始まりの事件 Episode 2 密室に残された空の箱
「……一日?」
私は思わず聞き返した。
「はい」
リナが頷く。
「ミサキさんが見つかったのは昨日の朝です」
「それからずっと眠っていたんですよ」
私は目を丸くした。
自分では、ほんの少し気を失っていただけのような感覚だった。
でも。
本当に一日が過ぎている。
「身体は大丈夫かい?」
アルドさんが心配そうに尋ねる。
「はい……少し身体が重いくらいです」
「それならよかった」
エマさんが優しく笑う。
「森の中で倒れていたんですもの。本当に驚いたのよ」
「でも、目を覚ましてくれてよかったわ」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。
知らない世界。
知らない場所。
それでも。
助けてくれる人はいる。
◇ ◇ ◇
「何か食べられそうかい?」
アルドさんの言葉に。
私のお腹が小さく鳴った。
「あ……」
思わず顔が熱くなる。
リナが笑う。
「お腹は正直ですね」
「……お願いします」
私も少し笑った。
◇ ◇ ◇
夕方。
私は宿屋一階の食堂へ向かった。
木のテーブル。
暖炉の火。
旅人たちの楽しそうな声。
見たことのない景色なのに。
不思議と落ち着く。
ここは、ソラリス王国の宿場町リーヴェル。
王都アルディアへ続く街道沿いにあり、旅人や商人が多く行き交う町なのだという。
アルドさんが料理を運んでくれる。
温かいスープ。
焼きたてのパン。
香ばしい肉料理。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
私は手を合わせた。
「いただきます」
リナが首を傾げる。
「それは?」
私は少し戸惑った。
「えーっと……」
「私が住んでいた国の言葉なんです」
「食べ物や、作ってくれた人への感謝の気持ちを込めて言うんです」
「いただきます、って」
リナは少し驚いた。
そして。
優しく微笑む。
「素敵ね」
その言葉に、私は少し照れた。
前の世界では当たり前だった言葉。
でも。
この世界では、初めて伝える言葉だった。
◇ ◇ ◇
食事をしていると。
宿屋の扉が開いた。
「戻ったぞ」
入ってきたのは、一人の男だった。
少し高そうな服。
商人らしい身なり。
そして。
その腕には、しっかりと抱えられた大きな木箱があった。
「あ、バルトさん」
リナが声をかける。
「買い物は終わったんですね」
「ああ」
男――バルトは頷いた。
「明日の朝には王都へ向かう予定だからな」
「最後の準備をしてきた」
そう言うと、バルトは木箱を抱え直す。
その動きは妙に慎重だった。
まるで。
中に壊れやすいものが入っているように。
私はその様子を見ていた。
――そんなに大切なものなんだ。
バルトはアルドさんに声をかける。
「夜飯の用意を頼む」
「それと、この荷物は部屋へ運ぶ」
アルドさんは頷く。
「分かりました」
バルトは木箱を抱えたまま、二階へ向かう。
◇ ◇ ◇
その時だった。
二階からエマさんが降りてきた。
手には畳んだシーツやタオル。
部屋の片付けを終えたところなのだろう。
「あら、バルトさん」
エマさんが声をかける。
次の瞬間。
足が止まった。
階段の途中。
二人の距離が近い。
荷物を抱えたエマさんと。
木箱を抱えたバルト。
「危ない!」
バルトが声を上げた。
エマさんは慌てて横へ避ける。
「申し訳ありません」
エマさんが頭を下げる。
しかし。
バルトの表情は険しいままだった。
「気をつけてください」
「これは王国へ納める大切な品なんです」
「もし傷でもついたら……」
「本当に申し訳ありません」
エマさんはもう一度謝る。
私はその様子を見ていた。
――大切なものなのは分かるけど。
少し言い方がきついな。
バルトはそのまま二階へ上がっていった。
◇ ◇ ◇
その夜。
食堂で食事を終えたバルトが
「少し外へ出てくる」
そう言って宿屋を出ていった。
「用事があるのかな」
私が呟く。
リナが答える。
「商人さんは大変なんですよ」
「王都へ行くなら、準備も多いと思います」
「そうなんだ……」
私は頷いた。
それから。
リナとリーヴェルのことを話した。
近くの町のこと。
王国のこと。
知らない世界の話を聞く時間は、不思議と楽しかった。
「そろそろ休もうかな」
私が立ち上がる。
その時。
宿屋の扉が開いた。
「戻ったぞ」
バルトだった。
外出から帰ってきたらしい。
「遅くなった」
短くそう言うと、二階へ向かう。
「おやすみなさい」
リナが声をかける。
「ああ」
バルトは振り返ることなく、階段を上がっていった。
◇ ◇ ◇
数分後。
静かな宿屋に。
突然、大きな声が響いた。
「……え?」
リナが顔を上げる。
次の瞬間。
「誰か来てくれ!!」
二階から聞こえた叫び声。
バルトの声だった。
◇ ◇ ◇
「何があったんですか!?」
アルドさんが急いで階段を駆け上がる。
私もリナとエマさんの後についていった。
二階の部屋。
そこには。
先ほどまで普通だったはずの空間とは思えない光景が広がっていた。
引き出しは開け放たれ。
荷物は床に散らばっている。
ベッドの上も荒らされていた。
「これは……」
エマさんが息を呑む。
バルトは部屋の中央に立っていた。
顔色が悪い。
「……ない」
小さな声。
「ない……」
「何がないんですか?」
アルドさんが尋ねる。
バルトは部屋の隅を指差した。
そこには。
あの時、大事そうに抱えていた木箱が置かれていた。
蓋は開いている。
「私の壺が……」
「王国へ納めるはずだった大切な壺が……」
バルトの声が震える。
「なくなっている」
◇ ◇ ◇
部屋の空気が変わった。
「盗まれた……?」
リナが呟く。
バルトは何度も頷いた。
「間違いない」
「私は部屋を出る時、確かに鍵をかけた」
そう言って、ポケットから鍵を取り出す。
「この鍵は、私しか持っていない」
アルドさんが扉を見る。
鍵穴。
扉。
どちらにも壊された跡はない。
「なら……」
エマさんの表情が曇る。
バルトは静かに周囲を見回した。
「この部屋へ入ることができた人間は限られている」
その言葉に。
誰もが黙る。
「この宿の人間なら……」
「違います!」
リナがすぐに声を上げた。
「お父さんも、お母さんも、そんなことする人じゃありません!」
バルトは冷静な声で返す。
「だが、状況はそう言っている」
「鍵は壊されていない」
「外から侵入した形跡もない」
「そして、この宿には部屋へ入れる人間がいる」
◇ ◇ ◇
バルトは木箱へ視線を向ける。
「この品は……王国から正式に依頼されたものなんだ」
「もし期限までに届けられなければ……」
一瞬、言葉を止める。
「私だけの問題では済まない」
「王国との契約を破ったことになる」
部屋に緊張が走る。
そして。
バルトは低い声で続けた。
「もし、この宿で保管中に失われたとなれば……」
「宿屋にも責任が及ぶことになるぞ」
その言葉に。
リナの顔色が変わった。
「そんな……」
エマさんも不安そうにアルドさんを見る。
アルドさんは拳を握った。
「俺たちは……そんなことはしていない」
しかし。
状況だけを見れば。
疑いを晴らす証拠は、まだ何もなかった。
◇ ◇ ◇
私は黙って部屋を見渡した。
荒らされた室内。
散らばった荷物。
開いた引き出し。
そして。
部屋の隅に置かれた木箱。
何かが引っかかる。
でも。
分からない。
何がおかしいのか。
言葉にできない。
前の世界なら。
こういう時。
科学捜査の人たちは、小さな証拠を探していた。
誰も気づかない痕跡。
そこに残された真実。
でも。
今の私は違う。
何の力もない。
ただ、この世界へ迷い込んできただけの人間だ。
◇ ◇ ◇
「……待ってください」
アルドさんが静かに口を開いた。
「リーヴェルには、王国から派遣されている騎士様がいる」
リナが顔を上げる。
「レオン様……」
「ああ」
アルドさんは頷く。
「街道警備のために、近くの詰所に駐屯している」
「彼なら、この状況を調べてくれるはずだ」
そして。
宿屋の外へ向かって声を上げる。
「誰か!」
「騎士様を呼んできてくれ!」
宿にいた客の一人が頷く。
「分かった!」
そう言って、夜のリーヴェルへ走っていった。
◇ ◇ ◇
時間が経つ。
誰も口を開かない。
重い空気だけが部屋を包む。
バルトは不安そうに木箱を見る。
アルドさんは悔しそうに黙っている。
リナは両親を心配そうに見つめていた。
そして私は。
もう一度、部屋を見渡した。
何か。
何かがおかしい。
そんな感覚だけが残っていた。
◇ ◇ ◇
その時。
遠くから音が聞こえた。
馬の蹄。
静かな夜のリーヴェルに響く。
カツン。
カツン。
やがて。
宿屋の前で音が止まった。
扉が開く。
そこに立っていたのは。
白銀の鎧を身につけた青年だった。
整った顔立ち。
冷静な瞳。
ただ立っているだけで、周囲の空気を変える存在感。
青年は静かに口を開いた。
「王国騎士団所属」
「レオン・ヴァルハルト」
「盗難事件が起きたと聞いた」
その瞬間。
私は彼と目が合った。
なぜだろう。
初めて会ったはずなのに。
この人とは。
きっと簡単には分かり合えない。
そんな予感がした。
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