■ 28
舞踏会から二日後、リンリンはあっけなく誘拐されてしまった。
朝食のフレンチトーストを食べたあと、マハマーティ像の前でウロチョロしていたところをセレーナの侍女イザベラに捕獲されたのだ。
「まったく、フローラは役に立たないんだから」
彼女はブツブツ文句を言いながら、マタタビを嗅がせてふにゃりとなっている黒猫を蓋付きのバスケットの中に入れて運んでいった。
その後、リンリンが蓋付きバスケットからそっと顔を出したときには、走る車の中だった。座席にはスピレルの侯爵令嬢フローラとその侍女がいる。どうやら帰国するようだ。
リンリンはバスケットから目だけを覗かせた状態で、車窓から外の景色を眺めていた。
「もう帰国だなんて、名残惜しいですね」
「そうねぇ、でも、帰ったらデルヴァンクール様にダンスを申し込まれたって、皆に自慢できるわぁ」
フローラは上機嫌で侍女との会話に夢中になり、黒猫には無関心だ。
一方、リンリンはすっかり田園風景に心奪われている。こんな立派な自動車に乗るのはもちろん、郊外に出るのも初めてなのだ。
(うわ~、壮大だわ。青々とした麦畑はハーブ園とはまた違った趣があるわね)
どこまでも続く一面の緑に目を奪われ、あの中を猫族の本能が赴くままに駆け回りたい衝動にかられた。
「それにしてもイザベラ様からお預かりしたその猫、どうするんです?」
「さあ? なんでもセレーナ様がご所望だとか。そのうち受け取りにくるんじゃないの。帰国が遅れるから先に連れて帰ってほしいって」
いきなり話題がこちらに向いて、リンリンの身体がビクッと反応する。
舞踏会の翌朝、スピレル側から滞在延長の申請がなされ、ジルはあっさり了承した。
補佐官カミーユは怪訝な顔を浮かべていたが、ジルは「ちょうどいい」とニヤリと笑った。
そして、将軍イーサンと近衛隊長アーサーにコソコソと指示を与えていたのだった。
ロロも朝からいない。だから今、こんなことになっていると言えるのだが。
「黒猫ですよ。私、怖くって」
「黒猫が不吉だなんて迷信よぉ。大丈夫よ、今はマタタビで大人しくしてるもの」
侍女はビクつき、フローラは呑気に笑っている。
(獣人にマタタビなんて効かないんだけどね。朝、へにゃっとなったのだって、わ、わざとだもん)
猫姿だと誤解されがちなのだが、リンリンはあくまで獣人であって猫ではない。好物だって魚ではなく肉とフライドポテトである。リンゴも食べるし、ジュースだって飲む。猫の獣人にはベジタリアンだっているくらいだ。
(ただ、ほんのちょっと、いえ、かなりいい匂いだと思っただけで、酔ってへろへろになったりなんか……してないんだからねっ)
酔ってはいないが、へろへろになったのは事実である。
リンリンは自分の迂闊さにいじけながら、道中、飽くことなくずっと麦の大海原に見入っていたのだった。
この御一行が自動車で移動するのは、国境にある馬車の乗り換え場までである。
シベンナ王国でのみ生産される自動車は、輸出制限がかけられている。他国は王家であっても数台しか所有していない。
外国のゲストのほとんどは馬車で入国するため、出入国ゲートに専用の乗り換え場があるのだ。
もちろん来賓の王都までの送迎車はシベンナ側が用意している。自動車で移動したほうが圧倒的に時間の短縮になることと、王都は馬車の乗り入れが禁止されているため取られる措置である。
しばらくして、出入国ゲートに隣接する迎賓館を兼ね備えた大きな施設に到着した。
長身ではあるがこれといった特徴のない顔をした運転手が、車のドアを開ける。リンリンの入ったバスケットは、黒猫を怖がる侍女ではなく、その主のフローラに抱きかかえられていた。
彼女たちは控室で乗り換えの準備が整うのを待つ。
「お嬢様、私たちの順番は六組中、最後だそうです」
「最後かぁ、ま、仕方ないわね。もっと遠くまで帰る方々がいらっしゃるのですもの」
ここでは馬車の乗り換えと同時に出国手続きが行われ、その順番を待っているのだ。スピレル国との国境にあるこのゲートは、スピレル国を経由して自国へ帰る来賓も使用する。
舞踏会翌日には混み合っていたこの施設も、二日目のこの時間帯は比較的空いていた。
「失礼します」
部屋にアフタヌーンティーが届けられる。
卵のサンドウィッチ、スモークサーモンとオリーヴのオープンサンド、スコーン、小さなミートパイ、白身魚のフリッター、ラズベリーのマカロン、レモンババロア、チョコレート…………。
(何あれ? 美味しそう!)
リンリンは三段のお皿にサンドウィッチやスイーツがのった料理を初めて見た。
そして、朝食以来、何も食べていないことに気がついた。昼食の時間はとっくに過ぎている。マタタビの匂いでへろへろになったせいで、いつもは正確なリンリンの腹時計に狂いが生じているようだ。
ぐぅぅぅ………。
(お腹空いたわ……)
リンリンはバスケットの蓋の隙間から、ティーカップに紅茶を注ぐウェイターに目配せをする。しかし、表情筋が動いていない。
中肉中背、顔に特徴のないネズミ族の耳をしたこの男には期待できそうにないのか?
諦めかけたところで、カトラリーをセットしている別のウェイターと目が合う。すると何かが通じたのか、おもむろにメニューの説明をし始めた。
「えー、本日のサンドウィッチに使用している卵は、シベンナ王国でも高級なモグの実だけを飼料にした鶏が産んだ希少な……………なお、チョコレートには今話題の…………」
フローラたちは時折「まあっ」と感嘆の声を上げ、熱心に耳を傾けている。
「そして特別にご用意した紅茶は、あのシャラ高原の一部でしか手に入らないと言われる……」
なんだかんだと盛り上がっている隙をついて、もう一人のウェイターが「大丈夫ですか?」と小声で話しかけてきた。
「大丈夫じゃないわ……お腹が空いたの。もう死にそうってジルに伝えてくれるかしら?」
「かしこまりました。今しばらくご辛抱ください」
やはり、すぐには料理の差し入れはできないらしい。テオとサシャは給仕を終えると退出していった。
そう、彼らは国王直属の優秀な諜報部員だ。なお、リンリンたちをここまで運んできた運転手はロロである。
リンリンは今、囮になっている。
手っ取り早く口を割らせるには、相手の弱みを握り脅迫すればよいとジルが言ったからである。スピレル側が国王の「番」に手を出したところを取り押さえるつもりでいるのだ。
フローラたちが出国の手続きを待つ間、朝から晴れていた空が急に曇り始めた。今にも雨が降り出しそうだ。
アフタヌーンティーを終えてから、それほど時間が経っていないように感じるが、控室には時計がないのでわからない。
リンリンの空腹が限界に達しそうになった頃にやっと、出国の準備が整ったとの知らせを受けてフローラたちは馬車乗り場へと向かう。
「……降り出す前に帰りたいわね」
空を見上げながら、フローラがひとりごちた。
侯爵家の使用人が馬車の扉を開け、令嬢が持っているリンリンの入ったバスケットを受け取ろうとしたそのとき、ゲートがガシャンと音を立てて閉まってしまった。と同時に、シベンナ王国の騎士たちがズラリと馬車を取り囲む。
「なっ?」
驚くフローラたちへ騎士団が銃を構えた。
騎士団を従えるのは、第二騎士団長デルヴァンクールである。
侯爵家の面々は真っ青だ。
フローラは震えながら叫んだ。
「デルヴァンクール様、これはいったい、どういうことですのっ?」
「フローラ・ブロンデル。あなたに逮捕状が出ている」
デルヴァンクールに冷たく告げられたフローラは、傷ついたようなくしゃりとした表情で頭を振った。
「そんなぁ……身に覚えがありません!」
「この期に及んで偽りを申すか。あなたは我が国王の大切な宝を盗んだのだ」
「宝……?」
彼女たちが呆然となる。
ポツンポツンと雨が降り始め、空に暗雲が立ち込めた。ピカッと閃光が走る。
見上げれば、巨大な黒竜がとぐろを巻いて宙に浮いていた。




