■ 26
ジルにお化粧室へ行くと告げて、リンリンはぴょんとフロアに降り立った。別に用を足したいわけではなく、大広間を探検してみたかったのだ。
(気分転換しなくっちゃね)
上機嫌でダンスフロアを横切れば、なんとなく自分も踊っている気分になれるし、控室に続く廊下の壁には美しい花や絵画が飾られ、「ご覧になりまして? この花瓶、アンティークの年代物ですわよ。あのガ・ラビント作の絵画も! 美術館にあってしかるべき逸品が、これほど無造作に飾られているなんて」
「さすが、シベンナ王国ですわね」
と、まあ、このような会話を繰り広げているご婦人方もいる。
未練がましく、ビュッフェコーナーを遠巻きに眺めれば、美味しそうなケーキや見たこともない南国のフルーツ、最初に目をつけたどら焼きに舌鼓を打つ人々が。
……じゅる。
リンリンは、慌ててよだれが垂れそうになる口元を引きしめた。
(目の毒ね。あっちに行ってみようかしら)
くるりと踵を返したその瞬間、後ろから抱き上げられた。女の腕だ。
「捕まえた……」
小さな声でボソッと呟いたのは、見たこともないご令嬢である。金髪、青い目はセレーナを思わせるが、背が高く、勝気そうな顔つきは王女とは似ても似つかない。
(誰かしら?)
呑気に考えている間にも、その令嬢は足早に控室の方向へ歩いてゆく。
リンリンは不快だった。
ニャンコを抱っこするのに慣れていないのか、ちょっと脇の辺りが痛いし、足はぶらぶらはみ出してるし、かなり不自然な体勢になっているのだ。
虎穴に入らずんば虎子を得ず、だ。
このままあえて攫われてみるのもやぶさかではないが、ちょっと今はタイミングが悪い。
(花火が見れなくなっちゃうっ!)
見逃すと、次回はいつになるのかわからないとリンリンは焦っている。
(どうしよう!)
しかし廊下を進み、もうあと少しで控室に着こうかというそのとき、後ろから声がかけられた。
「失礼。もしやブロンデル侯爵のご息女ではありませんか?」
急に名前を呼ばれてビクッとしたご令嬢が、抱き上げたリンリンの足をぶらぶらさせたまま振り返る。
目の前には、見目麗しい青年が立っていた。長身、プラチナブロンドの髪、アメジストの瞳、右耳には銀色のピアスをしている。
「は、はい。ブロンデル侯爵家の次女、フローラでございます。デルヴァンクール様」
フローラの声は上擦り、顔は赤らんでいる。
「おや、私の名をご存じとは……」
「シベンナ王国、第二騎士団長の名を知らない者などおりませんわ。皆の憧れですもの」
デルヴァンクールと呼ばれた騎士団長は、フワリと微笑んで色目を送る。フローラの腕がフルフルと震えている。
どうやら彼はご婦人方のアイドルのようだ。先程から、チラリ、チラリと視線を送る令嬢があとを絶たない。
「それは光栄です。こうして夜会に参加する機会など滅多にないのですが、本日は非番でしてね。よろしかったら、一曲お相手願えませんか?」
「も、もちろんですわ。デルヴァンクール様と踊れるなんて夢のようです……あ……」
フローラは差し伸べられた手を取ろうとして、黒猫の扱いに困ったようだ。どうしようかと迷っている。踊るには猫を手放すしかないのだが、簡単に猫も憧れの騎士団長も諦めきれないのか動きがぎこちない。
「え、と、この猫はその、頼まれて……」
「では、その猫ちゃん、わたくしがお預かりします!」
デルヴァンクールの斜め後ろから音もなくスッーと登場したのは、キモノという東国の民族衣装を着た黒目黒髪の少女だった。
この夜会には明確なドレスコードはなく、その国の伝統衣装で出席する貴賓も少なくない。
「巫女姫様」
そう呼ばれた姫は、まだ幼さの残る丸い顔に笑顔を浮かべ、両手を差し伸べた。
フローラは戸惑いつつも、手を出されては渡さないわけにもいかず、リンリンの身体は巫女姫へと移った。彼女は抱き方が上手だった。
「きちんとお返ししますから、ご安心なさって? わたくしはこの格好ですし、まだ殿方とダンスを楽しむ年齢でもありませんので、お二人の踊りを見学させていただきます」
巫女姫の申し出にホッとした様子で、フローラは「では、よろしくお願いします」と頭を下げるとデルヴァンクールに伴われ、ダンスフロアへと消えていった。
(どら焼きの国のお姫様!?)
リンリンは、このおかっぱの少女に興味津々だ。衣装もそうだが、東国は建築物も食べ物もこの国とは全然違う。料理人サムの話では、魚を生で食べるとか。
巫女姫は胸にしっかり黒猫を抱いてゆっくり歩き始めた。そして、片手で器用に扇子を広げ、猫と自分の口元を隠すようにしてから小声で話しかけてきた。
「お初にお目にかかります。わたくしは東国の皇女、キリコと申します。このような場で同朋とお会いできるなんて光栄です」
(同朋?)
リンリンの疑問に答えるように、黒髪を隠れ蓑にして一瞬だけ瞳が赤く光った。魔女の目だ。
「とはいえ、魔術は使えませんの。ですが、我が皇家の血筋には『国護りの加護』がございます。わたくしは、生まれつき感覚が鋭く人のオーラが見えるので、『巫女姫』なんて御大層な名前を頂戴しておりますの。陛下の肩にいるあなた様に、魔女独特の深緋のオーラが見えたので、こうしてお話しする機会を窺っていた次第です。お気を悪くなされたらごめんなさい」
「い、いえ、あの……リンリンです」
リンリンは迷ったが、思い切って言葉を返す。礼儀正しく、正体まで明かしてくれたのだから、こちらも名乗るのが筋だと考えたのだ。
「まあ、お話しできるなんて……嬉しいです」
「あの、オーラって……?」
「ああ、人を包む色のついた『気』のようなものです。陛下は『番』様が見つかったからかしら? ほとんど赤とピンクですわ。愛と恋の色ですね」
「…………」
リンリンは照れて下を向く。しかし、ふと思いついて質問をしてみる。
「悪人や善人もオーラでわかるんですか?」
「それは難しいですね。確かに黒いオーラはありますよ。ですが黒だけ、白だけという人を見たことがありません。冷静の青と情熱の赤を併せ持つ方もいらっしゃいますしね。心は複雑なものです。誰にだって闇と光が存在していて、一つに染まりきれない――それが人なのだと思います」
「複雑……染まりきれない……」
「ふふ、もう少し話していたいのですが、陛下に叱られそうなので仕方ありませんね。あ、リンリン様のことは他言いたしませんのでご心配なく。我が国にとって竜は信仰の対象ですもの。同朋はもちろん、竜族を裏切るようなことはしませんわ」
「私も、もう少しお話ししたかったです。東国の……どら……いえ、食べ物のお話とか」
巫女姫はクスクスと楽しそうに笑いながら「ありがとう」と呟くと、足を止めて扇子を閉じた。
そこはもう、この国の王の目の前であった。
「国王陛下にご挨拶申し上げます」
巫女姫は丁寧に腰を折ると黒猫をジルに差し出す。
ジルは、リンリンを受け取り安心した表情を浮かべ礼を言う。
「巫女姫殿、私の愛猫が世話になったようだ。ありがとう」
「いいえ、わたくしはスピレルのご令嬢に、ちゃんとお返しするとお約束したまでのことですから」
それに、と巫女姫は扇子で口元を隠すと声を落とした。
「同朋と話せて楽しゅうございました。では、わたくしはこれで――」
東国の姫が去っていくのと同時に曲が終わる。
フローラが巫女姫を探してキョロキョロしている姿が壇上から見えるが、もう遅い。
第二騎士団長デルヴァンクールは、ジルと目が合うと小さく礼をしてから人混みに紛れていった。
「私たちも行こうか」
さあ、花火の時間だ――。
ジルはリンリンとの約束を守るため、静かに舞踏会の会場をあとにした。




