■ 38
空は晴れ渡り、ジルの機嫌はすこぶるいいようだ。
ようやく最愛の「番」と結ばれ、彼女から放たれる自分の匂いをスンスンと嗅いでいる。その表情は至福そのものだ。
「ちょっと! 変態っ!」
少しくらいリンリンに罵倒されようが、どこ吹く風でべったり張りついている。
(どこが自分の匂いが染み込むまで、よ! 染み込んでからのほうが離れてくれないんですけどっ)
竜人は絆を結び、自分の匂いが染み込みこむまでは「番」と離れることを嫌う――確かそのような説明をしてくれたのは参謀マクシム・カルネだったが、話が違うと文句を言っても、きっと「『番』とはそのようなものですから」と右から左に違いない。
リンリンは、もう猫姿ではない。
やっと注文していた服が仕上がってきたのだ。
今日は白地に黒の刺繍の入ったドレス姿だ。カジュアルで着心地のよい昼用のドレスは、丈は長いが動きやすい。
今年の流行はドレスの外にしっぽを出す着こなしなので、ちゃんとそれ用の穴からしっぽを出している。
(黒の蓮ってどうなの?)
刺繍のセンスに首を傾げるが、まあ、それはジルのことだし……と納得し、これはこれで悪くないと考え直す。黒はともかく、美しい蓮の意匠は品がある。
リンリンの仕度が整うとジルは「キレイだ」と満足げに微笑み、腰に腕を回し引き寄せた。ジルの腕は、ふらつくリンリンの身体を気遣い、力強く支えていた。
応接室にはルネとセレーナが待っていた。
リンリンを見たルネが頬を赤くしたのでジルは少し不機嫌になったが、威圧することはなかった。
二人はリンリンの首に燦然と輝くブラックダイヤモンドに目を留めてから、なぜ猫一匹にあれほどの怒りを買ったのかを確信したように目を伏せた。
スピレル王宮から将軍イーサンが戻ってきたので、この部屋には側近たちが勢揃いしている。
なぜ全員揃っているのかというと、リンリンが癒しの魔女であることがレベッカとアーサーに知られたので、この際、万能薬の買い占めの件も含めてすべて話してしまったほうがいいとジルが判断したのだ。
「待たせた」
ジルがカッと目を見開く。その瞬間、パンッと金の光の粒が弾け飛ぶ。
「ここでの会話、およびシベンナ王国の機密、私の『番』についての事柄の他言を禁ずる」
光の粒が消えると、全員の手のひらに小さな花びらの文様が浮き出る。秘密を明かす代わりに守秘義務契約の魔術で縛りをかけようというのだ。
「こ、これは、契約を破るとヒキガエルになったりするの、でしょうか?」
自分の手のひらを眺めながらオドオドと言いよどむのはセレーナだ。
スピレル国にも魔術師はいるだろうが竜人ほどは魔術に明るくなく、ほとんどの人間は魔術と無縁で過ごしている。というより、こんなところでポンポンと魔術を発動するシベンナ王宮、もとい竜族が異常なのである。
(ヒキガエル!)
この王女様も物語の読みすぎなんだわ、とリンリンは親近感が湧く。
「契約を破れない契約だから安心なさい。うっかりでも話そうとすれば声は出ないし、書き記すこともできない。暗号でも隠語でも同じ。契約は完全に行使されるので、そのつもりで」
ジルの説明にセレーナは神妙な面持ちで頷いた。そして深々と頭を下げる。
「この度は、わたくしのせいで陛下と『番』様には、多大なご迷惑をおかけし申し訳ございませんでした。どんな処罰も覚悟しております」
ジルは自分の隣にリンリンを座らせ、「まあ、座りなさい」と皆にも着席するよう促した。側近たちも黙って応接用のソファに腰かける。
「こちらも、そこまであなた方を追い詰めるつもりはなかったのだ」
取り乱し奇行に走ったセレーナを見て、あのあと、リンリンたちは反省した。やりすぎた、と。
セレーナは黒猫が欲しいと言っただけで、毒に侵されたのも彼女のせいではない。
「私の愛猫を南のガゼボで助けていただいたと聞いている。それでこの件はなかったことにしよう。あなた方への処罰はない。侍女は既に開放し、スピレル王宮からも兵を撤退させてある」
南のガゼボとは、貴族令嬢にお茶をかけられ、リンリンのしっぽが濡れた件である。国王の愛猫をかばったセレーナに対するお礼――それがスピレル国側に通達した無罪放免とする表向きの理由だ。
ルネとセレーナの処分が決まったため、スピレル王宮を占拠していた第二騎士団は、既に撤退している。
「陛下のご温情に感謝いたします」
ルネとセレーナは揃って頭を下げた。セレーナの目に薄っすら涙が浮かんでいた。
「礼なら私の『番』に言ってくれたまえ」とジルはリンリンの腰を引き寄せる。
そして、胸ポケットから薬瓶を一本取り出してテーブルの上に置いた。秘薬の瓶だ。
ルカから預かった二本のうち、一本はジルの解毒に使ってしまったので、最後の一本である。
リンリンは今朝、これを「万能の解毒薬」に変えた。できれば薬学研究所の解毒薬を待ちたいところだが、開発するのにどれだけの期間がかかるか定かでないので、間に合わないと判断したのだ。
そのため、リンリンは朝からぐったり疲れている。
(ま、しょうがないかぁ。本当は作りたくないんだけどね)
「万能の解毒薬」が存在することをジルに驚かれたので、「こちとら癒しの魔女である」と威張りたいのを我慢した。期待されたら困るのだ。
だって――リンリンの口がへの字に曲がる。
(触媒が魔女の唾液なんだもん! 唾よ? よだれよ? 言えないわ~、言っちゃいけないんだけど)
魔女の秘伝は口伝である。母のローザに耳元でヒソヒソと囁かれたとき、思わず「くすぐった~い!」と叫び、心の中では(きったな~い!)とショックを受けたことが記憶に残っている。
しかし、もう必要のない術だと聞いて安心もしていた。今では、ほぼすべての毒薬には解毒薬が存在するので、昔と違って出番がないのだ。
(まさか、ここで使うことになるとは……)
まじないと一緒に唾液で練った魔力を万能薬と混ぜることで発動する秘術である。
この薬の欠点は、たったの一日で効力が切れてしまうことだ。だからリンリンは、今朝、解毒薬を作ったのだった。
「『竜殺しの毒』の解毒薬だ。今朝、癒しの魔女から預かった。効果は折り紙つきだよ? 何せ私はすっかり回復した」
ルネは瞠目する。切望していたものが目の前にあることが信じられないのか、または、簡単に手に入れてしまったシベンナの王に対する驚きなのか。
「対価はなんです?」
ルネが警戒する。
それを聞いたジルは一笑した。
「君たちが我々に払える対価なんてあるのかい? 本当に、スピレルという国は人を信用しないよね。私は『癒しの魔女から預かった』と言ったのに」
「まさか、無償で……?」
彼らは驚く。
今まであの秘薬にどれだけの対価を払ってきたのだろうか。
ジルはため息を吐く。
「この前、言っただろう? 秘薬が買い占められて困っているから相談を受けたと。解決するには王女が死ぬか、助けるかだ。癒しの魔女がどちらを選ぶかなんて、火を見るより明らかだと思うがね」
それなのに、とジルは言う。
「最初からただ一言『助けて』と言えばよかったんだ。癒しの魔女が私のもとにいるのはわかっていたはず。君たちはいつも肝心なことを伝えないで、縁談だの猫だのと、どうでもいいことに時間と労力と命をかけてプライドを守りたがる。そのせいで、こっちは事情を探るのに一苦労だ。こんな茶番までして」
リンリンは、ジルの隣でコクコクと頷いている。言いたいことを代弁してくれたのだ。
「こちらにもいろいろと事情があったのです」
セレーナがポツンと呟いた。
ジルがやれやれというふうに畳みかける。
「この件より優先させる事情なんてあったようには思えないけどね。王家の秘密より、今を生きる王女の命のほうがずっと大切だ」
セレーナは黙ってしまった。




