■ 8
リンリンが目を覚ましたとき、空は茜色に染まっていた。
ぐっすりと眠ったので、精神的にも余裕ができたし、身体は絶好調だ。
枕代わりにしていたクッションに、よだれのシミができていたのにはびっくりしたが、そっと裏返してなかったことにした。
リンリンは大きく伸びをし、備えつけのバスルームをチェックしたあと、スプリングの効いたベッドへ勢いよくダイブする。ぴょんぴょん飛び跳ねて遊び、次第にそれにも飽きてきた。
それにしても大変なことになってしまった。
(ジル様もよくあんな人混みの中から見つけられたわよね)
きっと視力がいいのだろう。追いかけるとき、大変な騒ぎになったという。走るパレード車から飛び降りたのだろうか? であれば、やっぱり竜族の身体能力は高い。
(足の速さも尋常じゃなかったしなぁ……あっ! そういえばっ)
「私のタルトタタンがぁ~!」
楽しみにしていたパンやお菓子を落としたことに、はたと気づいてリンリンは絶叫した。
ドンッ、ドンッ、ドン!
「大丈夫ですか!? 何かありましたか?」
声が外に漏れたらしい。すぐさま扉を叩く音と護衛の声がする。
リンリンは慌てて、部屋の外にひょっこりと顔を出して「大丈夫です」と告げた。
「お騒がせしてすみません」
「いえ、いいんです。ちょっと暗くなってきましたね」
リンリンは夜目が利くので気にならなかったが、辺りは暗くなりつつある。
親切な女性の護衛がパチリと照明のスイッチを入れ、メイドを呼びに向かった。
パッと明るくなった室内で、リンリンはこっそりと綿毛布を畳み、遊んで乱したベッドを整え、何もなかったように取り繕う。
ちなみに、シベンナ王国は裕福な国である。
白亜の宮殿、レンガ造りの家、石畳の小道、街並みこそ中世さながらの景観を保っているが、その中身は意外とハイテクだ。
照明はランタンではなく電灯だし、空調は自動で一括管理。上下水は完備され、お風呂はシャワー付きである。調理は薪ではなくガスコンロを使用している。
それが王宮だけでなく、一般家庭にも普及しているのだ。
道路は計画的に整備され、清潔で治安がよい。
いまだ他国が馬車で移動するのに対し、この国では自動車だ。自動車は高級品のため富裕層しか持っていないが、庶民はバスを利用している。
竜族の知性のなせる業であり、その技術は他国の二歩も三歩も先を進んでいる。
そのため、国民の生活はとても便利だ。
ものぐさリンリンが一人で安穏と暮らせるのも、竜族発案の「自動お掃除ロボ」とスイッチ一つでお湯が沸く「湯沸かしポットくん」のお陰である。
(お隣のスピレル国では、井戸水を汲んで、薪の竈で調理している村もあるらしいけどね)
王宮の煌々と灯る照明を見上げ、この国の住人でよかったとリンリンはしみじみ思うのであった。
しばらくして、メイドが紅茶を運んできた。トレイには、パウンドケーキとクッキーの皿がのっていて、ちょうど小腹が空いていたリンリンには大助かりである。
「国王居住区専用メイドのアンナと申します。よろしくお願いします」
アンナは丁寧にお辞儀をして、じっとリンリンを見つめた。
「あ、リンリンです。こちらこそ、よろしくお願いします」
メイドの値踏みをするような視線にドギマギしながら挨拶を返す。
その瞬間、アンナは今にも襲いかかりそうな、すごい勢いで話し始めた。
「きゃ~、可愛いっ! あなたが陛下の『番』ですの? そりゃもう宮殿中の噂になっていますのよ。どんな方なのかって、皆、興味津々ですの。私、質問攻めにされそうだわ!」
「はぁ」
「この耳は猫族かしら? ニャンコちゃんはこの王宮でも人気なんですのよ。羨ましいわぁ。私は野ウサギの獣人なんですけれど、平凡な茶色の耳と髪なんですもの」
「はぁ」
「あ、申し遅れました。私、ここに勤めて九年目の十八歳。これでもメイドの中ではベテランなんですの。困ったことがあれば、なん何なりとおっしゃってくださいませね。御用の際はこのベルを押してください。すぐにメイドがまいりまぁす」
「はぁ」
リンリンは、アンナのよく回る舌に圧倒されてしまった。
アンナによると、国王居住区専用のメイドは三人。ほかに料理人と下働きがいるとのこと。住んでいるのがジルだけなので、これでも使用人の数は少ないそうだ。
「それから、リンリンさんのプライバシーについては、私共には守秘義務がございます。魔術契約による紋を刻んでおりますので効力は確実。ご安心ください」
魔術契約とは、古より竜族に伝わるポピュラーな術の一つで、約束を確実に行使するためにある。
守秘義務契約は王宮で働く人のほかに、最先端技術の機密保持を目的に研究員や技術者と結ぶのが一般的だ。
この世界で魔術が使えるのは、竜族と魔女、魔術師だけである。
武芸、科学だけでなく、魔術にも明るい竜族は、本当に何から何まで規格外なのだ。
それは竜が「霊獣」と呼ばれる神に近い存在であるからと言われている。ほかにも女神の夫が竜なのだとか、諸説ある。竜族が獣人ではなく竜人と呼ばれる所以である。
「たとえ私がうっかりリンリンさんのことを、陛下以外の誰かに話そうとしても、声が出なくなるんですの」
だから自分のようなおしゃべりな獣人でも、ここのメイドが務まるのだ――と、ふふふと笑いながら、アンナは手のひらをリンリンの目の前に広げてみせた。そこには小さな花びらの紋様が浮かんでいた。
それから「では、ごゆっくり」と部屋を出て行った。
リンリンは、ぽつんとテーブルの席に腰かけた。
(どうやら部屋の中では、一人にしてくれるみたいね)
護衛かメイドがずっと部屋の隅に控えていることを想像していたので、リンリンは安堵した。
誰かに四六時中見られていては緊張してしまう。ソファに寝そべったりできないし、手づかみでケーキにかぶりつくなど以ての外だろう。
さっそくリンリンはお菓子に手を伸ばし、皿の横に添えられたフォークを無視してポイと口の中に放り込んだ。バニラの甘い香りがする。
(さすが王宮の料理人が作るスイーツね。すっごく美味しいわ)
モグ モグ モグ モグ……ムシャムシャ……ポリポリ ポリッ………。
出された紅茶とお菓子を余すことなく堪能する。
リンリンはパウンドケーキで頬をパンパンに膨らませた顔をふと上げると、バスルームとは別にもう一つ扉があるのに気がついた。
(クローゼットかしら……?)
開けてみると、そこにはもう一つ寝室があった。
(…………)
そのままパタンと扉を閉める。
ジルの部屋だった。
二つの部屋は、中央の内扉を開けば自由に行き来できる作りになっているのだ。
確か隣室と言っていたと思い当たり、リンリンの顔はボワッと真っ赤になった。
(な、何よっ、隣室と言っても、これじゃ同じ部屋みたいなものじゃないのっ!)
すっかり狼狽してしまったリンリンは、意味もなくグルグルと部屋の中を歩き回り、いつの間にかバルコニーへ出ていた。日没後のひんやりとした空気に熱い頬をなでられて、やっと少し冷静になる。
「はぁ~、やられた。さてはレベッカさん、最初からそのつもりだったわね」
リンリンの味方のようでいて、そうではない。最終的には国王であるジルの希望を叶えるレベッカは、自己紹介の言葉どおり優秀な「陛下の補佐官」なのだ。
今さら、ジタバタしても仕方がない。リンリンは覚悟を決め、どうせなら王宮生活を満喫してやろうと気持ちを切り替えることにした。
(そういえば、今夜は打ち上げ花火があるのよね)
当初の予定では、噴水広場の南側にある時計台からニャンコ姿で見物するつもりだった。
今から時計台へ行くのは無理なので別の場所を探そうと思い立ち、リンリンはバルコニーから身を乗り出す。
(やっぱり屋根かなぁ~?)
王宮に留まるように言われているが、部屋から出るなとは言われていない。まさか法律に触れることはあるまい。
この建物のいいところは、至るところに装飾の突起があって、足場に困らないことだ。
ウサギ族のように耳がいいわけでも、ネズミ族のようにすばしっこくもないが、猫族はバランス感覚だけはいいのだ。
獣化しない限り、日常生活ではあまり役に立たないのだが……。
「よしっ」
リンリンは黒猫に姿を変えると、気合を入れてバルコニーの手すりにピョンと飛び乗った。しかし、そのはずみで着ていたワンピースが、手すりの外側へひらりと落ちてしまう。
(しまった! おろしたてのワンピースが!)
部屋の中で獣化すればよかったと後悔したときには既に遅く、ワンピースは暗闇へ吸い込まれていった。
今日は厄日だ――。
めげそうになりながらも慎重に足場をつたい、屋根を目指して足を進めた。
リンリンの行動は、いつも行き当たりばったりである。
バルコニーに転がった靴。城外に落下した、着ていたはずのワンピース。本人不在の部屋。
それらを目の当たりにしたメイドが、どのような反応を示すのか。
リンリンは、想像だにしていない。
「ど、ど、どうしましょう。陛下の『番』がどこにもいらっしゃいません!」
食器を下げにやってきたメイドのリタにより、急ぎ補佐官レベッカ・エメに報告がなされ、公務中のジルが驚愕のあまり顔色を失ったのは、リンリンが部屋を抜け出してからしばらくたったあとのことであった。




