第十三話 その27 親…
記憶を辿ってみても、私は親の言う事を聞いて良かった、そう思える様な記憶がが無い。
一生懸命探すと、背の高い、下に大きな収納スペースがあるベッドを買おうとした時、毎日使う物だし、毎日上り下りするのは大変だからせめて階段を使用せず上り下りできる高さのベッドにすべき、そのアドバイスだけは役に立った。それ以外は思い当たらない。
むしろ、逆のケースの方が多かった。期待とは逆の事を言われる方が多かった。
私はただ、ただただ背中を押してもらいたかった。
中学の頃を思い出す、私の母はなんでもかんでも人並、普通であることを私に望んだが、しかし私にはそれが苦痛で仕方が無かった。
母のその願望が如実に表れるのが中間、期末試験の結果だった。どんな教科でも70点以上、それが母の望みだった。
だが、私は美術や音楽、歴史や英語といった全く興味ない分野はてんで駄目で30点とか40点とかを取って来るのだ。
その結果を見せるたびに母は悲しそうに、そして苦々しく顔を歪めるのだ。
私はその表情を見るのが死ぬほど嫌いだった。
一方で私は理科の実験や技術の工作は得意で、電磁石を用いたベルやトランジスタを使用したインターホンの作成は誰より早く完成にこぎつける事が出来た。
苦手な科目は努力しようとも克服しようとも思わなかったし、全く興味のない歴史は面白くなかったし、音楽は訳の分からない音符の記号が何の役に立つか分からなかった。(まあ英語だけは当時役に立たないと思っていたが海外旅行をするようになってからはもっと勉強しておけばよかったと思ったが)
楽器を演奏できる人間は尊敬するが、私は歌は上手かったので授業でリコーダーなど吹けなくても何ら恥を感じる事は無かったが、リコーダーが人並みに吹けない私を見て、母は相変わらず人並でない!とあの大嫌いな表情を見せた。
中学1年の1学期の時、些細な事件が起きた。興味のない科目の美術で私は最低評価の1を取ったのだった。
その評価を見ても私は何ら気にする事は無かった。得意でも興味すらない科目にどのような評価を付けられようが全く構わなかったし気にならなかった。
それよりも技術の科目で燦然と輝く5を取った、それが誇らしかった。
だが母は違った、教育ママと言うほどでもなかったが、若かれし時オール5を取った事もある彼女は自分の息子が1を取ってきた事、つけられた事が信じられず酷く悲観し、そして憤慨したのだった。
私は技術の5を取った事を褒めて欲しかった。リコーダーなど吹けずとも、そこそこ人前でも歌える歌を褒めて欲しかった。
時は流れて2学期、私の美術の成績はなぜか4となっていた。興味のない科目であり、何ら関心は無かったので不思議ではあったが1から4への急激な成績アップは悪い気はしなかった。
だが、この唐突なる成績上昇には裏があった。
「前の学期にね、お母さんどうしても美術の1が納得できなくて電話で先生に問い合わせたの!」
「やっぱり1は何かの間違いだったのね!」
何の事は無い、私の成績1に腹をたてた母が美術担当の先生に直接クレームを入れ抗議をしただけだったのだ。
この事実を知った時、私はあまりに酷くショックを受けた。絶対的な物と思っていた成績評価が電話一本で教師が日和って覆るという事も驚きであったが、それ以上に母がそんな事をしていたというのは言い様がなく悲しくそれ以上に悔しかった。
私は美術で1を取った事になんら悲しみも恥ずかしさも無かったはずだった。絵もそして字も汚く下手くそなのはよく分かっている。そもそも絵になぞ興味も拘りも無かった。だからどんな評価を付けられようが納得していたし、母の行為を知る前の時点においては私は誇りをもって
その結果を受け入れていたのだ!
だが、母のその行為を知る事によって、私のプライドはこれ以上なく傷つけられた。ひたすら悲しく悔しかった。
私は1を付けられようが堂々としていて、その時点では負けていなかったはずなのに、その母の行為を知った後は酷く自分が敗北者になった様であり、何も感じていなかった1が4になった母のあの行為を知った瞬間からはっきりと、その瞬間からはっきりと私は惨めな負け犬になったのだ。
美術の1がそんなに悪い事だろうか?リコーダー如きが吹けない事がそんなに悲しい事だろうか?
両者が、いや学校で学んだ教科のほとんどの事が社会に出て役に立ったとは今でも思えない。仕事で三角関数が必要だった事は一度もない、使ったのはいいとこ割合計算、それは数学ではなく算数の域だ。
私は美術の1を悲しまれるより技術の5を誇って欲しかったのだ。
リコーダーが吹けない事を嘆くより、他の生徒の見本になったと言われたとまで言われた大きな歌声を喜んで欲しかったのだ。
そんな私の心情を親は全く理解せず、その後もただただ平凡に真面目に、そしてやや平均より上、両親が望んでいたのはそんな事だけだった。
父も私の浪漫など理解せず真面目にやる事だけを望んでいた。私はズルい事が好きだったし勉強する事も働く事も大嫌いだった。
その後も、彼らにとっては理解できない事、大それたことを私がやりたい、やってみたいと言うと必ず、彼らは出来る訳がない危ないから、心配だから、そんな理由で己の心の安定を得るがためだけに必ず反対された。
そして思えば私は親に背中を押してもらった記憶が一切ない。
私は
思った通りやってみろ
お前を信じている
どうすればそれが出来るか一緒に考えよう
そんな言葉が欲しかったのに、そのような言葉を掛けられる事は一切なかった。
いつしか反対や否定、悲嘆を続けられるうちに私の挑戦心は失われていった。
ただひたすら無難に。
変わり者で普通に働くのには、まったく向いていない人間であるのに大学へ行き就職した。何の希望も目標も持たなかった私は安定してそうな農業系金融機関に就職して気付けばつまらない人生を歩いていたのだ。
そんな人間が一つの職場で長続きするはずもなく3つの職場を転々とした。
嫌々、そしてもともと虚弱な身体に鞭を入れて働くうちにどんどん身体が壊れていった。
そして私は42歳のフランスの地で気付いてしまったのだ。
自分の人生は既に手遅れなのだと…
若い頃、確かに私は大それた事かもしれなかったが、色々な事に挑戦したかったのだ。
親にしてみれば無謀に思えたかもしれないが、そう思い立つ人間にはある程度の道が、手法がおぼろげながらでも見えているのだ。だから否定や反対ではなく、信頼や、何より背中を押して欲しかったのだ…
もし一度でも私の人生に於いて
「己が思った通り、行けるとこまで行ってみろ!」
「辿り着く事がすべてではない!」
「一生懸命にやってその結果ならば」
「いかな結論であったとしても」
「老いてその事を振り返った時」
「必ずそれは生涯の宝になる!」
そう背中を押してくれる人物が居たのなら…
だから!
私は決めていたのだ。
自分の人生で出来なかった事を、してもらえなかった事を。
もし悩める若者が現れて、その目に希望と、熱意と、そしてほんの少しでも狂気の色が混じっていたならば
必ずそいつの背中を押してやろうと!
わたしは上手く押せただろうか。
随分と自分勝手で不器用で無責任な押し方だったと思う。
だが強く押せたはずだ。
彼の背中を…
良いものを見たと思う。私は自分が出来なかった事を勝手に彼に託して、彼が成し遂げる事を望んでいたのだ。
彼の背中を押したのは彼のためではない、すべて自分のためだった。
私は自分のために彼の背中を押したのだ。
そして彼は彼女のためでなく、自分に決着をつけるために、自分のために儀式に臨んだのだ。
本当に良いものを、素晴らしい景色を見せてくれたと思う。
彼もまた私に良い体験をさせてくれ生涯の宝を一つ増やしてくれたのだ。
ありがとう…
御礼に窓は開けておいたぞ。




