■ 32
リンリンは帰りの車中、麦畑に沈む夕日に目が釘付けだ。
無心になって斜陽を眺める黒猫の背中をなでながら、ジルもその景観に見入っている。
「キレイだな」とジルが言う。
リンリンは「うん」と頷く。
「リンリンのことは私が守るよ。だからこれからは、もっと楽しいことをしよう。行きたいところも、やりたいこともあるだろう? シベンナには海も山も、東国には温泉と呼ばれる湯の湧いた池もあるよ」
(海、山、温泉! そして東国と言えば……)
リンリンの耳がピクリと動く。
「どら焼き食べたい!」
ジルは「本当に食いしん坊だな」と笑う。
「昨日、巫女姫から預かってるよ。リンリンに、って」
「ホント!?」
「ああ、ほかにモナカとセンベイもある」
「やったー!」
さっきまでプリプリと怒っていたのが嘘のようにすっかり機嫌の直ったリンリンは、どら焼きが楽しみでしょうがない。
「ジル」と改まって呼びかける。
「ありがとう、ジル。さっきは私たちのために怒ってくれたんでしょ?」
「違うよ、あれは私が頭にきたんだ。聖道女殿がリンリンたちの苦労を全然わかっていないから」
「……ありがとう。でも、ジルが思っているほど、私は自分を犠牲になんてしていないのよ。友達はいなかったけど母がいたし、兄たちは私のことを猫だと思っていても、たぶん可愛がってくれたんだろうし……実はあんまり覚えてないの。幼すぎたから。この姿で過ごすのは意外と自由で楽しかったのよ?」
それに救われた人々にとって、感謝の対象は作り手の魔女ではなく薬を与えた人だ。実際、オズワルドはマーガレットを、マーガレットは聖道女を賞賛した。
リンリンがご飯を恵んでくれるニャンコ好きのクレア姉さんに感謝はしても、猫缶を作った工場の人々にまで気が回らないのと同じだ。
いちいち怒ってもしょうがないのだ。
「そうか……」と言ってジルは、リンリンを引き寄せ自分の膝の上に乗せた。
「無理はするなよ? あの薬を作るときは、魔力の消費でかなり疲労するはずだ」
リンリンはこてんと首を傾げる。
「そうなの? 確かに翌日は昼過ぎまで寝てるし、数日間は昼寝の時間が長くなるけど……。でもたったの五本だから。本当は、もっとたくさん作れたらいいんだけどね」
「リンリン、何を言ってるの?」
「でも私、ぶっきっちょで、できが悪いから仕方ないの。ほかの薬の調合なんて全然覚えられなかったし、だから母は………」
「ちょっと! リンリン、本気で言ってるのか!?」
頭をなでていた手が止まった。リンリンと目を合わせたジルの、琥珀の目の奥がメラッと燃えている。
「まさか自覚がないとは……。いいかい? ローザは一度に三本だ。調子のいいときで四本が限界だった。一度に五本も安定して作り続けられる魔女は、おそらく今は世界でリンリンだけだ」
「へ?」
「ローザはできが悪くて見切ったんじゃない。むしろ才能があったから、秘薬作りに特化させたんだ」
「そう、なの?」
「そうに決まってる! 癒しの魔術は竜族だって使えないほどすごいんだぞ。魔術はただ呪文を唱えればいいってもんじゃない。いや、それより魔力というのはだな、消耗に気づかず急に枯渇した状態になるのが一番怖いんだ。それは体内の………だから無理すれば…………気をつけないと………………」
リンリンの身体を心配するジルの説教が始まってしまった。
くどくどくどくど、と長い。
「ちゃんと聞いてるっ?」
「き、聞いてますっ!」
聞いちゃいないが、反射的に返事をするリンリンなのであった。
(ゲェ~! なんだかルカ兄さんそっくり!)
王宮に到着するまでの間、リンリンはうんざりしながら、ジルのありがたいご高説を拝聴することになったのだった。
その晩、リンリンはいつもの恋愛小説ではなく、ジルの許しを得て諜報部の資料を読んでいた。
「どうした? 何か気になることでもあるのか?」
ブランデーを口に含みながら、ジルはいつもと違うものを読んでいるリンリンを気にしている。
「ん~、そもそも、なんでオズワルド国王は側妃を娶ったのかしら? 前王には正妃だけなのよね。ってことは、妃は一人でもいいわけでしょ? 本来は一夫一婦制の国なんだし。それにマーガレット妃とは従妹で気心が知れてるだろうから、夫婦仲が悪いとは考えづらくて」
既にルネは生まれており、跡継ぎの心配はなかったはずだ。側妃を迎えなければ、継承争いも勃発しなかったのではないかと、どうしても考えてしまう。
「ああ、王太子は幼少期、病弱だったんだ。だから周りが第二王子の誕生を望んだ。だけど、セレーナ王女以降、正妃に身ごもる気配がなかったため、圧力に押されるように側妃を迎え入れた。パトリシア妃は当時十六歳だったかな?」
(え~、その頃のオズワルド国王はもう三十歳をとっくに超えたオジサンよね。しかも、跡継ぎのスペアを産むため? 圧力に押されて嫌々娶られる? そんなのこっちだって嫌よねぇ?)
跡継ぎならいざ知らず、跡継ぎのスペアだなんてなんだか微妙だ。必要になるかどうかもわからない子どものために、本来、正妃を望める由緒正しい家柄の娘が側妃として嫁ぐのだ。
リンリンがパトリシアの立場なら、オズワルドの顔を引っ搔いているところだ。もしくは、とっくに家出している。
「貴族社会って、こういうことが多いのかしら? すごく年の離れた人に嫁ぐとか」
「貴族は家の存続が大事だからな。王族ならなおさらだ」
(シベンナに生まれてよかった……)
「そんなこと言ったら、ブロンデル前侯爵と聖道女殿の話だって、相当えげつないぞ。人の好い彼女はすっかり騙されていたみたいだけど」
「えっ、何?」
「王女が降嫁するのに予めその家を調べないわけないだろう? 恋人の存在はとっくに王家は知ってたさ。だけど当時王太子だった前王を即位させるのに、国内貴族の地固めとそのための金が必要だったのさ」
「お金?」
「あの頃の侯爵家は鉱山で潤っていたからね。その金に目をつけた。侯爵家だって、みすみす優秀な長男を男爵令嬢にくれてやるより、王家と縁を持ったほうがいいわけだ」
「え~、じゃあ、なんで聖道女様は殺されなかったの?」
「王女は恋人を殺されたと夫から恨みを買うより、温情をかけて恩を売ったほうが有益と考えたからだよ。実際、聖道女殿は感謝していたし、引き取られた娘は王妃になってるだろう?」
「……なんかもう……ドロドロ……」
(貴族って嫌だぁ~!)
やっぱりシベンナ王国に生まれてよかったと思うリンリンであった。




