第7話「作戦会議」
世の中には、言いにくいことというものがある。
「実は君のことが好きだ」とか、「給料を上げてほしい」とか、「そのヘアスタイル、似合っていないと思う」とか。言葉そのものはシンプルでも、それを口に出すまでの道のりが、とてつもなく長いやつだ。
田中ケンジが抱えている問題は、そのカテゴリに属していた。
いや、正確にはそのカテゴリの、かなり特殊な亜種だった。
日曜日の昼、ケンジはトモを自分の部屋に呼んだ。
ファミレスでは話しにくいことがある。周りに人がいると、声のボリュームに気を遣う。この話は、気を遣わずにできる環境でしたかった。
トモは十二時過ぎに来た。コンビニで買ってきたらしいおにぎりを二個持っていた。
「腹減ってたから買ってきた。一個やる」
「ありがとう」
二人でおにぎりを食べた。ツナマヨと、鮭だった。ケンジはツナマヨをもらった。
食べ終えてから、トモが「で、話って何だ」と言った。
「ハナにどう切り出すか、相談したい」
トモはしばらくケンジを見た。
「……ワサビの件を、本人に話すのか」
「話そうと思う」
「正気か」
「正気だと思う」
「本当に正気か」
「……七割くらいは正気だと思う」
トモはため息をついた。ここ最近、トモのため息の頻度が上がっている。ケンジのせいだということは、ケンジ自身も理解している。
「なんで急にそういう気になったんだ」とトモが聞いた。
「急じゃない。ゆっくり、そういう気になっていった」
「ハナちゃんが鼻強いって聞いてからか」
「それもある。でもそれだけじゃない」
ケンジは少し考えてから言った。
「ハナに黙ったままやるのは、なんか違う気がしてきたんだ。ずっと一人でぐるぐるしてたけど、それって、ハナのことを見てないような気がして」
トモはしばらく黙った。
それから「お前、本当に少し成長したな」と言った。
「ワサビの話で成長と言われるのは複雑だが」
「俺も言いながら複雑だった」
二人は向かい合って座った。
トモが「整理するぞ」と言った。こういうとき、トモは自分が議長になる。昔からそうだ。ケンジが感情的に動き、トモが構造を整理する。長年の役割分担だった。
「お前がやりたいことは、ハナちゃんの同意を得た上で、鼻にワサビを入れること。合ってるか」
「……合ってる」
「口に出すと改めてどうかしてるな」
「わかってる」
「でもまあ、それが目標だとして」トモはペンを取り出して、そのへんにあったメモ用紙に何かを書き始めた。
【問題は二つだ。一つ目、どうやってその話を切り出すか。二つ目、ハナちゃんが同意するかどうか】
「二つ目はどうしようもない」
「そうだな。ハナちゃん次第だ。だから一つ目だけ考えよう」 トモはメモ用紙に【切り出し方】と書いた。
「どう切り出すつもりだった?」
「それがわからないから呼んだ」
「何も考えてないのか」
「考えはしてるんだが、全部ダメな気がして」
「とりあえず出してみろ」
ケンジは考えていた案を、順番に口に出した。
まず一案目。「ハナ、ちょっと面白いことしてみない?」から始めるやつ。
トモが即座に言った。「ダメだ」
「なんで」
「『面白いこと』の定義が広すぎる。ハナちゃんが『面白いこと』として想定する範囲に、ワサビは絶対入ってない。落差が大きすぎて、驚きより困惑が勝る」
「なるほど」
二案目。「俺、ずっとやってみたかったことがあって」と前置きしてから話すやつ。
「ダメだ」とトモが言った。
「また即座だな」
「『やってみたかったこと』という言い方は、相手への配慮がない印象を与える。ハナちゃんが道具みたいに聞こえる」
ケンジは黙った。確かに、と思った。
三案目。笑いながら「こんなこと言うの変なんだけどさ」と軽い雰囲気で切り出すやつ。
「ダメだ」
「即座すぎる、せめて考える素振りを見せてくれ」
「考えた。ダメだ。軽い雰囲気で言うと、ハナちゃんも軽く受け取って流される可能性がある。ちゃんと聞いてもらいたいなら、それなりの誠実さが必要だ」
ケンジはメモを取った。
四案目。真剣な顔で「大事な話がある」と言ってから切り出すやつ。
トモが少し考えた。今度は二秒くらいかかった。
「ダメだ」
「今度は少し考えたな」
「『大事な話』という前置きは、ハナちゃんに必要以上の緊張を与える。別れ話か、重い告白か、何か深刻な問題かと思わせる。その緊張状態でワサビの話をしたら、落差のダメージが大きい」
「落差のダメージ」
「そう。どんな話でも、前置きと内容の落差が大きすぎると、内容よりも落差への反応が先に来る。怒りとか、脱力とか」
なるほど、とケンジは思った。トモは時々、こういう的確なことを言う。
五案目は、ケンジが少し時間をかけて考えたやつだった。
「ハナ、一個だけ正直に言っていいか、と前置きして、その後に『俺、お前の鼻にワサビ入れてみたいと思ってたんだよね』と言う」
トモが黙った。
五秒。
十秒。
「……これは、悪くない」
「おお」
「前置きが短い。『正直に言う』という断りを入れることで、誠実さが出る。内容も、遠回りせずに直球だ」
「でも」とケンジは言った。「なんか、脈絡がなさすぎる気がして」
「脈絡がなくていいんじゃないか。脈絡をつけようとするから複雑になる」
「じゃあこれでいいか」
「……いや、待て」トモが腕を組んだ。
「『入れてみたいと思ってた』という過去形が弱い。思ってた、だと、今は思ってないのかという解釈もできる」
「じゃあ現在形で『入れたい』にするか」
「それはそれで、いきなりすぎる」
「どっちでもダメか」
「難しい」
二人は黙った。
六案目は、トモが提案した。
「状況を作るのはどうだ。例えば一緒に寿司を食べながら、ワサビを見て『これ、鼻に入れたらどうなるんだろうな』とつぶやく。自然な流れで話題にする」
ケンジは考えた。
「ハナが普通に『知らない、痛そう』で終わる可能性がある」
「そしたら『俺、ちょっとやってみたいんだよね、お前の鼻に』と続ける」
「……それ、状況作ってるのに結局直球じゃないか」
「まあ、そうだな」
トモがメモ用紙に何かを書いて、また消した。
「結局さ」とトモが言った。「どう切り出しても、内容はあの内容だから、受け取るハナちゃんがどういう人かの方が重要なんじゃないか」
「どういう意味だ」
「ハナちゃんは、天然で、おおらかで、鼻が強くて、悪ノリを楽しめる性格だろ」
「そうだな」
「だったら、どう切り出すかより、ちゃんとお前の気持ちが伝わるかどうかの方が大事じゃないか。小細工より、誠実さだ」
ケンジはしばらく黙った。
誠実さ。
ワサビを鼻に入れたいという話に、誠実さ、という言葉が組み合わさる光景は、なかなかシュールだった。でもトモの言っていることは、たぶん正しかった。
「七案目を考えるか」とケンジが言った。
「書いてみろ」
ケンジはメモ用紙を引き寄せて、ペンを持った。
しばらく考えて、書いた。
「ずっと言えなかったことがある。お前の鼻にワサビ入れたい。変なのはわかってる。でも、ずっとそう思ってた」
トモに見せた。
トモが読んだ。
三十秒くらい、黙っていた。
「……これでいいんじゃないか」
「本当か」
「短い。正直だ。変なのはわかってると自分で言ってる。それが逆に誠実に聞こえる」
「ハナが引いたら」
「引いたら引いたで、それはしょうがない」
「引かないと思うか」
トモはしばらく考えた。
「ハナちゃんのことは、お前の方がよく知ってるだろ」
ケンジはメモ用紙を眺めた。
自分で書いた四行を、何度か読んだ。
ずっと言えなかったことがある。
お前の鼻にワサビ入れたい。
変なのはわかってる。
でも、ずっとそう思ってた。
……これを、ハナに言うのか。
言える気がしなかった。でも、言えないとも言い切れなかった。
「タイミングはどうする」とトモが聞いた。
「わからない」
「二人きりの、リラックスした状況がいいんじゃないか。改まった場所より、普段のやりとりの延長みたいな場面の方が、ハナちゃんも構えない気がする」
「なるほど」
「まあ、最終的にはお前次第だ」
トモが帰ってから、ケンジは一人になった。
メモ用紙を、テーブルの上に置いたまま、眺めた。
七案目の、四行。
言えるか。
言えるだろうか。
正直なところ、言えるかどうかよりもハナがどう反応するかの方が、ずっと怖かった。
怒るかもしれない。引くかもしれない。「意味わかんない」と笑って流されるかもしれない。
何か、言葉で伝えた先に、何かがある気がした。ぐるぐると一人で抱え続けるよりも、ハナに向かって言葉にした先に、何かが待っている気がした。
それが何なのか、まだわからない。
でもケンジは、メモ用紙を折りたたんで、財布の中に入れた。
捨てなかった。
それだけで、今日のところは十分だと思った。




