第二の事件簿 プロローグ いつもの朝
宿場町リーヴェルの朝は、焼きたてのパンの香りから始まる。
王都へ向かう商人たちが荷車を整え、旅人たちが次の目的地へ向けて宿を発つ。
石畳の通りには威勢のいい掛け声が飛び交い、街道沿いに建つ宿屋では、朝早くから食器の触れ合う音が響いていた。
第一の事件――リーヴェルの宿屋、陽だまり亭で起きた盗難騒ぎから、およそ二週間。
あれほど慌ただしかった宿にも、ようやく穏やかな日常が戻っていた。
「ミサキー! 二階、お願いできますか?」
「分かった。今行くね!」
厨房で洗い終えた皿を棚へ戻し、私は二階へ向かった。
窓を開け、客室に朝の空気を通す。
寝具を整え、床を掃き、置きっぱなしになっていた水差しを片付ける。
この宿に助けてもらった恩返しとして始めた手伝いだったけれど、今ではすっかり日課になっていた。
何もしないまま世話になり続けるなんて、私にはできなかった。
それに。
忙しく働いている方が、余計なことを考えずに済む。
「本当に働き者だな、ミサキは」
一階へ戻ると、帳場にいたアルドさんが感心したように言った。
「泊めてもらって、食事まで出してもらってるんですから。これくらい当然です」
「だからといって、朝から晩まで働くことはないんだぞ」
「身体を動かしてる方が落ち着くんです」
そう答えると、アルドさんは困ったように笑った。
「まったく。リナにも少し見習わせたいくらいだ」
「お父さん、聞こえてるからね!」
食堂の奥から、リナの不満そうな声が飛んでくる。
「私はちゃんと働いてます!」
「ああ、分かってる、分かってる」
「絶対分かってない!」
二人のやり取りに、食堂にいた旅人たちから笑い声が上がった。
私もつられて笑う。
事件が終わった翌日。
何気なく宿の帳簿を見せてもらった私は、少しだけ管理の方法を変えることを提案した。
宿泊客の名前。
滞在した日数。
食事や酒の注文。
それらは記録されていたけれど、何枚もの羊皮紙に分かれていて、必要な情報を探すのに時間がかかっていた。
そこで、何度も利用してくれる客だけをまとめた常連客の記録と、料理や酒の仕入れを管理する表を作った。
前の世界では、特別でも何でもなかったこと。
会社で仕事をしていれば、誰でも一度くらい目にするような管理方法だ。
けれど、アルドさんにはずいぶん珍しく映ったらしい。
「この酒は、先月より出るようになっているな」
新しく作った記録を眺めながら、アルドさんが呟く。
「街道を通る商人が増えたからかもしれません。少し多めに仕入れてもいいと思います」
「なるほどな」
アルドさんは感心したように頷いた。
「ミサキが来てから、帳場の仕事まで楽になったよ」
「少し整理しただけですよ」
「その少しが、なかなかできないんだ」
以前、レオンさんにも似たようなことを言われた気がする。
私は少し照れくさくなり、積み重ねていた皿へ視線を逃がした。
「お父さん!」
リナが元気よく食堂へ飛び込んでくる。
「常連のお客さんが、また来てくれました!」
「おお、すぐ行く」
アルドさんは嬉しそうに帳場を離れた。
その背中を見送ったリナが、私のそばへ寄って小声で囁く。
「最近、宿の評判がすごくいいんですよ」
「そうなの?」
「はい。『看板娘が二人になって、ますます賑やかになった』って」
「看板娘って……」
私は思わず苦笑した。
「ミサキのことですよ」
「私は居候のお手伝い」
「違います」
リナはきっぱりと言い切った。
「私とミサキで、リーヴェル亭の二枚看板です!」
「勝手に決めたでしょ」
「えへへ」
悪びれる様子もなく笑ったあと、リナは少しだけ声を落とした。
「でも、本当にうれしいんです」
「何が?」
「ミサキが来てから、宿がもっと楽しくなりました」
思いがけず真っ直ぐな言葉を向けられ、返事に困ってしまう。
異世界へ来たばかりの頃は、帰る場所なんてどこにもないと思っていた。
自分がなぜこの世界にいるのかも分からない。
これからどうやって生きていけばいいのかも分からなかった。
それでも、リナたちは何も聞かずに私を受け入れてくれた。
食事を用意し、寝る場所を与え、当たり前のように話しかけてくれた。
そして今では、こうして一緒に働いている。
「私も」
私は小さく笑った。
「リナたちと一緒にいられて、よかったと思ってるよ」
「ミサキ……!」
「ちょっと、そんな泣きそうな顔しないでよ」
「泣いてません!」
そう言いながら、リナは目元を指でこすっている。
やっぱり少し泣いている。
そんな穏やかな空気の中、宿の扉が開いた。
「おはようございます」
聞き慣れた、落ち着いた声。
「あっ、レオンさん!」
リナがすぐに声を上げる。
白銀の鎧を身に着けた青年騎士――レオン・ヴァルハルトが、羊皮紙の束を抱えて立っていた。
「おはよう」
レオンさんは軽く会釈すると、店内を見渡す。
「ミサキはいるか?」
「ここにいます」
私が手を上げると、レオンさんは少し申し訳なさそうに眉を下げた。
「すまない。また事件報告書の件で確認したいことがある」
「もちろん」
第一の事件が解決してから、レオンさんは何度もこの宿へ足を運んでいた。
盗難騒ぎの経緯を王都へ報告するため、関係者の証言や時間の流れを細かく整理しているらしい。
そのたびに私やリナ、アルドさんへ確認を取り、少しでも曖昧な部分があれば書き直していた。
本当に真面目な人だと思う。
私たちは食堂の窓際に座り、羊皮紙を机の上へ広げた。
「ここの順番なんだが」
レオンさんが指で示した箇所を読む。
「バルドさんが宿へ戻ってきたのは、このあとだったと思います」
「部屋へ上がったあと、一度外出したのだったな」
「はい。それから戻ってきて、叫び声が聞こえました」
「分かった」
レオンさんはすぐにペンを走らせる。
少しの間、紙を擦る音だけが続いた。
「これで間違いないと思います」
「ありがとう」
レオンさんは羊皮紙を丁寧に巻き直した。
「これで報告書は完成だ」
「お疲れさまでした」
「ああ。何度も付き合わせて、すまなかった」
「気にしないでください。私も事件に関わったんですから」
「それでも助かった」
レオンさんは真っ直ぐ私を見る。
「君がいなければ、宿の者たちへ疑いを残したまま事件を終わらせていたかもしれない」
「私は証拠を見つけただけです」
「それが重要だった」
飾り気のない言葉だった。
だからこそ、余計に照れくさくなる。
その様子を、少し離れたところからリナが眺めていた。
口元が、妙ににやけている。
「レオンさん、最近よく来ますよね」
「報告書の確認が必要だったからな」
「本当に、それだけですか?」
「……それだけだ」
レオンさんの表情は真剣だった。
けれど、ほんの少しだけ返事が遅れた気もする。
私は思わず笑ってしまった。
「リナ、困らせちゃだめだよ」
「はーい」
どう見ても納得していない返事だった。
レオンさんは小さく咳払いをして立ち上がる。
「では、俺は戻る」
「もう行くんですか?」
「ああ。報告書を提出しなければならない」
宿を出る直前。
レオンさんは一度だけ振り返った。
「協力に感謝する、ミサキ」
「どういたしまして」
扉が閉まり、その背中が見えなくなる。
それから数日。
報告書を提出し終えたレオンさんが、宿へ顔を出すことはなくなった。
もともと、仕事のために来ていたのだ。
確認することがなくなれば、訪れなくなるのは当然だった。
私は特に気にせず、いつものように宿の手伝いを続けていた。
けれど。
「最近、レオンさん来ませんね」
食堂の机を拭きながら、リナがぽつりと言った。
「そうだね」
「……寂しくないですか?」
「え?」
「なんでもありません!」
そう言うと、リナは急に黙り込んだ。
その日から、私は何度か妙な視線を感じるようになった。
皿を運んでいる時。
洗濯物を畳んでいる時。
何気なく窓の外を眺めた時。
振り返ると、決まってリナが何かを考え込むように私を見ている。
「どうしたの?」
「なんでもないです!」
その答えを何度聞いただろう。
そして数日後。
朝の仕事がひと段落したところで、リナが突然、私の腕を掴んだ。
「ミサキ!」
「な、何?」
「今日は町へ行きましょう!」
「買い出し?」
「それもありますけど、気分転換です!」
「気分転換?」
「いいから、行きましょう!」
半ば引きずられるように宿を出た。
石畳の通りまで来たところで、私はようやく足を止める。
「ちょっと待って。急にどうしたの?」
リナは少し気まずそうに指先を合わせた。
「だって……」
「だって?」
「最近、レオンさんが来なくなったから」
「うん」
「ミサキ、寂しそうだったので」
何を言われたのか理解するまで、少し時間がかかった。
「……私が?」
「はい」
「レオンさんが来ないから?」
「はい!」
なぜか自信たっぷりに頷いている。
私は堪えきれず、吹き出した。
「違う違う!」
「えっ!?」
「そんなこと考えてなかったよ」
「でも、窓の外を見てました!」
「洗濯物が乾きそうか見てただけ」
「ため息もついてました!」
「朝から忙しくて疲れてたの」
「そんな……」
リナは本気で衝撃を受けたような顔をした。
「絶対、レオンさんに会えなくて寂しいんだと思ったのに……」
「リナの早とちりだったね」
「むぅ……」
頬を膨らませるリナがおかしくて、笑いが止まらない。
「でも、ありがとう」
「え?」
「元気づけようとしてくれたんでしょ?」
「それは……はい」
リナは少し照れながら頷いた。
「だから今日は、たくさん楽しみましょう!」
「結局、町へ行きたいだけじゃない?」
「それも少しあります!」
今度は二人で笑った。
宿場町リーヴェルの通りは、いつも以上に賑わっていた。
露店には色とりどりの果物が並び、焼き菓子の甘い香りが風に乗って流れてくる。
旅芸人が楽器を奏で、その周りでは子どもたちが楽しそうに踊っていた。
街道沿いには兵士の姿も多く、いつもより慌ただしい雰囲気がある。
「今日は騎士さんが多いね」
「そうですね。何かあるのかな?」
リナも不思議そうに辺りを見回す。
通りの端には、白い小さな花がいくつも咲いていた。
細い茎の先に、月明かりを固めたような白い花弁が揺れている。
「きれいな花」
「ああ、それは月雫草ですよ」
「つきしずくそう?」
「月雫草と書いて、つきなそうって読むんです」
「変わった読み方だね」
「夜明け前になると、葉の先に大きな露がつくんです。その雫が月の光を受けて輝くから、月雫草って呼ばれるようになったそうですよ」
リナはしゃがみ込み、花のそばにできていた小さな実を指した。
「でも、花が終わったあとの種は厄介なんです」
「どうして?」
「服や動物の毛に、すぐくっつくんですよ。群生地へ入ったら、帰る頃には種だらけです」
「植物なりの移動方法なのかな」
「いどう……?」
「あ、ううん。何でもない」
前の世界で知った知識を口にしかけ、慌てて誤魔化した。
その時。
「ミサキさん、あそこ!」
リナが通りの先を指差した。
人混みの中を、白銀の鎧を着た青年が足早に進んでいる。
「レオンさん!」
リナが大きく手を振った。
呼び声に気付いたレオンさんが立ち止まる。
けれど、いつもの落ち着いた様子とは違い、どこか慌ただしい。
「ミサキ。リナ」
「最近、宿に来ませんね」
リナが意味ありげに私を見る。
「その顔やめて」
私が小声で言うと、リナは楽しそうに笑った。
「忙しそうですね」
私が尋ねると、レオンさんは周囲を確認するように一度視線を巡らせた。
「ああ。少し任務が入っている」
「どんな任務なんですか?」
リナが尋ねる。
レオンさんは、わずかに間を置いた。
「すまない」
その表情が騎士のものへ変わる。
「任務上、話すことはできない」
「あっ、ごめんなさい」
「いや。気にするな」
レオンさんは少しだけ表情を和らげた。
「任務が終われば、また宿へ顔を出す」
「本当ですか?」
「ああ」
「約束ですよ」
「分かった」
そう答えたあと、レオンさんは私へ目を向けた。
「町はいつもより人が多い。二人とも気をつけてくれ」
「レオンさんも」
「ああ」
短く頷き、レオンさんは再び人混みの中へ消えていった。
その背中を見送りながら、リナが私の顔を覗き込む。
「会えてよかったですね」
「だから、そういうんじゃないって」
「本当ですかぁ?」
「本当です」
私たちは笑いながら、賑わう通りを歩き出した。
その穏やかな一日が、大きく動き始めようとしていることを――
まだ、誰も知らなかった。
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