第十九話 刃の届く距離
静寂が、戦場の喧騒を塗り潰した。
結の放った白刃の切っ先は、足利尊氏の喉元、あと数寸というところで止まっていた。
「……見事なものだ、多門とやら。石堂が『直冬を腑抜けにする毒』と断じたが、なるほど。これほどの殺気を放つ小倅であれば、我が愚息が絆されるのも道理か」
尊氏の声には、死を目前にした者の怯えなど微塵もなかった。ただ、春の陽だまりのような、ひどく無機質で穏やかな響き。
結は、その瞳を見て戦慄した。この男は、自分を殺そうとしている刺客さえ、道端の石を眺めるように慈しんでいる。その底知れぬ「虚無」こそが、直冬を狂わせた正体なのだと悟った。
「黙れ……。一族を、父を奪った貴殿の首、一と思いに刎ねてくれる!」
結が力を込めようとしたその時、背後で凄まじい衝撃音が響いた。
「が、はっ……!」
「直冬!」
振り返れば、結への道を拓くために盾となった直冬が、数本の槍に貫かれながらも、なお血に塗れた太刀を杖にして立ち尽くしていた。
「……多門。何を、して……いる。早く、その男を……」
直冬の口から溢れる鮮血が、地面を赤く染める。
尊氏は、息絶え絶えの息子を、やはり慈しむような、それでいて救いようのない冷たさで見つめた。
「直冬。お前は最後まで、私を困らせる。その稚児に現抜を抜かさず、静かに野に下っておれば、あるいは足利の端くれとして生かしてやれたものを」
「貴様……っ、どこまで……どこまで俺を……!」
直冬が絶叫と共に最後の一歩を踏み出そうとし、膝を突いた。
結の刃が震える。尊氏を討てば、楠木の無念は晴れる。だが、今この瞬間に駆け寄らねば、直冬は孤独のまま果てる。
「……多門よ。お前がその刃を下ろせば、この哀れな息子を京へ連れ帰り、足利の縁者として葬ってやろう。それが私の、父としての最後の情だ」
尊氏の言葉は、慈悲の形をした毒だった。
結は、血を流し続ける直冬の瞳を見た。そこには、死への恐怖などない。ただ、尊氏が差し出した「偽りの慈愛」によって、自分たちの絆までが「不浄な戯れ」として片付けられることへの絶望だけがあった。
(……足利尊氏。貴殿は、どこまでも残酷な御方だ)
結は、尊氏の喉元にあった刀を、ゆっくりと引いた。
だが、それは降伏ではない。
「足利尊氏……。貴殿に、この方は渡さない。たとえ不浄と蔑まれようと、地獄の底まで、私がこの方を独占する」
結は翻身し、尊氏に背を向けて直冬のもとへ駆け寄った。
降り注ぐ矢の雨を、自らの背で払い落としながら、崩れ落ちる直冬の身体を強く抱きとめる。
「……馬鹿な、ことを……。俺を、置いて……逃げろと言った、はずだ……」
「断る。私は貴殿の『秘事』なのだろう? 誰にも、父君にさえも見せない場所へ、私が貴殿を連れて行く」
結は、直冬の頬に触れた。具足の冷たさを突き抜け、二人の肌が重なる。
尊氏は、背を向けて去ろうとする二人を、ただ静かに、悲しげな瞳で見送っていた。追撃の命さえ出さず、あたかも「無かったこと」にするかのように。
「……行こう、直冬。二人だけの、戦場へ」




