第十三話 その26 紫の雨
最早、民衆の中に野次を飛ばす者は一人も居なかった。全員が全員、エマーチの歌に聞き入って、先程までの大騒乱が嘘のように静まり返り返っていた。これ程の群衆が居ると言うのに静寂すら感じられる空気の中、美しいエマーチの歌だけが静かに美しく、そして悲しく流れていく。
そして民衆は彼の発する歌の歌詞の内容から、彼の真の熱い思いに気付き始めていた。
彼は窓が開く事を求めてここに立ったのではない。
あらゆる無茶を押し通し反対を押し切ってここに立ったのは
彼は彼女に別れを告げるために
そして
自らの思いの強さを証明するために、自分自身のためにここに立ったのだ…
その熱すぎる思いに皆が気付き始めた時、哀しい程の美しい旋律に、あちこちですすり泣く声が聞こえ始めた。
いったい他の誰が、彼のような…エマーチのような真似が出来ただろうか?考えうる限りの、これだけの逆境、そして希望が無い中、彼は歌い切るのだ…それは彼女に、彼がそうするだけの価値がある女性だった、ある意味そう伝える事でもあった。
そしてその歌は、長がそうであった様に、聞き入る者の、かつて持っていたはずの熱い想い、今持っている熱い想いを激しく刺激し、この場に居る皆のそれぞれの心を震わせていた。
灯は大粒の涙を流して聞き入っていた。アスリは俯いて目を閉じていたが、その目の端に光るものが見えた様な気がした。
無論、俺の胸にも過去の熱い想いを持っていた頃の記憶が甦り、胸を熱くしていた。しかし、これほどまでに熱くなるのは俺の中に今生じ始めている淡い想いが、さらにそうさせるのだろうか?
不意に灯を見た、泣いている姿も尊く感じるのは…そう言う事なのだろうか…
すすり泣く声は次第に広がって行き、嗚咽を漏らす者まで現れた。すすり泣きは嗚咽を呼び、嗚咽は号泣を呼ぶ…
エマーチの歌はもう、この場に居る全ての者の心を動かしているのだ。
そのエマーチの歌も、涙で崩れていた、もはやテクニックではない。彼の想いの強さに共感し、皆が皆、心を震わせているのだった。
これ程の熱く激しい想いを乗せた歌
しかしながら静かに、ついに終わりを迎えた…
エマーチは窓を見上げる事はしなかった。
代りに窓に深い深いお辞儀をすると民衆に振り返り、同じくらいお辞儀をしたのだった。
パチパチパチ…
パチパチパチ…
パチパチパチパチ!
ババババババババ!!!!
まばらな拍手が流れ出したかと思うと、それはすぐに嵐のような激しい波となって広がって行った。
「ウウウウ!」
「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!!!」
堰を切ったように感情を爆発させてエマーチに飛びついた人物がいた。
「ふぁふぁーーーーーーーーーーん!!!(←激しく泣いている音)」
ちゅん助であった…
「済まなかったおおおおお!」
「エマーチ!辛かったなおおおおおお!」
「でもおまえはあー!!」
「おまえはやりきったんだおーーーー!」
「うおおおおおん!」
「誰にも恥じる事は無いおおおおお!」
「胸を張って前を向いて欲しいおおおおおお!」
私はは上手く押せただろうか?
随分と自分勝手で不器用で無責任な押し方だったとしても
強く押せてやれていただろうか?
「誰にも!誰にもッ!」
「おまえの事を悪く言わせないんだおおおおおお!」
「おまえはよくやったんだおおおおお!」
「うおおおおおん!」
「ほんとうによくやった!やりきったんだおおおおおお!」
「うおおおおおおん!」
「ちゅん助さん…」
「なんで…」
「なんで貴方が泣いているんだよ…」
そういうエマーチの目からも涙が溢れて止まらない。
そして多分、灯もアスリももちろん俺も、その姿は歪んで見えていたと思う。
エマーチが去って行く、彼を母親が抱きしめ、二人を父が抱きしめていた。
もはや儀式が始まる前の反対していた両親の姿はどこにも無かった。
「エマーチ…」
「母さんは今日の事、誇りに思うわ」
「いつの間にか成長していたのね」
「信じてあげられなくてごめん」
「背中を押してあげられなくてごめんね」
「ううっ…」
「いいんだ、母さん…」
家族はしばし抱き合った後、エマーチは窓を振り返る事なく去って行く。エマーチが帰る道を民衆が波が引く様に道を空けていった。
両脇に大歓声を上げる民衆を見ながらエマーチを先頭とした一団が帰ってゆく。
誰が始めたわけでもないのに自然と民衆が身に付けていた赤青のリボンが、その色に関係なくエマーチを称えるようにその上空に舞い、紫の雨となってエマーチに降り注いでゆく。
その姿は桜の花が舞い散る光景の様に美しく、その中心に居るエマーチを儀式に敗れた、そういう目で見る者はいなかった。
胸を張って帰って行くその姿は決して負け犬ではなかったのだ。
エマーチの行列が見えなくなるまで拍手の嵐は続き、皆が皆、暖かい気持ちを胸に家路についたのだった。
「素敵でしたぁ…」
うっとりするような声で灯が言った。
「そうね…」
静かにアスリが応える…その両肩にはウンウンと頷く精霊たちの姿があった。
灯の言った通りに素敵な出来事だったと思う。
だが窓は開かなかった。
だが開かないからこその感動が、確かにあの場にはあったと思う。エマーチの歌は、想いは皆の心を動かしたのだ。
願う事なら、動くのは窓であって欲しかったが…
「うおおおん!うおおおおん!」
「ご主人さみゃ、いい加減泣き止んでくださいみゃ…」
未だにちゅん助だけはみぁ助の頭上で号泣していた。
「ほんとにもう、情けないわね!」
そう言うアスリだったが、その言葉にいつもの軽蔑するような響きは無かったと思う。
そして俺もまた、いつまでも号泣している、その不気味な…不格好…奇妙…コミカルな!生き物に畏敬の念を向けていた。
よくもあそこまで、大それた事を企てたものだ…
あの青年の想いは届かなかったが、あの挑戦は間違いなく彼にとっての一生の思い出、財産になる、そう確信させられる光景だったのだ。例えどんな企みがあったとしても、エマーチを決断に踏み切らせ導いた手腕は同じ男として尊敬せざるを得ないのではないか…
少し、いやかなり…俺はちゅん助の事を見直していた。
頭のネジが外れているのでった。はないか?と思う事すらあるちゅん助であったが、案外外れているからこそ、あの様な出来事を導けるのだろうか…
そんな事を考えながら俺達は家路に着き、温かい気持ちを胸にその夜は、各自が胸を焦がす様な思いの中、眠りに就いたのだった。




