第6話「ハナの暴露」
神は、いる。
ケンジはこれまでの人生で、その命題についてそれほど真剣に考えたことがなかった。宗教的な関心が薄かったし、哲学的な議論が得意なタイプでもない。神がいるかいないかよりも、明日の昼飯が何かの方が、日常的には重要な問題だった。
でもこの日の午後、ケンジは初めて、神の存在を確かに感じた。
感じた場所が、ファミレスのボックス席だったことには、若干の趣のなさを感じたが、それでも確かに感じた。
土曜日の昼過ぎ、ケンジとハナはいつものファミレスにいた。
特に理由はない。ハナが「ファミレスのパフェが食べたい」と言い、ケンジが「じゃあ行くか」と言っただけだ。ハナはチョコレートパフェを頼み、ケンジはハンバーグセットを頼んだ。
食べながら、話していた。
ハナの地元の話。小学校の頃の話。友達と悪ふざけをしていた話。
ハナは昔話をするとき、少し子供みたいな顔になる。目が細くなって、声が一トーン上がる。ケンジはそれを聞きながら、ハンバーグを食べていた。
「小学校のとき、罰ゲームが流行ってたんだよね」とハナが言った。
「ほう」
「なんか、負けた人が変なことする系の。ゲームの罰でアイス一気食いとか、罰でクラスの好きな人に告白するとか」
「古典的だな」
「そうそう、でも盛り上がるんだよねああいうの」ハナはパフェのチョコを掘り出しながら続けた。
「私さ、鼻が強いんだよね」
ケンジの箸が、止まった。
「……鼻が、強い?」
「うん。なんか、ツーンってするやつが平気で。罰ゲームで鼻にいろいろ入れられてたんだよね、よく」
ケンジの時が、止まった。
ハンバーグを切りかけた状態で、ナイフとフォークが空中に浮いたまま、固まった。
ハナはパフェを食べながら、特に気にした様子もなく続けた。
「からしとか、タバスコとか、あと一回ワサビも入れられたっけ。みんな私が大騒ぎすると思ってやるんだけど、全然平気で逆に向こうがびっくりしてた」
「…………」
「体質なのかな。ツーンってくるのはわかるんだけど、なんか、痛いっていうより、むしろちょっと気持ちいいくらいで」
「…………」
「ケンジ?」
ハナがケンジを見た。
ケンジはまだ、ナイフとフォークを空中に浮かせたまま、固まっていた。
「どうしたの、顔が変だよ」
「…………いや」
「なんか、ぼーっとしてる」
「……少し、驚いた」
「何に?」
「鼻が、強いという話に」
ハナは首をかしげた。「そんなに驚くこと?」
「……いや」ケンジはゆっくりとナイフとフォークを皿に戻した。
「驚くことでは、ないかもしれない」
「でしょ」とハナは言って、パフェに戻った。「そんなことより、このチョコ、下に結構埋まってたよ。掘るの楽しい」
ケンジはハンバーグを食べながら、自分の心の中を観察した。
今、自分の中で何が起きているか、を。
まず、驚いた。それは確かだ。
次に何か、大きなものを受け取ったような感覚があった。
天から、何かが降ってきたような。
ハナは鼻が強い。ツーンとするものが平気だ。ワサビを入れられたことがある。しかも「ちょっと気持ちいいくらい」と言った。
これは、これは、つまり……。
ケンジの思考が、恐ろしい速さで展開し始めた。
障壁の一つが、消えた。「ハナが苦しむかもしれない」という懸念が、少なくとも一段階、薄まった。入れても、大騒ぎするほどのダメージはないかもしれない。むしろ平気かもしれない。いや、それどころか。
「……ちょっと気持ちいい」
ケンジは知らず知らずのうちに、その言葉を小声で繰り返していた。
「え、何?」とハナが顔を上げた。
「なんでもない」
「気持ちいい、って聞こえたけど」
「ハンバーグが美味しい、と言った」
「全然違う言葉じゃん」
でも、だ。
ケンジはハンバーグを食べながら、思考の別のレーンを走らせた。
仮にハナが平気だとして。仮に「ちょっと気持ちいい」程度の刺激だとして。
それでもそれをやっていいのか、という問題は、別の話だ。
ケンジは、トモが言った言葉を思い出した。
「お前、ハナちゃんのこと、ちゃんと見えてるか?」
見えているか。
ハナは鼻が強い。それは今日知った。でも、だからといって、同意なしにワサビを鼻に入れていいという話にはならない。
ならない、よな。
ならないはずだ。
ケンジの中の「真っ当な人間としての部分」が、しっかりとそこに線を引いた。
でも、その線を引きながら、心の別の場所で、小さな炎がゆらりと揺れた気がした。
消えかけていた炎ではなく。
より具体的な形になった炎が。
食べ終えてから、二人はしばらく話し続けた。
ハナは地元の話に戻って、中学のときの部活の話をした。バドミントン部だったこと、大会で一回戦負けが続いていたこと、でも練習後にみんなでコンビニに寄るのが好きだったこと。
ケンジはそれを聞きながら、相槌を打った。
でも頭の半分は、さっきの話を処理し続けていた。
鼻が強い。ワサビが平気。むしろ気持ちいいくらい。
この情報が、ケンジの中に静かに、しかし確実に蓄積されていった。
ダムに水が溜まるみたいに。
帰り道、駅までの並木道を歩きながら、ハナが言った。
「そういえばさ、なんでさっきそんなに鼻の話で驚いてたの?」
「……驚いてなかった」
「驚いてたよ。ナイフとフォーク持ったまま固まってたじゃん」
「考え事をしていた」
「何を?」
ケンジは少し間を置いた。
「……鼻というのは、不思議な器官だなと思って」
ハナは三秒、黙った。
それから「ケンジって、たまに言ってることがよくわからないよね」と言って、笑った。
「そうかもしれない」
「嫌いじゃないけど」
「そうか」
ハナがケンジの腕に寄りかかった。ゆっくりした足取りで、並木道を歩く。
ケンジは前を向いたまま、歩いた。
鼻が強い、という言葉が、頭の中でまだ鳴り続けていた。
神はいた、とケンジは思った。
でも神がいたからといって、それをすぐ行動に移すのは、なんか違う気がした。
違う気がした、というのは、倫理的な判断というよりも、もっと感覚的なものだった。
なんか、こう、ハナが知らないまま、一人で完結してはいけない、という気がした。
それはケンジにとって、少し新しい感覚だった。
これまでは「いかに実行するか」ばかりを考えていた。でも今日初めて、「ハナはこれについて、どう思うだろう」という問いが、頭の中に生まれた。
ハナは笑うだろうか。
怒るだろうか。
それとも「なんで今まで言ってくれなかったの」と言うだろうか。
まさか、そんなはずはないが。
家に帰って、ケンジはトモにLINEした。
「神はいた」
既読がついた。
「何の話だ」
「ハナが鼻強いらしい。ワサビ入れられても平気らしい」
少し間があった。
「……お前に情報を与えた神は、ろくな神じゃないな」
「俺もそう思う」
「で、どうするんだ」
ケンジはしばらく考えた。
「まだわからない。でも、ハナに黙ってやるのは、なんか違う気がしてきた」
既読がついて、しばらくしてから返信が来た。
「……お前、少し成長したんじゃないか」
「そうか?」
「ワサビの話で成長を感じるのは初めてだけど」
ケンジは苦笑いして、スマートフォンを置いた。
冷蔵庫のドアポケットには、ワサビチューブが四本ある。
でも今夜は、開けなかった。
開ける必要が、なんとなく、薄れていた。
やるならちゃんと、ハナに向き合った上でやるべきだ。
やるなら、という前提が既にどうかしているが、少なくとも方向性は定まった気がした。
窓の外、夜空に星が出ていた。
ケンジはそれを少しの間眺めてから、電気を消して布団に入った。
今夜は、わりとすんなり眠れる気がした。




