第五話 修羅の双眸
翌朝、結は再び晒をきつく巻き上げ、直垂の紐を固く結んだ。
鏡はないが、そこに立っているのは、死を覚悟した凛々しき少年武将、多門の姿であるはずだった。
だが、昨夜、直冬の剛腕に抱かれ、その熱に浮かされた肌は、布地の擦れる感触さえも別の意味を持って思い出させる。
「……準備は整ったか」
背後からかけられた声に、肩がびくりと跳ねた。
振り返れば、そこにはすでに鎧を纏い、威風堂々とした直冬が立っている。
その双眸は、昨夜の密室で見せた暗い熱を微塵も感じさせない、冷徹な将のそれに戻っていた。
「……ああ。楠木多門、いつでも命を捨てる覚悟だ」
「死ぬことは許さぬと言ったはずだ。今日から貴様は、俺の身辺を警護する小姓として動け。片時も俺の傍を離れるな」
それは、周囲への体裁を整えつつ、結を自分の監視下に置くための「檻」の宣言だった。
軍議の場へ向かう道すがら、足利の将兵たちが多門を見る目は、昨夜の嘲笑から、得体の知れないものを見る警戒へと変わっていた。
「若君、その小倅を連れて行かれるのですか?」
進み出てきたのは、石堂頼房だった。
その視線は、いまだに多門の喉元を舐めるように動いている。結は背筋に冷たいものが走るのを感じ、思わず拳を握りしめた。
「こいつは俺が直々に仕込む。石堂、貴様が口を挟むことではない」
直冬の声は低く、拒絶の意志を明確に含んでいた。
直冬は歩みを止めず、多門の肩を、まるで行軍の督促でもするかのように無造作に叩いた。
ただそれだけの接触。
鎧越しに伝わるその力強さに、結の胸の奥が、締め付けられるように疼いた。
自分を辱めようとする石堂の視線からは、直冬が守ってくれる。
だが、その守り手こそが、自分から武士としての誇りを奪い、女としての深淵に引きずり込んだ張本人なのだ。
(敵に守られ、敵に飼われる……。これが、私の選んだ地獄か)
軍議の間、直冬の傍らに控える多門の視線は、自然と彼の広い背中に注がれた。
時折、直冬がこちらを振り返る。その瞬間、彼の瞳の奥にだけ宿る「自分だけが知っている熱」を見つけるたび、結の心臓は、多門としての平然を装いきれず、激しく脈打った。
戦場に咲く菊水が、泥濘に沈みゆく。
しかし、その泥の温もりは、清廉な誇りの中にいた頃よりも、残酷なほどに結を「生」へと繋ぎ止めていた。




