■ 10
食べ終わり、リンリンはアンナに身体を拭いてもらっている。お腹が満たされ、ふかふかのタオルに包まれたあとは、眠気が襲ってきた。
重たくなる瞼と必死に戦っていると、食堂の扉からスルリと大きな犬が入ってくるのが見えた。
「ガゥ~ ガルルルゥ……」
目が合うなり、いきなり威嚇される。一瞬でリンリンの眠気が吹っ飛んだ。
びっくりしている隣で「こら!」とアンナが一喝した。
「ダメですわよ、ロロ。迷子なんだから優しくしてあげないと」
ロロはアンナに叱られて、キュイン……とその場で小さくなった。
どうやら顔馴染みらしい。
「また来たのか。おまえは、毎日毎日よく飽きねえな」
サムに呆れられたロロは、ぷいっとそっぽを向いてしまった。
リンリンとサムには愛想がないが、アンナが「ロロにもおすそ分けですわ」とキッチンからハムを持ってくると、しっぽをブンブン振ってまとわりついている。
「ワフン ワフン」
アンナ手ずからハムの塊を口に入れてもらったロロは、すっかりご満悦だ。
「ところでリタさんって戻ってきました? リンリンさんの部屋へ食器を下げに行ったはずなんですの」
「いや? 見かけないけど。食器もトレイも戻ってないし、まだなんじゃないか?」
「あら、遅いですわね。彼女が戻らないと引継ぎがあるので、私、帰れませんのよ。困ったわ」
アンナとサムの会話は続く。犬のロロはその間もアンナの傍を離れない。
どうもアンナは、仕事が終わったので、家に帰りたいらしい。
リンリンは彼女の跡をつけて、こっそり部屋に戻るつもりであった。とんだ見込み違いである。
(今夜は、食堂の椅子の上で眠ることになるのかも……)
急に王宮の寝心地のよさそうな天蓋付きベッドが思い出され、リンリンは物悲しい気分になった。
「どうしたんだろうな。アンナさんはもう陛下の『番』には会ったんだろう?」
「ええ」
「どんな感じだった? わがままを言いそうなタイプか」
「あらっ、リンリンさんはそー………ぅ……」
アンナの声が急にくぐもって聞こえなくなった。そのまま口を魚のようにパクパクさせている。
「ああ、悪い。守秘義務に引っかかるんだな。陛下の『番』に引き留められてるのかと思っただけで、他意はないんだ」
「……いえ、いいんですのよ。私が、ついうっかりしただけで」
(えーと、アンナさんは、何を話そうとしていたのかしら?)
リンリンはちょっぴり気になったが、それよりも初めて見る竜族の魔術に感動していた。
魔術契約ってすごい! 本当に声が出なくなるのね、と。
さらに小半時が経過した。
(リタさん、まだかなぁ~?)
誰もはっきりとは口にしないけれど、だんだん焦れた雰囲気になってきた。
食堂には、ワゥ、ワゥとアンナに懐く犬と、お腹も満たされて手持無沙汰な黒猫が一匹。料理人のサムは、キッチンで明日の仕込みを再開してしまった。
「遅いですわね……」
「…………」
「……」
皆が無口になってしまった頃、カチャリと扉を開けて登場したのは、待ちに待ったメイドのリタではなく国王のジルであった。
「陛下!?」
アンナは慌てて椅子から立ち上がる。一方、ロロは冷めた目でジルを見ている。
愛想がいいのは、やはりアンナの前だけであるらしい。
よっぽどアンナさんのことが好きなんだわ、と鈍感なリンリンにもわかった。
「ヴィクター・ロロット!」
犬のロロに向かって一直線に歩いてきたジルが、硬い表情で呼びかけた。するとロロの背中にピリッとした緊張感がみなぎり、お座りの姿勢になる。
「ハッ!」
「至急、テオとサシャを連れて執務室まで来るように」
「承知しましたッ!」
ロロは、サッと駆け足で食堂を出て行った。
(ロロがしゃべった!)
しゃべったということは――ロロは先祖返りの獣人だったのだ。
リンリンは、自分以外の先祖返りを間近で見るのは初めてだ。
先祖返りはそれだけ希少だし、自ら吹聴したりしない。
実力主義のこの国では、優秀で貴重な人材の多くが王宮に集まる。彼もきっとその一人なのだろう。
「諜報部統括のロロを呼びにいらっしゃるなんて、いったい何があったんですの?」
アンナの疑問に、ジルは他言無用と前置きしてから答えた。
「リンリンがいなくなった。護衛によると誰も部屋から出ておらず、バルコニーに彼女の靴が転がっていた。無事だといいんだが……」
「ええっ、なんですって! あそこは三階ですのよ? 私も探しますわ」
アンナが仰天して、今にも外に飛び出して行きそうな素振りを見せるが、ジルは片手を上げて制した。
「いや、いい。攫われた可能性もある。今、表立って動くのはまずい。各国来賓の滞在中に私の『番』が行方不明などと広まれば、よからぬことを考える輩が出てくるかもしれない。今、アーサーとイーサンが捜索している。そのうち見つかるだろう」
「あ……それもそうですわね。もしかして発見者は、リタさんですの?」
「ああ。事情も聴き終わって間もなく解放されるから、二人とも今日はこれで帰ってくれて構わない。遅くなってすまなかったな」
「かしこまりました」
リンリンは、ようやく自分のしでかしたことの重大さに気づいた。命を狙われる可能性もあるとレベッカに忠告されていたのに、黙って部屋を出るなんて。
罪悪感で胸がいっぱいになる。
皆に迷惑をかけてしまったと、リンリンはしゅんと頭を垂れた。
ジルは食堂を出て行こうと一歩足を踏み出したところでピタリと止まった。
アンナのスカートの裾からチラリとしっぽを覗かせる黒猫の存在に気がついたのだ。
「ところで、この黒猫はどうしたんだい?」
リンリンは思わず顔を上げた。ジルと目が合ってしまい心臓がドキンと音を立てるが、ばつの悪さで直視できずに目を逸らす。
「迷い猫のようです。雨宿りしているところを裏口の軒下で見つけたんですの」
「フ……ム、迷い猫か。では、この子はこちらで面倒を見よう」
「よろしいんですの? 私が家に連れて帰りましょうか?」
「いや、王宮の迷い猫なら、ここで面倒を見たほうがいいだろう。幸いこの居住区は私だけだし」
「それもそうですわね。もしかしたら貴賓のどなたかの愛猫かもしれません」とアンナも同意した。
ジルはひょいとリンリンを抱き上げてから「では、ご苦労だった。また明日」と言い置いて、足早に食堂をあとにする。
雨はいつの間にか止んでいた。
このまま執務室へ直行するかと思われたが、最初に向かったのはリンリンの部屋の隣……つまり、ジルの部屋であった。
真っ先にバスルームで洗面器に湯を張り、丁寧にリンリンを洗い始める。
(ふわ~ん、気持ちいい二ャ~ン)
シャンプーのいい香りと、強すぎず優しすぎず絶妙なジルの力加減にとろけそうになり、リンリンは思わずニャンコ言葉になった。
お風呂で身体も温まり、濡れた毛をドライヤーで乾かし、ブラッシングしてもらう。
「よしよし、キレイになったな。あんなに縮こまって身を硬くして……辛かっただろう」
ジルはリンリンの頭をなでる。
「ニャ~ン」
リンリンは鳴き声で返事をする。
ちゃんと言葉で謝りたいしお礼を言いたいけれど、それはできない。
(ああ、打ち明けてしまいたい! だけど、ルカ兄さんとの約束があるしなぁ)
今のリンリンはただの野良猫である。その野良猫に親切なジルは優しい人だ。
そう思うと葛藤はさらに増した。約束と秘密と良心で、リンリンの心の中はぐちゃぐちゃである。
「え、と……呼び名がないと不便だな」
ジルは首を傾げ、少し悩んでから何やらひらめいた顔をした。
「そうだ、リリと呼ぼう! いい名前だろう?」
嬉しそうにリンリンと目を合わせる。
「ああ、リリの瞳はペリドットのような美しい緑なんだな。……リンリンと同じだ」
リンリンは、ジルの口から自分の名前が出てきてドキッとする。
さあ、あまり待たせるといけない――ジルはリンリンを腕に抱いて執務室へと急いだ。




