……」
床が滑るのか、うごうごしているせいでアナの足は踏ん張りが効かず、ずりずりと後ろへと伸びていき、もはや地面にへばりついているようにしか見えない体勢だ。
「あくまの、もうしごなの……」
「ママは悪魔でも悪魔の申し子でもありません」
シリウスはその手の陰口を言われ慣れているのでなんとも思わないが、サフィニア相手にこの暴言はまずい。真顔をこれ以上真顔にするのはやめてほしい。真顔の上位互換があることなど知りたくなかった。
「いじめなの……」
「いじめじゃないでしょう?」
「いじめなの」
言うことを聞かないアナに疲れたのか嘆息するサフィニアへと、意を決してシリウスは声をかけた。
「なにがあった?」
サフィニアは、これを見てください、とテーブルに横たわっていたジェノベーゼとカプレーゼを手で示す。シリウスはその手につられるようにそちらへと目をやり――ぎょっとして、慌てて二匹の元へと駆け寄った。
「どうした!? 血まみれではないか!」
まるで鈍器に殴られたかのように頭部と鬣を真っ赤に染めたジェノベーゼと、返り血を浴びたかのように体に点々と赤が飛び散ったカプレーゼに血相を変えたが、近づいてみればすぐにそれが勘違いであることに気がついた。
「……これは……ケチャップ、か?」
「ええ。ケチャップです」
なぜかケチャップまみれになっているジェノベーゼとカプレーゼは、切ない目をしてシリウスを見上げている。
「これは完全にしみ抜きはできないかもしれません。だからすぐに専門のお店にお願いしないと。カプレーゼは特に生地が白いので、このままだとしみが残ってしまうと言っているのに……アナが」
「やなのー!」
肝心のアナが、ジェノベーゼとカプレーゼを店に預けることを拒否しているらしい。
「ケチャップがついたままでいいの?」
「けづくろい、するの! へいきなのー! ……へいき、なのにー……」
確かにぬいぐるみも毛繕いくらいはするが、これは平気ではないだろう。毛繕いでどうにかなる域を超えている。茶色のジェノベーゼはまだしも、白いカプレーゼには致命傷だ。
「カプレーゼだけで早くもしみ抜きしてもらった方が……いや、ジェノベーゼも、これは……」
自慢の鬣がケチャップの塊と化している。下手に素人が汚れを落とそうと擦ると、最悪絡まってしまうだろう。
「うわぁぁぁぁん!」
シリウスの冷静な分析を聞いていたアナは、サフィニアの肩を持ったと思ったのか大泣きしはじめた。
さすがにこの状況で娘の肩は持てない。それにどちらかと言えば、シリウスが持ったのはぬいぐるみの肩である。どう考えても被害者はこの二匹だ。
「そもそもはアナがケチャップをこぼしたのが原因だろう?」
「そうです。わたしがかけるからちょっと待ってねと言ったのに、無理に瓶を横取りして追いケチャップをして。それで目測誤って二匹に、ベシャッ、と」
「追いケチャップ……」
ジェノベーゼの方がケチャップのかかった量が多いあたり、身を盾にしてカプレーゼを庇ったのだろうことが窺えるが、それでも完全には防ぎきれなかったのだろう。その翠の瞳には忸怩たる想いが滲んでいる。
「あな、できるこなの! ……できるこ、だったのー……」
アナの中ではできる予定だったらしい。
なんでも自分でやりたがる娘だ。はじめからできないと諦めるよりは、果敢に挑戦する姿勢は評価できるが、令嬢らしく静かに食事できる日がきちんと訪れるのか不安だ。そもそも普通の令嬢は追いケチャップなどしない。というか、追いケチャップとは一体なんなのか。
「お風呂に入って、しみ抜きをしてもらって、ジェノベーゼはいつもよりずーっと綺麗になって帰って来るのよ? それでも嫌なの?」
アナに言い聞かせるサフィニアに一瞬同意しかけたが、少しばかり引っかかりを覚えて妻を見た。
それつまり、いつものジェノベーゼは綺麗ではない、と。サフィニアもそう言いたいのだろうか……。
「きれいなじぇのべーぜ、じぇのべーぜちがうの! ばったもんなのー!」
応じるアナの言葉にも同様に引っかかった。
ジェノベーゼは綺麗でない、と。アナもそう言いたいのだろうか……。
いい加減ジェノベーゼも傷ついていないだろうかと顔色を窺ったが、頭についたケチャップが気になるようで、テーブルクロスに擦りつけるに忙しい。テーブルクロスは替えがあるのでいいが、余計絡まらないだろうか。
反対にカプレーゼは話が終わるのをじっと待っている。なんでもいいから早くして、とばかりの瞳で、じっと。
これは早めに洗ってやった方がよさそうだ。
「おふろ、きゃんせるなのー!」
「キャンセルしません」
アナはなにがそれほど嫌なのか。手を離れた際に偽物にすり替えられるかもしれないと不安視しているのだろうか。
「じぇのべーぜ、ひょうはくしちゃ、めっ、なのーー!」
「いや、ぬいぐるみは漂白しないだろう」
詳しくはないが、おそらく。
それに今さらジェノベーゼが白馬になられても反応に困る。カプレーゼと色々とややこしくなりそうだ。
サフィニアとの問答の最中にシリウスが無遠慮に口を挟んだのが気に障ったのか、アナはぺちぺちと床を叩いて抗議した。
「パパ、すっとこどっこいなの!」
「す、すっとこどっこい……?」
そんな言葉、生まれてはじめて言われたのだが。
その口振りや語調からして悪態だったのだろうが、どう受け止めればいいのか正解がわからない。未知の言葉との遭遇に、なによりも驚きが勝っている。
「アナ! パパはすっとこどっこいじゃないでしょう。パパに謝りなさい」
「やっ! パパ、てきなの!」
「パパはぬいぐるみの味方なだけです」
「うぅぅぅ……!」
アナが反論できず、床にへばりついたまま、じたばたしながら全身で反抗している。
しかし……シリウスがぬいぐるみの味方なことは共通認識なのだろうか。まあ、事実ではあるのだが。
「あなと、じぇのべーぜ、ずっといっしょなのー……。えいきゅー、はめつなのー!」
(永久不滅だな)
破滅してどうする。
要するにアナは、単純にジェノベーゼたちと離れることが嫌なのだ。今からしみ抜きを頼むとなると、今日中には終わらない。数日離れ離れとなるだろうことをわかっていて抵抗しているのだ。
このまま膠着状態が続いても拗れるだけなので、シリウスはひとつ提案した。
「そういうことなら、アナが自分で洗いなさい」
人に任せるのが嫌なら自分でやるしかないのだ。
アナはようやく顔を上げ、シリウスを見た。涙でべしょべしょだが、その目にはほんのわずかな期待がある。
「……おみせ、いかない?」
「行かない。その代わり、アナが自分の手で、二匹を洗って綺麗にすること。いいな?」
もうそれしか方法がない。
サフィニアが小声で、「大丈夫ですか……?」と訊いてくるが、一度自分でやらせてみないことには諦めもつかないだろう。その結果だめなら、いよいよぬいぐるみクリーニングの店に依頼すればいい。
問題が解決しないことにはシリウスの仕事は進まない上、早くしないとジェノベーゼとカプレーゼに致命的なしみが残る可能性が高まるのだ。こちらは時間との戦いである。
「そうと決まれば、執事長」
呼ぶとすべて承知とばかりの執事長が、人肌温度のお湯を張った洗濯用の金だらいを持って来た。相変わらず仕事が早い。早過ぎる。
だが、執事長に先を読まれているのはいつものことだと、シリウスは意識を切り替えた。今は細かいことを気にしている場合ではないのだ。
サフィニアがテーブルの上に置かれていたジェノベーゼとカプレーゼをアナへと返すと、ケチャップ汚れをものともせずに慌てて抱きしめた。二匹がアナにとって大事なぬいぐるみであることには間違いない。
「アナ。早く洗わないとしみが残るぞ」
促すとアナは慌ててお湯にジェノベーゼとカプレーゼを順番に浸からせた。ちょうどいい湯加減なのか、肩まで浸かった二匹は汚れも忘れてまったりとしている。
「執事長、石鹸はあるか?」
「こちらのぬいぐるみ専用石鹸をお使いください」
差し出されたのは、見覚えのある馬の絵――ジェノベーゼオリジナルと同じ絵と刻印がされた石鹸だった。
「……作ったのか」
「こちらはまだ試作の段階ですが、ゆくゆくは商品化を狙っております」
こんな限定的な石鹸、需要があるのだろうか。疑問に思ったが、現にこうして必要としているシリウスの手の中にある。
試しにお湯の中で石鹸を擦ってみると、思ったよりもきめ細かな泡が立った。香りきつくないところは、ぬいぐるみに強い香りが残らないようにとの配慮だろう。
「アナ。まずはカプレーゼからね」
サフィニアに言われて、アナはカプレーゼにお湯をかけると、マッサージのように揉み揉みと洗いはじめた。ある程度はお湯でも落とせるが、白いとどうしても汚れが目立つ。斑点のようにケチャップが飛び散った部分へと、シリウスが手渡した石鹸を入念に擦り込んでいく。
サフィニアがアナのおままごと用のコップを持って来て、お湯を掬うとカプレーゼの背中へとかけて泡立ちを落としていく。それでもまだしみは残っており、一度で落ちるほどあまくはないかとシリウスは肩をすくめた。
アナは難しい顔をしていたが、またカプレーゼの体を丹念に指で揉み込んでいく。そして再びコップでお湯をかけたが、やはり綺麗な白とはほど遠い。
サフィニアが思案しながら言った。
「カプレーゼは少し、つけ置きした方がいいかもね」
「つけひげ……」
そんなことは言っていない。
そしてなぜシリウスを見るのか。
「つけ置きだ。あまり擦ると生地や中綿が傷むだろうから、カプレーゼは泡に浸からせて置いておく。その間にジェノベーゼを洗ってやりなさい」
アナは不安そうにカプレーゼを見ていたが、諦めてジェノベーゼに取りかかった。こちらはしみより鬣だ。カプレーゼと同じ要領で擦ろうとしたアナを、すかさずサフィニアが止める。
「ジェノベーゼは鬣が絡まるから、擦ったらだめよ? 髪を櫛で梳くように、そっとね」
こっくりとうなずいたアナは、泡の載せられたジェノベーゼの頭を撫でるようにケチャップ汚れを落としていく。鬣さえ気をつければ、ジェノベーゼはある程度見られる姿になった。
ただ、元が茶色なので、生地への侵食具合がわかりにくい。一見汚れが落ちているように見えて、内部にケチャップ汚れが残っていると厄介だ。
「今度はジェノベーゼを漬け置きして、カプレーゼに戻るぞ」
もこもことした泡を頭につけられたジェノベーゼから、優雅に泡風呂を楽しんでいたカプレーゼへとアナは手を伸ばす。
「かぷれーぜ、しろになる?」
「……それはまだわからない」
それでもつけ置き効果がわずかでもあったらしく、汚れ自体はかなり落ちているが、真っ白とは言い難い。それに乾かしてみないことには元のように戻るかは誰にもわからなかった。
しかしアナは泣き言を吐くことなく、丁寧にカプレーゼとジェノベーゼを泡立ちがなくなるまで洗いきると、掃き出し窓をよいしょと開けて、日当たりのいい床に二匹を並べて置いた。
ちょうど風もあるので、夜までにはどうにか乾きそうな様子だ。
「一見すると綺麗にはなったようには思うが……」
「そうですね。なんとかなって本当によかったです」
ぬいぐるみクリーニングをお願いすれば確実に綺麗になっただろうが、できるだけのことはやった。
アナは二匹のそばで、励ますような声をかけつつ、乾くのを待っている。
「じぇのべーぜ、ふぁさふぁさよ? かぷれーぜ、まっしろよ?」
褒めたら伸びるように、褒めたら綺麗になると思っているのだろうか。アナは一生懸命褒めて回る。
「かわいー、おうましゃんよ?」
日光浴をする二匹は日差しが心地いいのか、うつらうつらしながら目を閉じている。
乾くまでまだ時間がかかりそうで、アナはそわそわしてから、サフィニアのところまでとことこ歩いて来ると、勢いよくばぶっとスカートに抱きついた。
「ママ、ごめんなしゃい……」
自分で考えて自分から謝ったアナに、サフィニアは優しい表情でその頭を撫でた。
「あなねー、わるいこした……」
「なにが悪い子だったか、わかる?」
「けちゃっぷ」
「そうね。ケチャップの瓶は重いから、ママと一緒じゃないとだめよ?」
「うんー」
「ジェノベーゼとカプレーゼにも、ちゃんとごめんなさいをするのよ?」
「うんー」
「ほかには?」
「ママのあんよ、みじかいって、ゆったの……」
言っていない。
シリウスは記憶をたどったが、やはり言っていない。
アナが心の中で思っていたかもしれないが、口には出していなかった。
サフィニアが今日一番傷ついた顔をしている。
しかし気づかない娘はサフィニアを放置して、今度はシリウスの足にしがみついて来た。
「パパも、ごめんなしゃいなの」
「あ、ああ……」
すっとこどっこいの件はまったく気にしていない。むしろ悄然と足元に目を落とすサフィニアが気になって仕方ない。
「あな、わるいこ?」
「謝れる子はいい子だ。今はジェノベーゼとカプレーゼについていてあげなさい」
大きくうなずいたアナは、また褒めて伸ばす作戦で二匹を讃え、シリウスはそっとサフィニアの落ちた肩へと手を回し、娘の代わりに妻を労り慰めた。
夜、シリウスはすっかりと綺麗になったジェノベーゼとカプレーゼをそれぞれの手に持ち、重さを確かめながら首捻っていた。
(大きくなった……か?)
水に濡れると成長しがちのジェノベーゼのように、カプレーゼも成長するかと思われたが、特に目立った変化はない。
むしろそれが普通であるのだが、シリウスはジェノベーゼ慣れしているので、カプレーゼに変化がないことを怪訝に思い、つぶさに観察するが、やはり大きさはそのままだ。
(成長こそしなかったが、白さは増した……か?」
洗ってさらに白さに磨きがかかったような気がする。
ならばこれもひとつの成長だろう。
ようやく納得すると、疲れてよく寝るアナの腕にへと二匹を返却した。
なお、後日再びジェノベーゼとカプレーゼは調味料を頭からかぶることになるのだが……それはまた別のお話。
「パパ、すっとこどっこいなの!」
誰も気づきませんでしたが、アナが言いたかったのは、
「パパ、すっこんでろなの!」
でした。




