第8話「告白(ハナへ)」
言おう、と思った日は、三回あった。
一回目は、ハナと近所のスーパーに買い物に行った帰り道だった。夕暮れの中を並んで歩いていて、ハナがエコバッグを両手で持ちながら鼻歌を歌っていた。言えそうな気がした。でも言えなかった。
二回目は、ハナの部屋でNetflixを見ていたときだった。映画が終わって、エンドロールが流れていて、二人とも黙っていた。あの静けさの中なら言えそうな気がした。でも言えなかった。
三回目は、ケンジの部屋でハナが宿題をしているのをぼんやり眺めていたときだった。ハナがシャープペンシルを口にくわえながら、眉をひそめて教科書を読んでいた。なぜかそのとき、今だ、と思った。でも結局言えなかった。
三回とも、財布の中のメモ用紙のことを思い出した。三回とも、心臓が一段階うるさくなった。三回とも、別の話題を探して、やり過ごした。
そして、四回目が来た。
木曜日の夜、ハナがケンジの部屋に来ていた。
特に理由はない。「近くまで来たから寄った」とハナは言った。手にはコンビニの袋があって、中にはプリンが二個入っていた。「一個あげる」とハナは言った。
二人でプリンを食べてから、ケンジのベッドに並んで腰かけて、スマートフォンで動画を見ていた。誰かが犬にいたずらをする動画で、犬が毎回まんまと引っかかるやつだ。ハナが「かわいいかわいい」と言いながら何度もリピートした。
三回目のリピートが終わったとき、ハナがスマートフォンを置いた。
伸びをした。
それから、ケンジの肩に頭を乗せた。
「今日、なんかゆっくりできていい感じ」
「そうか」
「うん。最近ちょっと課題多くて、疲れてたんだよね」
「お疲れ」
「ケンジの部屋、なんか落ち着くんだよな」とハナは言った。「なんでだろ」
「さあ」
「ケンジがいるからかな」
ケンジは何も言わなかった。
ハナの頭の重さが、肩にかかっていた。
部屋が、静かだった。
外から、虫の声が聞こえた。いつの間にか、そういう季節になっていた。
このとき、ケンジの中で何かが決まった。
決まった、というより決まってしまった、という感じだった。
今だ、という感覚が来た。三回とも来て、三回とも逃した、あの感覚が。でも今回は、逃す気がしなかった。
理由はわからない。タイミングが良かったわけでも、準備ができたわけでもない。ただ、ハナが「ケンジがいるからかな」と言って、その声があまりにも自然で、あまりにも無防備でその声に向かって、言わなければいけない気がした。
ケンジは一度、深く息を吸った。
「……ハナ」
「ん?」
「ちょっと、聞いてほしいことがある」
ハナが顔を上げた。
ケンジの顔を見た。
何かを感じ取ったのか、ハナの表情が、少し真剣になった。
「……なに?」
ケンジは、財布の中のメモ用紙のことを思った。
四行。
ずっと言えなかったことがある。お前の鼻にワサビ入れたい。変なのはわかってる。でも、ずっとそう思ってた。
覚えていた。全部、覚えていた。
「俺、ずっと言えなかったことがあって」
ハナが静かに聞いている。
「変なことだって、自分でもわかってる。聞いてびっくりするかもしれないし、引くかもしれない。それでも、ずっと一人で抱えてたら、なんかそれはそれで違う気がしてきて」
「……うん」
「だから、言う」
ケンジは、ハナの目を見た。
ハナが、真っ直ぐ見返していた。
「お前の鼻にワサビ、入れたい」
沈黙が、降りた。
一秒。
二秒。
三秒。
ケンジは、ハナの顔から目を逸らせなかった。逸らしたら負けな気がした。何に負けるのかはわからないが、とにかく逸らしてはいけない気がした。
四秒。
五秒。
ハナの目が、少し細くなった。
眉が、かすかに動いた。
口が、ゆっくりと開いた。
「……え」
「……ああ」
「ワサビ?」
「ワサビ」
「私の鼻に?」
「お前の鼻に」
ハナはしばらく、ケンジを見ていた。
ケンジも、ハナを見ていた。
部屋の外で、虫が鳴いていた。
そして、ハナは眉をひそめた。
困惑しているわけでも、怒っているわけでもない、独特の顔だった。何かを頭の中で処理しようとしているような、考えているような顔だった。
五秒。
十秒。
それから、ハナが言った。
「……なんで今まで言ってくれなかったの?」
ケンジの時が、止まった。
「え」
「だから、なんで言ってくれなかったの」とハナは繰り返した。「ずっとそう思ってたんでしょ?」
「……そう、だけど」
「じゃあ言ってくれたらよかったじゃん」
「……引かないのか」
「引く?」とハナは首をかしげた。「何に?」
「ワサビの話に」
「え、なんで引くの」
「……普通、引くんじゃないかと思って」
ハナはしばらく考えた。本当に考えているようだった。
「うーん」とハナは言った。「確かに変だけど」
「変だろ」
「変だけど……なんか、ケンジが変なのは知ってたし」
「知ってたのか」
「なんとなく」とハナは言って、少し笑った。「それに、私鼻強いし。別に平気だし」
「……知ってた、それも」
「あ、ファミレスで話したやつか」ハナが目を丸くした。「もしかしてあのとき、ケンジがぼーっとしてたの、それが理由?」
「……そうだ」
「じゃあもっと前から思ってたんだ」
「……付き合い始めた頃から、だいたい」
ハナは「へえ」と言った。怒っていない。不思議そうな、でも、どこか面白そうな顔をしていた。
「やってみよ」とハナが言った。
「……え」
「だからやってみよって」
「……今?」
「今じゃなくてもいいけど」とハナは言った。「でもまあ、せっかく言ってくれたんだし」
ケンジは頭が真っ白になっていた。
想定の、遥か外側にいた。
引かれると思っていた。怒られるかもしれないと思っていた。最悪、別れることになるかもと思っていた。なのに「やってみよ」。
「……本当にいいのか」
「うん」
「嫌だったら言えよ」
「言う」
「痛かったら」
「痛くないって言ったじゃん、私」
「……そうだったな」
ケンジは立ち上がった。
冷蔵庫に向かった。
ドアポケットを開けた。
ワサビチューブが、四本、並んでいた。
ハナの声が後ろから聞こえた。
「……なんで四本あるの?」
「……買い込んでた」
「どんだけ」
チューブを一本取った。
ベッドに戻った。
ハナが、ケンジを見上げていた。
笑っていた。
ちゃんと、笑っていた。
怖くはなさそうだった。楽しそうですら、あった。
「ほんとにいいのか」とケンジはもう一度だけ聞いた。
「いいよ」とハナは言った。「ケンジがずっと思ってたんでしょ。なんか、それを知ったら、やってみたくなった」
「……なんで」
「なんでだろ」とハナは言った。「好きな人が思ってたことって、体験してみたくなるじゃん、なんか」
ケンジは、その言葉を頭の中で繰り返した。
好きな人が思ってたことを、体験してみたくなる。
それはケンジが言葉にできなかった、ずっと言葉にできなかった何かと、もしかしたら同じ構造をしているかもしれなかった。
ケンジは、ワサビチューブのキャップを開けた。
ハナが、少し目を細めた。
「……どのくらい入れるの?」
「ほんの少し」
「ちょっとだよ?」
「ちょっとだ」
「じゃあいいよ」とハナは言って、少し上を向いた。
ケンジは、チューブをハナの鼻に近づけた。
三センチ。
二センチ。
一センチ。
これは現実か?
半年近く、頭の中だけにあったものが、今、現実になろうとしている。ため池に溜まり続けた水が、今まさに、出口を見つけようとしている。
ケンジの手が、わずかに震えていた。
緊張しているのか、笑いをこらえているのか、自分でもわからなかった。
ハナの鼻が、目の前にあった。
小さくて、丸みのある、完璧な鼻が。
「……いくぞ」
「うん」
ほんの、ほんの少しだけチューブを傾けた。




