第二十話 修羅の果て、珠の輝き
山崎の霧は、血の匂いを孕んだまま、戦場を白く塗り潰していった。
背後には、追いすがることすらしない足利尊氏の冷徹な静寂。前には、どこまでも続く死の荒野。
結は、槍傷に身を焼かれる直冬を支え、一歩、また一歩と戦場を離れていった。
重い具足が擦れる音と、直冬の途切れがちな呼吸だけが、世界に響いている。
「……はは、見ろ、結。父上は、俺たちを追いもしない。……俺という汚れを、ただ『捨てた』のだ」
直冬が血を吐きながら、自嘲気味に笑った。
結は何も答えず、ただ彼の腰を、砕けそうなほど強く抱き寄せた。戦装束の奥、昨夜直冬が刻みつけた「上書き」の痕跡が、今も熱く脈打っている。
「……捨てられたのではない。私が貴殿を、あの男から奪ったのだ」
結の声は、凛としていた。
やがて、二人は名もなき河原の、朽ち果てた社へと辿り着いた。直冬の命の火は、いまや風前の灯火。結は彼を古びた壁に預けると、自らの晒を解き、彼の傷口を塞ごうとした。
「……もう、よい。晒を……解くな。それは、多門の……武士の誇りだろう」
「いいえ。いま、私は多門ではありません。貴殿が愛でた、ただの女です」
結は血に汚れた鎧を脱ぎ捨てた。
露わになった白い肌、豊かな胸の膨らみ、そして引き締まった腰のくびれ。直冬が独占し、狂おしいほどに求めたその肉体が、死の淵にある男の瞳に映る。
「……ああ、美しいな。……石堂の言う通りだ。俺は、貴様に……腑抜けにされた。……父上も、京も、天下も……どうでもいい。……ただ、貴様が……」
直冬の震える手が、結の頬に触れた。
結はその手を自らの胸元へと導き、心臓の鼓動を伝えるように強く押し当てた。
「……貴殿を、誰にも渡さない。足利にも、地獄の鬼にも。……私が、貴殿を隠し通す。永遠の『秘事』として」
直冬の瞳から、次第に険が消えていく。父に拒絶され、存在を否定され続けた修羅が、最期の瞬間に、ただ一人の女の支配の中に安らぎを見出していた。
直冬の指先から力が抜け、その首が結の肩に深く沈み込んだ。
結は泣かなかった。
彼女は、物言わぬ肉体となった直冬を愛おしそうに抱き締めると、傍らに落ちていた刀を手に取った。
「……独りでは行かせぬと言ったはずだ。……さあ、続きを始めよう。誰にも汚されぬ、二人だけの戦を」
翌朝、霧が晴れた山崎の河原には、折り重なるように倒れた二人の骸があったという。
だが、その死顔は不思議なほどに穏やかで、固く結ばれた手は、いかなる剛力を持ってしても引き剥がすことはできなかった。
足利尊氏が抹殺しようとした「不浄の記録」は、こうして、名もなき恋の物語として、闇の中に永遠に封じられた。
――楠木の珠は、修羅の腕の中で、ついに真の輝きを放ったのである。
(完)




