■ 29
「ひぃぃぃ~!」
空を覆わんばかりの大きな竜の迫力に、フローラは今にも泡を吹きそうだ。
侍女は既に意識がなく、従者は腰を抜かしている。護衛らしき男も数人いるが、多勢に無勢でなすすべもない。
(まさか……ジル?)
これにはリンリンも度肝を抜かれ、あんぐりと口を開けた。
国境でこの姿では、隣国スピレルからでも目に入るだろう。何ごとかと騒ぎになっているかもしれない。
次の瞬間、宙に浮いていた黒竜の姿が消え、騎士団長デルヴァンクールの隣に降り立つ。竜人姿の国王アルベール――ジルだ。
漆黒の髪、琥珀の瞳、鼻筋の通った美丈夫が纏うのは、黒い軍服に片肩のマントである。
全身黒ずくめでうららかな春にはそぐわない重苦しさだが、その勇ましい姿にリンリンは、ぽーっと見惚れた。
「私の宝を返してもらおうか」
威厳ある声を轟かせるその顔は、たぎる怒りとは裏腹に驚くほど冷めている。
(やりすぎ……やりすぎだって! そのすまし顔、逆に怖いわ)
フローラは、口をパクパクさせながらも貴族の矜持なのか、かろうじてその場に踏みとどまっていた。
その様子を見かねたリンリンはバスケットからぴょんと飛び出し、ジルのもとへ駆けてゆく。
ジルが愛猫を抱き上げた。
「大丈夫かっ!? 死にそうだってテオから報告を受けて、大急ぎで飛んできたんだよ」
文字どおり「飛んできた」に違いないとリンリンは思った。
(お腹が空いただけなんだけどっ?)
確かに「もう死にそう」とは言ったけど……それであのド派手な登場なのか。
次からは言葉選びに気をつけようと反省しきりである。
「ね、猫……?」
フローラはようやく盗んだ宝が猫であったと察し、ぺたりと座り込んでしまった。手はガクガクと震えている。
「さて」と、ジルがフローラに向き直る。
「何か申し開きはあるか」
シベンナの王の質問に侯爵令嬢はなんとか声を絞り出す。
「お、お許しください。わ、わたくしは何も知らなかったのです」
「陛下、彼女は舞踏会でリリ殿を攫おうとしていました。信用できません」
すかさずデルヴァンクールが割って入った。
「さ、攫おうとなんて……連れてくるよう、た、た、頼まれただけなんです、本当です」
フローラはもう涙目だ。
ジルはニヤリと笑う。
「ほう、誰に?」
「セ、セレーナ殿下の侍女に…………」
「その者の名は?」
「スピレル国アロン伯爵家の三女……イザベラ・アロン……です」
イザベラは、ブロンデル侯爵家の親戚筋に当たる。かばう選択肢もあったのだが、フローラは保身を選んだ。
「王女の侍女が主の許しなく動くことなどあり得まい。よかろう、出国を許可する。お前は帰ってオズワルドに伝えるのだ。『スピレル国は警告を無視し私の宝に手を出した。この責任は王太子と王女に問うことにする。沙汰が決まるまで大人しく待っているように』と。わかったか?」
狙いどおりの証言が得られたので、ジルが手を挙げて合図をする。騎士たちが銃を下ろした。
フローラは自分たちがしたことの責が主君たるスピレル王家に向くと聞いて、ますます顔を青くしたが後の祭りだ。国に帰ればどのような立場に置かれるのか暗澹たる気分に違いない。
だが、己が主君を呼び捨てにし、その正妃の姪である侯爵令嬢を「お前」と切り捨てるこの男への返事は一つしかない。
「陛下の仰せのままに」
ブロンデル侯爵令嬢は平伏した。
フローラたちが第二騎士団と共に出国ゲートを越えていったあと、リンリンとジルは迎賓館の控室で休憩していた。
念願のアフタヌーンティーで空腹を満たしている最中である。
「ジル、あれはさすがにやりすぎだと思うの。フローラ嬢がかわいそうだわ」
「何言ってるんだ。頼まれようがなんだろうが、リンリンに手を出したことに変わりはない。無罪放免にしてやったんだ、十分だろう」
ジルは焼き立てのスコーンにクロテッドクリームをのせ、せっせとリンリンの口に運ぶ。
「モグ……だって、あの黒竜!」
「リンリンが死ぬんじゃないかと思ったら、気づいたら最大化して飛んでたんだよ」
「最大化?」
「普段はもっと小回りの利くサイズで竜化するんだが、最大化すると最速で移動できるから」
「大きさ自由自在!?」
「まあ、ある程度は」
竜人は滅多に竜化することはないが、竜化したとき、能力を最大限に発揮しようとすると、あの巨体になるという。
ちなみにリンリンは、獣化しようがしまいが能力は変わらず、大きさも変えられない。発揮するほどの能力があるのかどうかも甚だ怪しい。
(やっぱり、竜族ってスゴイ!)
「……それにしては、服が破れたりしないのね?」
ずっと疑問なのだが、ロロにせよ、ジルにせよ、なぜ服が脱げたり破けたりしないのか?
リンリンは、まじまじとジルの着ている黒い軍服を観察した。
「ああ、これは軍部で開発した先祖返り用の布なんだ。軍には竜人が多い。諜報活動にもいちいち着替えるのが面倒だし不便だろう? 空間収納魔術を応用した術式を生地に織り込んでいるんだ」
リンリンの服も発注してるからねと楽しそうに囁き、ジルはラズベリーのマカロンを愛猫の口に入れた。
お腹を満たして二杯目の紅茶を飲んでいると、サシャがやってくる。
「西の聖教会、聖道女様が陛下への面会を求めているとのことです」
スピレル国との境にある西の聖教会は、ここと目と鼻の先にあった。
シスターたちも黒竜を見たのだろう。ならば事情を知るために聖道女自ら駆けつけてくるのも頷ける。
だが、ジルは興味がなさそうにコーヒーを啜っている。
「別にこちらは用なんてないけど……リンリンどうする?」
リンリンは会ってみたいと思った。
今までルカに秘薬を託すだけで、実際には会うどころか見たこともなかったからだ。
ジルはその願いを聞き入れた。




