■ 22
リンリンの口の周りは、ケチャップソースでべちゃべちゃになっている。
さっきから目の前の肉片を食べようと口を開けて待っているのに、フォークを持つジルの手がワナワナと震え、位置が定まらないのだ。おまけに彼のズボンには、ソースのシミがついていた。
サムの作るポークチョップはリンリンの大好物である。そのうえ、お腹が空くと機嫌が悪くなるタイプだ。
「ちょっとっ! 落ち着いて? さっきから、お肉が口に入らないんですけどっ」
リンリンはイライラしてジルに苦情を申し立てた。
「こ、これが落ち着いていられるかっ。なんでリンリンをスピレルに譲渡しなきゃならないんだ!」
ジルは激しく動揺している。
(まったく、もう。ロロさんが生真面目に「至急、ご報告があります」なんて言うからっ!)
リンリンが王宮に戻ると既に夕食の準備が整っており、ジルは食事を取りながら、先程のガゼボでの出来事を聞くことになったのだ。
ロロの報告が進むにつれ、最初は順調にリンリンの口元に運ばれていた料理が、次第におぼつかなくなった。
パクリ……モグモグ…………。
やっと捕まえたポークチョップを味わうように咀嚼する。
「ニャン」
なぜか次を催促するときだけはニャンコ言葉である。
ジルは条件反射のように、つけ合わせのマッシュポテトをスプーンですくう。
「そんなに取り乱さなくっても、お断りすればいいだけじゃないの」
リンリンはケロッとしている。
セレーナの口ぶりからするに、この国に逆らってまで何かをする気持ちはないようだし、黒猫であれば別にリンリンでなくても構わないみたいだし、大事になる要素はないと考えている。
「それがそう簡単ではないのですわ」
今日の給仕はアンナである。
彼女の前であっても機密事項の報告がなされているのは、ロロの「番」だからというだけではなく、魔術契約により外に秘密を漏らすことがないからだ。
アンナの伯父はスピレル国の子爵である。父親は三男であったため爵位を継げず、平民としてこの国に渡り、野ウサギの獣人であるアンナの母と結婚したという。そのため、少しだけあちらの貴族事情に詳しい。
アンナは空いた皿を下げ、食後のデザートのオレンジムースを運びながら説明し始めた。
「まあ、伯父の場合は子爵ですから、貴族の中でも低位ですし、たいして裕福でもありませんけれどね。それでも体面を気にします。それが高位ともなれば、プライドと面子の生き物ですわよ」
「断るとルネ王子の面子を潰すことになるってこと?」
「はい。彼はセレーナ王女へ自分の名にかけて誓いました。すなわち本気ということですわ」
「えっ。あの『ルネ・ラファエル・ド・スピレルの名にかけて』って冗談めかして言ってたやつ?」
「あら、フルネームですのね。それは冗談ぽく聞こえようがなんだろうが大真面目ですわね」
「ええっ~、何それ」
「つまり、王女がどう思っていようが、代わりの猫じゃダメってことだ」
ジルはムスッとしている。その不機嫌さが増すにつれ、呼応するかのごとく雲行きも怪しくなった。遠くでゴロゴロと不穏な音がしている。
「最悪、誘拐もあり得ますわよ……」
ぼそりとアンナが呟く。
とうとう雨が降り出し、遠くの空でピカッと稲妻が走った。
「そんな、大袈裟なぁ~」
「大袈裟ではございませんわ。彼らにしてみれば、猫一匹の存在なんて軽いのです。面子のために、何をしたっておかしくないのですわ」
お気をつけあそばせ――アンナがそう忠告した直後、外の護衛騎士から補佐官レベッカ・エメのお訪れが告げられた。
国王居住区への、しかも食事中の来訪は滅多にないことである。少なくとも彼女がこのエリアへ足を踏み入れたのは、リンリンがここへ連れてこられたとき以来だ。
「お食事中に失礼いたします」
レベッカが遠慮がちに足を踏み入れると、ロロはいつの間にかいなくなっている。
(顔を合わせない決まりでもあるのかしら?)
いつもロロに警護をしてもらってはいても、諜報に関しては知らないことばかりだ。
「陛下。皆、何ごとかと心配しています。既に、執務室へ集まっておりますので、落ち着かれましたら――――」
「すぐに行く」
レベッカの言葉を遮り、ジルはリンリンを抱えてズボンの真っ赤なシミもそのままに、すぐさまダイニングルームを飛び出した。
(え、え? まだ食事が済んでないんですけどっ!)
リンリンは、急速に遠ざかる手つかずのデザート皿を未練がましく凝視する。
(オレンジムースがっ……オレンジムースがっ…………!)
声にならない心の叫びは、誰にも聞かれることなくこだました。




