■ 30
豪奢な応接間には、老いた人間のシスターと竜人の国王、彼の纏うマントの下に隠れる黒猫姿の魔女だけである。
リンリンから見た聖道女の印象は、「人の好さそうなおばあちゃん」だ。
ふんわりとした柔和な顔つきの丸い顔から、温かな人柄がにじみ出ている。
グレーの簡素な修道服に身を包み、両手に細かく刻まれたしわの深さが、彼女のつましい生活の長さを物語っていた。
厚い手のひら、指のタコ、長袖からチラッと覗く古い切り傷。働く者の手だ、とリンリンは思った。
「国王陛下、突然の面会要請に応じてくださり、感謝いたします」
聖道女は、胸の前で手を合わせながら頭を下げた。
「いいや、構わぬ。聖道女殿、楽になされよ」
聖道女はジルに勧められるまま革張りのソファにちょこんと腰かけてから、単刀直入に切り出した。
「空に竜王様が現れましたゆえ、何ごとかと思って急いで駆けつけたのです。子どもたちが大そう怯えまして」
聖道女は折に触れ、シベンナの王を竜王と呼ぶ。東国と同様、女神マハマーティの配偶者とされる竜は教会でも敬意を払われ、地域によっては信仰の対象とされているのだ。
「私の宝を盗もうとした輩がいたので、取り返しにきただけのこと。だが、もう済んだ」
「竜王様の宝を盗むなど、不届き千万。きっと天罰が下りましょう」
「そうだな。スピレル王家には、これから災いが訪れるだろう」
ジルがズバリと口にした「スピレル」の名に、聖道女はピクリと反応した。
「スピレル王家が、ですか?」
「ああ、王太子と王女が、だ」
遠回しにルネとセレーナを罰すると聞かされ、聖道女は黙ってしまった。視線を泳がせている。言葉を探している様子だが見つからないようだ。
(不届き千万なんて言っちゃったら、今さらかばえないもんね)
どうやらジルは、揺さぶりをかけるつもりらしい。
聖道女には気の毒だが、隠れているリンリンは、ジルを信じて黙って見守るだけだ。
「そういうわけだ、騒がせたな。私たちは間もなく帰るので、聖教会の子どもたちには安心するように伝えてほしい」
ジルはさっさと会談を終わらせようとする。
「竜王様、彼らはどうなるのでしょう?」
慌てた聖道女が、ようやく声を発した。
「さあ……本人次第だな」
ジルが投げやりに答えた。
それを聞いた聖道女は狼狽し、ソファから下りて床に跪く。
「竜王様、お願いします。どうか二人にご慈悲をお与えください」
「本来ならば国ごと滅ぼすところをあの二人の処分で済まそうというのだ。慈悲としては十分だろう」
「ですがっ……」
なおも言い募ろうとする聖道女をジルの冷たい視線が制した。
「この件に口出しは無用。ほかに用はあるか? なければここまでだ」
老女の顔が悲嘆に歪む。だが、これ以上は無駄と悟ったのかノロノロと立ち上がり、再び胸の前で手を合わせ丁寧に腰を折る。
それから一瞬迷った素振りを見せつつも、思い切ったように口を開いた。
「ときに竜王様は、ローザ薬局の店主ルカ殿の行き先をご存じでしょうか? 最近、連絡が取れないのです。ルカ殿は王宮とも取引があると伺っています。何かご存じではありませんか?」
「ルカ? 彼になんの用だ?」
「…………薬が必要なのです」
「彼は新婚旅行と聞いている。薬が必要ならば、我が国の薬学研究所から都合しよう」
ジルの申し出に、聖道女は頭を振る。
「彼にしか用立てられない薬なのです」
「それは魔女の万能薬のことか」
老女の肩がビクッと跳ねた。
「聖道女殿、あなたの私情であの薬を誰に渡そうが興味はないが、これ以上、ルカを巻き込むのはやめてもらいたい」
ジルは胸のポケットから、見せつけるように秘薬の瓶を取り出した。ルカがジルに預け、つねに持っているようリンリンが頼んでいたものである。しっかり者の兄が、予備の秘薬をいつも懐に忍ばせていたのを思い出して見習うことにしたのだ。
まさかここにあるとは思わなかったのだろう。聖道女は、目を見開いてその薬瓶を凝視した。
「この一瓶で、シベンナの王都一等地に屋敷が二、三件建つそうだよ。買い占められて相場が上がっているようだ」
「……お金でしたら、なんとかします」
「その金の出どころは、ルカやほかの信者たちが慈善事業にと差し出した寄付金か? それともスピレルの民が納めた血税か」
ジルの口調に怒りが混じる。
秘薬を無償提供するだけでなく、秘薬の利益の半分をルカは聖教会の慈善事業に寄付している。
その金が私情で流用されるなどあってはならないことだ。
「ルカからは、出発前に聖教会へ秘薬を渡したと聞いている。これほど早く足りなくなるなど通常ならばあり得まい。それに足りなくなったからといって、次から次へと簡単に用立てられる薬でもなかろう」
竜王の怒気に聖道女は立ちすくんでいる。だが、気力を振り絞るように食い下がった。
「……それでも……それでも私たちにはあの薬が必要なのです。お願いします。どうか譲ってはいただけませんか」
「断る」
即答だった。
ジルは秘薬をポケットに仕舞い、マントの中のリンリンの背中をそっとなでた。
「そんなに孫が心配ならば、三年前に聖教会が癒しの魔女を保護していればよかったのだ。オズワルドを救った恩人に救いの手を差し伸べず、自分たちが困ったときだけ頼りたがるとは呆れるね」
聖道女は「孫」と聞いた瞬間、その場に崩れ落ちた。身体がわなわなと震え、両手で顔を覆い嗚咽する。
ジルはそんな老女を見ても顔色一つ変えず、冷淡に見下ろしていた。
「ああっ…………! 竜王様は、すべてご存じでいらっしゃったのですね」
スピレル国の正妃マーガレットは聖道女の娘だ。ルネとセレーナは孫にあたる。
これは彼女にとってもスピレル王家にとっても、墓場まで持っていかねばならない秘密である。
なぜなら、正妃であるマーガレットには、王女の娘どころか王家の血など一滴も流れていないことになるからだ。名家でもない侯爵家出身の正妃が国の重鎮である公爵の娘と張り合う権勢を誇るのは、ひとえに前王妹の娘という血統あってこそだ。
継承争いが熾烈を極めていた当時ならなおさら、公になれば貴族社会の勢力図を塗り替えかねない爆弾であった。
リンリンは、人々に尊敬される聖道女が、秘薬の買い占めに手を貸す理由がどうしても謎だった。だが、ジルが諜報部の過去の資料をひっくり返し、この事実に行き当たったのである。
血縁関係にあるとなれば納得がいく。
諜報部の資料によれば、聖道女はかつて男爵家の娘であり、前ブロンデル侯爵の恋人だった。
身分差があるため、侯爵家の跡取りだった彼は、その座を弟に譲り自分は恋人と結婚するべく準備を進めていたのだ。
住処も決まりいよいよとなったそのとき、王女降嫁の王命が下った。
公爵家には王女の相手に見合う年齢の嫡男がおらず、当時、最も勢いのあったブロンデル侯爵家に白羽の矢が立ったのである。
スピレル国の貴族にとって王命は絶対だ。二人は泣く泣く別れることとなった。
「はしたないと思われるかもしれませんが、別れるそのときになって、妊娠していることがわかったのです。私はしがない男爵家の娘です。王に知られれば命はありません。途方に暮れていたところを哀れに思った王女殿下が助けてくださったのです」
聖道女が涙ながらに語る。
王女の結婚相手に隠し子がいるのは外聞が悪いうえ、ましてや愛人がいるなど以ての外なのだという。
「王女殿下は、娘を自分の子として引き取り育ててくださいました。私は王女殿下の手引きで聖教会に逃れたのです。このことは私と前侯爵のほかには、現国王のオズワルド様しか知りません。本人たちにも伝えておりません」
ですからどうぞご内密に、と聖道女は悲痛な面持ちでひれ伏した。




