81 番外編35 アナ、モチベーション低下中
城への泊まり込みが確定してしまったため、荷物を取りにシリウスが一時帰宅すると、玄関のエントランスの中ほどで、大の字で寝転がっている娘と遭遇した。
「なにがどうなったらそうなる?」
慌てて駆け寄ったが、転んだわけではなさそうであり、抱き起こすより先に、そばで困り顔をしていたサフィニアへと状況説明を求めることにした。
「なぜアナはそこで寝ている?」
「シリウス様のお出迎えに来たのですが、ここで急に力尽きてしまったのか、ごろん、となってしまって」
「ごろん、となったのか」
ドアまでの後ほんの数歩分、どうにか気力で持ち堪えられなかったのだろうか。しがみつかれる予定だったシリウスの足が寂しさを訴えている。
「すぐに起こしますね」
「いや、いきなり動かさない方がいい」
大丈夫だとは思うが、シリウスは慌てて起こそうとするサフィニアを制し、念のためアナに尋ねた。
「どうした? もしかして、どこか痛いところがあるのか?」
「あな、つかれたのー」
「走って疲れたのか?」
「ちがうのー。つかれた、なのー」
「つかれた……? ……もしかして、突かれた、か?」
一体なにに突かれたのか。
このバロウ家にアナを突く人間などいない。たまにサフィニアがアナのふっくらした頰をちょんと突いたりもしているが、あれは別としてだ。
「誰が突いたんだ。グスタフか?」
「きょ」
「きょ?」
きょ、とは。
「……まさか、虚を衝かれたのか……?」
なにがどうなったら三歳児の虚が衝かれるのか。
「意味をわかって言っているのか?」
「きょ」
この様子だと、ただ虚と言いたいだけの気もする。
急病というわけでもないことはよかったのだが、訳がわからない。
「アナの虚はどこかな?」
アナの言動に慣れているサフィニアがアナのぽっこりお腹をちょんちょんと突きながら問うと、アナはくすぐったかったのか手足をばたつかせてきゃっきゃと笑った。
「ちがうのー。そこ、おなかなのー」
「じゃあここかな?」
「そこ、あんよでしょー?」
妻と娘がじゃれ合う姿は見ていて和むが、できればエントランスの床以外でやってくれないだろうか。
「アナ。そろそろ起きなさい。自分で起きられるだろう?」
「やー」
「嫌なのか」
「あな、もちべ、ないのー」
「もちべ……モチベーションか? モチベーションがないのか?」
子供にモチベーションなどわかるものなのだろうか。
しかしアナは起き上がる気力はとうに失われたとばかりに、五体投地で天井を見上げている。
「パパ、あなのしかしゃん、こえてー」
「アナの鹿? アナのぬいぐるみは馬だろう」
アナと一緒に転がっているジェノベーゼが、見知らぬ鹿の登場に動揺している。サフィニアに抱っこされているカプレーゼは、鹿にも馬にも興味がなさそうに澄まし顔をしているが、ジェノベーゼはアナの相棒としての自負がある。その座を他に譲る気はまったくないのだ。
「あな、しらかばなのー」
「白樺?」
もしや伐採された白樺を模して、過剰な森林伐採への抗議を全身で訴えかけているのだろうか。
シリウスが真剣に考え込んでいると、サフィニアが困り顔で通訳した。
「たぶん、自分の屍を超えて行け、と言っているのだと思います」
そんな言葉、誰が教えた。
普段使いするものではないので、本かなにかで知識を得たのだろうが……。
「それは真似しちゃだめって言ったでしょう? みんな見て見ぬふりをしていたでしょう?」
いや、違った。どこかで見たのを真似しただけのようだ。
一体どこの誰だ。そういう子供の教育に悪いことを平気で行う大人は。
「あなの、しらばす、こえるのー」
なぜシラバスなんて知っているのか。絵画教室で使っているのだろうか。
しかし、口にする度に言葉が変わっていく。
「パパ、あな、こえてー」
アナはおそらく、自分を跨いで行け、という意味で使っているのだろうが、不謹慎なことに変わりない。
「娘を跨いで行けるわけないだろう。そういう不謹慎な遊びをするのなら、もう起きなさい」
ぐでんとしているアナを抱き起こすが、脱力しているのでいつもよりも重たい。もちろん日々の成長も積み重なって体重が増しているせいもあるのだが、久しぶりの軟体生物の登場だからだろう。アナのモチベーションは、背骨の強度と比例しているに違いない。
落ちないようにしがみつく気はないらしく、手のひらでしっかりと背中を支える。そして不恰好ではあるが、そのままサフィニアへと腕を向けた。
瞬いていたサフィニアは、シリウスの腕を見て、その意図に気づいたのか、微笑みながらそっと腕に手を添える。
「リビングはすぐそこですよ?」
「すぐそこでも、妻をエスコートしてはいけないわけではないだろう?」
「新婚さんみたいですね」
「まだ新婚みたいなものだろう」
そこでお互いに色々思い出してしまい、妙にあま酸っぱい空気を霧散できないまま口を閉ざして歩き出した。
そんなシリウスたち夫婦の様子に、アナはジェノベーゼと一緒に少し首を傾げていたが、機嫌を直したのかちょっとだけ笑顔を見せている。
しかし未だモチベーションは低下中なのか、ソファに下ろしたがすぐに横へと転がってしまった。サフィニアが腰かけるといそいそと近寄りその膝に頭を乗せたが、起きる気はないようだ。
「パパ、いっしょに、ねんねする?」
「そうしたいのは山々だが、今からまた仕事だ」
そう言うとアナのモチベーションがまた急降下したのか、やる気が出ないとばかりに手足を投げ出した。それでもジェノベーゼは投げ出さなかったところを見ると完全に脱力しているわけではなさそうだ。
このまま放置するのもどうなのかと、せめて執事長に荷物の用意を頼んでいる間だけでもそばにいようと決めてそばに腰を下ろすと、アナはシリウスをちらりと一瞥してから、ジェノベーゼへと話しかけた。
「まぶはねー、いもうとなの」
「……」
「いいなぁー」
「……」
「あな、ぐすたふしか、こないのー」
グスタフが来るだけでもいいではないか。普通の人のところには来ないのだから。
「いいなぁー」
「……」
シリウスの不甲斐なさを遠回しに責めているのか、いいなぁー、が使いたいだけなのか、判断が難しい。
「パパおしごと、いいなぁー」
「アナにもお絵描きという仕事があるだろう」
「おしろでおしごと、いいなぁー」
「城には気軽に足を運んでいるだろう」
「いいなぁー」
「殿下の補佐をしたいのか?」
アナはきょとんとしてから、ジェノベーゼのしっぽをふぁさふぁさ揺らし、「しっぽ、いいなぁー」と言う。
王太子の補佐は、嘘でもいいなぁーとは言わなかった。
確かに王太子の補佐を誰かにうらやましがられたことはないが。
実際今日も、王太子が後先考えずに王太子妃の懐妊を叫んだせいで、噂を聞きつけた者たちが次々に祝いに来たため、対応にかなりの時間と労力を取られて仕事どころではなくなってしまった。
大臣たちからは祝いの品を用意して後日改めて伺うと連絡が来たが、それはそれで迎え入れるための場所や時間などの用意に骨が折れる。
糸電話という、ある意味機密性の高い通信方法を取りながら、内容を大声で叫びすべてを台なしにした王太子だったが、王太子妃はそこまで織り込み済みでのあのタイミングだったのかもしれない。
どうせ王太子が知ったら隠そうとしても全身からダダ漏れになるのだ。仕事の機密保持はできても、妻子に関しては口が緩む。
「……そういえば、なぜ殿下のボトルシップが壊れたのか、知っているか?」
サフィニアに尋ねると、急に身を固くしたアナが不自然に顔の前にジェノベーゼを翳した。
アナは焦った顔を隠しているつもりかもしれないが、代わりにジェノベーゼが焦っているのでなにも隠せていない。
「……。アナ?」
「あな、ちがうの。まぶなの」
この娘……直接ではないにしても、間接的に関わっている。
「どういうことだ?」
「侍女様たちからの伝聞なので詳細はわからないのですが、瓶の中に船があるということが不思議で、どうしても気になったのか、ふたりでどうにかして船を出そうと、揺すったり、水を注いだり、ペンを突っ込んだりしたそうです」
それは壊れる。
子供の目を通すと不思議なものであり、瓶の口が狭くとも中に入れられたのだから、外に取り出せるはずだと思ってしまうのも、わからなくはない。
壊したことは悪いことではあるが、故意ではなく、そもそも王太子が子供の手の届く場所に置いたのが悪い。
「侍女たちは止めなかったのか?」
「王太子様の私物はどうなってもいいそうです」
王太子妃の日頃の恨みの根が深い。
シリウスは一度咳払いをしてから、アナへと言い聞かせた。
「アナ。だとしても、そういうときはきちんと謝らないとだめだろう?」
「めがみしゃまが、いいって、ゆったのー」
それは言うだろう。嬉々として言うだろう。
「わたしも謝った方がいいとは思ったのですが、必要ないと言われてしまうと、どうにも……」
サフィニアでは王太子妃の言うことに逆らえないだろうから仕方がない。
「アナ。これは人としての問題だ」
真面目な顔をするシリウスに、アナは目をうろうろとさせると、
「あな、おうましゃんかも……」
なぜだ。
「馬ではないだろう?」
ジェノベーゼもびっくりしている。
「じゃあ今度、ママと一緒にごめんなさいをしましょうね」
「うんー」
「えらいな」
素直にうなずいたアナを褒めると、むくりと身を起こして宣言した。
「あな、かんがるー」
がんばる、と言っているらしいが、奮起しないと謝れないほど謝るのが苦痛なのだろうか。
「それほど嫌なら代わりに謝罪しておくが……」
子供がしでかしたことを親が謝っても問題ない。あっさりと意見を翻すシリウスに、アナは毅然として言った。
「もちべ、だだしゃがりよ? でも、あな、できるこなの」
「……」
「がまんの、ときなの」
「……」
「しかばね、こえるの」
ようやく言い間違えることなく屍と言えたアナだが、今度は、自分を超える、という意味で使っている気がする。
相変わらず言葉の使い方がどこかおかしい娘だった。
【後日談】
「げぼくしゃん」
「なんだ?」
「ごめんなしゃいなの」
「?」
きょとんとする王太子に、アナは笹で作った笹舟を手渡した。
「あわび」
(あわびではなく、お詫びだ)
シリウスは心の中で訂正を入れた。
「あわび? 言われてみると貝の形に似ていなくもない……か? よくわからないが、上手に作ってあるな。これ、水に浮くのか?」
「? おふねはねー、おみずに、うくのよ?」
「それはそうだが……」
「おみずにねー、うかないの、おふねちがうの」
「た、確かに」
「ばとるしっぽ、おふねの、ばったもんなの」
「バトルしっぽ……?」
戦うしっぽがボトルシップのことだと気づかない王太子をよそに、アナは外を指差した。
「おふねうくの、みる?」
「おっ、いいな。噴水にでも浮かべて、船遊びでもするか。せっかくだから、ジョシュも誘おう」
早速とばかりにジョシュア王子を誘いに執務室を飛び出す王太子に、仕事してください、と言ったシリウスの声は華麗に無視された。
「行くぞ、シリウスの娘!」
「うんー!」
「……」
モチベーションだだ下がりのわりに、仲のいいふたりだった。




