始まりの事件 Episode 5 偽りの盗難事件
「……違う」
バルトの声が、静かな部屋に響いた。
「私は、壺を入れた状態の箱を、この宿へ持ち込んではいない」
誰もが言葉を失った。
リナが驚いた表情でバルトを見る。
「え……?」
「でも、壺が盗まれたって……」
バルトは俯いた。
レオンが一歩前へ出る。
「バルト」
「もう一度確認する」
静かな声。
しかし、その目には鋭さが宿っていた。
「この宿へ来た時、その箱の中に壺は入っていなかった」
「そうだな?」
レオンの瞳が淡く光る。
《真眼》。
沈黙。
そして。
「……ああ」
バルトが認める。
「真実」
レオンが小さく呟いた。
◇ ◇ ◇
「では」
レオンは箱を見る。
「なぜ盗難事件など起こした?」
バルトは拳を握る。
しばらく黙った後、ゆっくりと口を開いた。
「……私は昔、王都アルディアに店を構えていた」
リナが驚く。
「王都に……?」
「ああ」
バルトは遠くを見るような目をした。
「昔は、自分の店を持つ商人だった」
「珍しい品を扱い、多くの客を相手にしていた」
しかし、その表情が曇る。
「だが、商売に失敗した」
「仕入れの判断を誤った」
「予想外の損失が重なった」
「気付いた時には、大きな借金を抱えていた」
「そして、店を手放した」
部屋に静かな空気が流れる。
「今の私は、店を持つ商人ではない」
「遺跡などから出る品を、冒険者たちから買い取り」
「それを欲しがる貴族や収集家へ売る」
「そんな行商をしている」
私は黙って聞いていた。
バルトの声には、後悔が混じっていた。
◇ ◇ ◇
「そんな時だった」
「その壺が、私の手元へ流れてきた」
「最初は、珍しい発掘品の一つだと思っていた」
「だが、調べるうちに分かった」
「これは、普通の遺跡品ではない」
バルトは箱を見る。
「私は、貴族へ売り込もうとした」
「だが、予想もしないことが起きた」
「王国から、直接買い取りの話が届いた」
リナが息を呑む。
「王国から……?」
「ああ」
バルトは頷く。
「王国が欲しがるほどの品だった」
「その時、私は思った」
「もう一度、商人としてやり直せる」
「失った店を取り戻せる」
「借金を返せる」
「そう思った」
しかし。
バルトの表情が苦しくなる。
「その時、別の人物が現れた」
レオンの目が細くなる。
「別の人物?」
「ああ」
「その者は言った」
『王国へ渡すより、もっと高く買い取る』
「提示された金額は、王国の提示額を大きく上回っていた」
私は静かに尋ねる。
「それで……」
「売ったんですね」
バルトは目を伏せた。
「……ああ」
「私は、目の前の金に負けた」
「もう一度、店を持ちたかった」
その言葉を聞いた瞬間。
私の頭に、あの森で見た光景が蘇った。
黒ずくめの男たち。
その向こうに立つ、顔の見えなかった人物。
そして。
『これが約束の品だ』
『確かに受け取った』
あの時、渡されていたもの。
まさか――。
「バルトさん」
私は思わず声を上げた。
「その壺を売ったのって……森の中ですか?」
バルトが顔を上げる。
「……なぜ、それを?」
胸の奥がざわついた。
やっぱり。
あの時。
私が森で見た取引。
あれは――。
バルトが、壺を売った瞬間だったんだ。
◇ ◇ ◇
沈黙。
私は箱を見る。
「でも」
「なぜ、箱だけを残したんですか?」
バルトは答えない。
レオンが尋ねる。
「相手は誰だ?」
「分からない」
「顔は隠していた」
「ただ……」
バルトは震える声で言う。
「黒いローブに、紋章があった」
レオンの表情が変わった。
「その紋章」
「覚えているか?」
「ああ」
バルトは頷いた。
「円の右下が欠けた紋章だった」
その瞬間。
レオンの目が鋭くなる。
「……月欠けの紋章」
私はレオンを見る。
「知っているんですか?」
「ああ」
レオンは短く答えた。
「騎士なら知っている」
レオンは黙った。
「遺跡品を狙う者たち」
「ただの盗賊ではない可能性がある」
その言葉に、部屋の空気が重くなる。
私は箱を見る。
密室。
荒らされた部屋。
消えた壺。
でも。
本当は。
最初から壺は存在していなかった。
事件は、盗難ではなかった。
人の欲。
過去の失敗。
そして。
暗躍する何者か。
それらが重なって生まれた。
偽りの事件だった。
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