第十話 修羅の背中
夜明けと共に、陣内は馬のいななきと兵たちの怒号に包まれた。
多門――結は、昨夜の指先の熱を振り払うように、冷たい水で顔を洗った。
鏡に映る自分はいないが、きつく締め直した晒の痛みが、再び彼女を楠木の武士へと引き戻していた。
「遅いぞ。馬を出せ」
直冬が、漆黒の大鎧に身を包んで現れた。
昨夜の、あの飢えた獣のような脆さは微塵もない。そこには、ただ戦を喰らって生きる修羅の姿があるだけだった。
戦場は、凄惨を極めた。
直冬は先頭に立ち、敵の陣列を紙のごとく切り裂いていく。その戦いぶりは、武家の名門・足利の優雅さとは無縁の、泥臭く、執念深い、死の舞いだった。
多門は小姓として、彼の背後を死守するように馬を走らせる。
飛び散る返り血、断末魔の叫び。その中で、直冬の背中は誰よりも大きく、そして孤独に見えた。
「……あれが、父上を、兄上を討った者たちの力か」
結は奥歯を噛み締めた。
憎い。
その背中に今すぐ刃を立てれば、楠木の無念は晴れるかもしれない。
だが、同時に彼女の心底には、抗いがたい戦慄が走っていた。圧倒的な力で運命をねじ伏せようとする男の姿に、目を逸らすことができない。
その時、横合いから敵の伏兵が躍り出た。
直冬の死角。振り下ろされる太刀。
「貴殿、左だ!」
多門は考えるより先に声を上げ、愛刀を抜き放った。
鋭い金属音が響き、敵の刃を弾き飛ばす。
直冬が鋭く振り返った。
返り血で赤く染まった彼の瞳が、多門を射抜く。
彼は礼を言う代わりに、低く笑った。
「……やはり貴様は、檻の中で腐る珠ではない。戦場にいてこそ輝く」
「勘違いするな。貴殿をここで死なせては、私の復讐が終わらぬだけだ」
多門は荒い呼吸を整え、再び刀を構えた。
直冬はそれに応えるように、さらに深く敵陣へと突き進む。
敵同士でありながら、背中を預け合う矛盾。
結は悟った。
自分はもう、この男という旋風から逃れることはできない。
憎悪という鎖で繋がれたまま、どこまでも深い血の海へと引きずり込まれていく。
戦雲が垂れ込める空の下、二人の修羅は、一つの生き物のように戦場を駆け抜けていった。




