第九話 仮面の綻び
天幕の隅に置かれた灯明が、心細い光を投げかけている。
直冬の寝所からわずか数尺。多門――結は、板敷きの上に刀を抱いて座していた。
不寝番。
そう命じられはしたが、すぐ傍らで父や兄の仇が呼吸を刻んでいる状況で、正気を保つだけでも容易ではない。
「……いつまで柱のように突っ立っている。横になれ」
闇の中から、不意に声が響いた。
直冬は寝台に身を横たえたまま、こちらを見てもいない。
「……不寝番を命じたのは貴殿だ。私はここで構わぬ。足利の将を狙う賊が、外にのみ居るとは限らぬゆえな」
殺意すら含んだ言葉に、直冬は煩わしげに寝返りを打ち、結の方を向いた。
灯明の残光が、彼の彫りの深い顔立ちを縁取っている。その双眸にいつもの刺すような鋭さはなく、どこか遠くを見つめているようだった。
「……貴殿でも、悪夢を見られるのか。数多の命を奪ってきた報いか」
皮肉を込めて言ったつもりが、結の声は思いのほか柔らかく響いた。
「ふん。……俺の夢には、いつも同じ男が出てくる。一度も俺を息子と呼び、その手で抱こうとしなかった男だ」
直冬の口から漏れたのは、父・尊氏への、愛憎すら通り越した乾いた響きだった。
彼はそのまま、吸い寄せられるように結の手首を掴んだ。昨夜のような強引な力ではない。ただ、逃がさぬように、確かめるように。
「……温かいな、貴様は」
「っ……離せ」
結の指先が震えた。
直冬の手のひらから伝わるのは、軍神と恐れられる男の体温とは思えない、飢えた獣のような切実な熱だった。
「楠木の小倅。……貴様も、俺を呪っているか。それとも、この温もりさえも、俺を欺くための芝居か」
「……呪っている。貴殿ら足利が、私のすべてを奪ったのだ」
結は視線を伏せた。
だが、否定しきれなかった。この闇の中、家名も性別も剥ぎ取られ、ただ一人の人間として向かい合っている瞬間、彼に流れる孤独を完全に撥ねつけることはできなかった。
直冬の手が、結の手首から、ゆっくりとその掌へと滑り降りる。
指先が絡み合い、互いの脈動が直に響き合う。
「……今宵だけは、多門を忘れろ。俺も、足利を忘れる」
直冬の引き寄せる力に抗えず、結は彼の寝所のすぐ隣へと崩れるように座り込んだ。
仇の温もりに毒され、その安らぎに沈んでいく自分。
結は、自身の内側で「楠木の武士」という仮面が、綻んでいくのを感じていた。
夜は深く、外の雨音だけが、二人の罪を隠すように降り続いていた。




