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彼女の鼻にワサビを突っ込む(願望)〜僕の純情と邪念〜  作者: 山田 ソラ


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第5話「代替案」

 問題を解決するためには、まず問題を正確に定義しなければならない。


 ケンジは大学の講義で、そう習ったことがあった。経営学の授業だったか、心理学だったか、もう覚えていない。ただその言葉だけが、なぜか頭の隅に残っていた。


 問題を正確に定義する。


 では、ケンジの問題とは何か。


 好きな彼女の鼻にワサビを入れたい、という衝動を抱えていること——ではない。少なくともケンジはそう思い始めていた。それは症状であって、問題の本質ではない。


 本質は、もっと手前にある気がした。


 その「手前」が何なのかを、ケンジはうまく言語化できないまま、金曜日の深夜を迎えた。


 きっかけは、些細なことだった。


 夕飯を作ろうとして冷蔵庫を開けたら、買い置きの豆腐の横に、ワサビチューブが三本並んでいた。


 三本。


 いつの間に三本になったんだ。


 ケンジは冷蔵庫の前でしばらく固まった。一本目は覚えている。二本目も、まあ、覚えている。三本目は——記憶にない。


 無意識の購買行動が、加速している。


 ケンジは豆腐だけ取り出して冷蔵庫を閉め、夕飯を食べながら考えた。


 そして食べ終えてから、ノートを一冊取り出した。大学の講義で使いかけのノートで、後ろの方のページがまだ白紙だった。そこを開いて、ペンを持った。


 書いた。


【問題:ワサビでなければならない理由はあるか】


 ペンを止めた。


 眺めた。


 それからまた書いた。


【仮説:ワサビでなくても、同様の効果が得られる可能性がある】


 効果、という言葉を書いてから、ケンジはそこで止まった。


 効果とは何だ。


 自分は、何を求めているんだ。


 ケンジは、ワサビの代わりになりうるものをノートに書き出し始めた。


 思考実験だ、と自分に言い聞かせた。これは純粋な思考実験であり、実行を前提とするものではない。ただ、問題の輪郭を明確にするための、知的な作業だ。


 まず、からし。


 ケンジはからしについて考えた。確かに刺激はある。ワサビと同じアブラナ科だ。成分的にも近い。鼻に入れた場合の反応も、おそらく似たようなものになるだろう。


 でも、なんか、ちがう。


 何がちがうのか、うまく言えない。ただ「からし」という文字を頭の中に浮かべてみると、どこかしっくりこない感じがある。


 ケンジはノートに【からし:却下】と書いた。


 次、七味唐辛子。


 七味はどうか。鼻に入れた場合、おそらくくしゃみが出る。刺激もある。しかし、なんというか七味はパウダー状だ。チューブではない。チューブでないと、なんとなく、操作の精度に欠ける気がする。


 操作の精度、という言葉を頭の中で反芻してから、ケンジは自分が何を考えているのかに気づいて、少し遠い目になった。


「……俺、精度とか考えてるのか」


 独り言が、部屋に落ちた。


 ノートに【七味:却下(粉末のため扱いにくい)】と書いた。実務的な理由だった。


 次、コショウ。


 コショウも粉末だ。さらに粒が細かい。鼻に入れたら最後、本人が一番苦しむことになる。リスクが高すぎる。


「……誰のリスクを心配してるんだ、俺は」


 ハナのリスクを心配しているのか、それとも自分が怒られるリスクを心配しているのか、その境界がよくわからなかった。


 ノートに【コショウ:却下(刺激過多、リスク大)】と書いた。


 ここで一度ペンを置いて、お茶を飲んだ。


 時計を見たら、深夜の一時を過ぎていた。


 次に浮かんだのは、マスタードだった。


 洋がらし。ツーンとした刺激。チューブに入っている。ワサビと見た目が似ている、と言えなくもない。


 ケンジはしばらく真剣に検討した。


 でも、ハナはマスタードが苦手だ、ということを思い出した。ホットドッグを食べるとき、ハナはいつもマスタードを避ける。「なんか匂いが苦手」と言っていた。


 鼻に入れるものが、匂いが苦手なものではいけない。


 ……と、ケンジは思った。


 思ってから、ペンを止めた。


 今、自分は何を考えた?


 鼻に入れるものが、匂いが苦手なものではいけない?


 それはつまりハナが嫌がるものを鼻に入れてはいけない、という配慮か?


 配慮?


 鼻に、何かを入れることを前提とした上での、配慮?


 ケンジはしばらく天井を見た。


 自分の思考回路が、どこかで根本的に狂っている気がした。でも、どこから狂っているのかが、もうわからなかった。


 ノートに【マスタード:却下(ハナが苦手)】と書いた。


 その後も検討は続いた。


 わさび漬けは却下(固形物は不向き)。


 ラー油は却下(油分があるため後処理が大変)。


 後処理、という言葉をノートに書いたとき、ケンジはまた手が止まった。


 後処理を考えている。


 実行後の処理を、真剣に考えている。


 これはもはや「思考実験」の範囲を超えているのではないか。


 ケンジはノートを閉じた。


 お茶を飲んだ。


 窓の外を見た。深夜の住宅街が、静かに広がっていた。


 ノートを閉じてから十分後、ケンジは再びノートを開いた。


 そして最後の一行を書いた。


【結論:やっぱりワサビじゃないといけない】


 書いてから、その下に続けた。


【理由:わからない】


 さらにその下。


【なぜわからないのか:もっとわからない】


 ペンを置いた。


 ノートを眺めた。


 約一時間の思考実験の結果が、この三行だった。


 からし、七味、コショウ、マスタード、わさび漬け、ラー油。全部検討した。全部却下した。理由はそれぞれ違うが、本質的な却下理由は一つだった。


 ワサビじゃないからだ。


 それ以外の理由が、ない。


 ワサビじゃないといけない理由は説明できないのに、ワサビじゃないものは全部なぜかしっくりこない。これは論理的に、ケンジがワサビに固執していることを意味している。


 ワサビへの固執。


 ケンジはその言葉を頭の中で転がした。


 固執とはなんだろう。何かに強く引き付けられること。何かを手放せないこと。何かに


 ふと、思った。


 ワサビへの固執と、ハナへの執着は、もしかしたら同じ根っこから来ているのかもしれない。


 理由が説明できないのに、手放せない。


 理屈ではなく、ただそこに引き付けられる。


 ……それは、好きということではないか。


 ケンジはしばらく、その考えを頭の中に置いておいた。


 好き、という感情は、いつも理由の説明に失敗する。なぜ好きなのかを突き詰めると、最終的には「好きだから好き」にしか辿り着かない。それは恋愛に関しても、食べ物に関しても、趣味に関しても、たぶん同じだ。


 では……ワサビへの固執も、同じ構造なのか。


 好きだから、ワサビなのか。


 ワサビが好きなのか、ハナが好きだからワサビなのか、ワサビとハナが自分の中で何か繋がっているのか??


「……深すぎる」


 ケンジは呟いて、ノートを閉じた。


 今度は、本当に閉じた。


 眠れないまま、布団の中でスマートフォンを眺めた。


 ハナのSNSに、今日の夕方に投稿された写真があった。


 駅前のクレープ屋で買ったクレープの写真だった。ストロベリーとカスタードのやつ。コメントに「めちゃくちゃ美味しかった、また行きたい」と書いてある。


 ケンジはその投稿を眺めた。


 クレープを食べて、美味しかったと言える。そういう単純な幸福を、ハナはいつも大事にしている。難しいことを考えない。余計なことを悩まない。美味しいものは美味しいと言い、眠いときは眠り、笑いたいときは笑う。


 いいな、とケンジは思った。


 自分はここ最近、ワサビのことを考えすぎている。なぜワサビなのかを考えて、代替案を検討して、ノートに書き出して、また考えて……全部、一人でぐるぐるしているだけだ。


 前に進んでいない。


 ハナはクレープを食べて前に進んでいるのに、ケンジはワサビを前にして立ち止まったままだ。


 ……前に進む、とは何だ。


 この場合、前とはどこだ。


 ケンジはスマートフォンを伏せた。


 暗い天井を見た。


 いつかこの悶々とした日々に、答えが出るのだろうか。


 それとも、ワサビチューブを冷蔵庫に三本抱えたまま、答えの出ない思考実験を繰り返し続けるのだろうか。


 わからなかった。


 ただ一つだけわかることがあった。


 明日、スーパーに寄ったらワサビを買ってしまうだろう、ということだ。


 四本目を。


 翌朝、冷蔵庫のドアポケットには、ワサビチューブが四本並んでいた。


 いつ買ったか、記憶にない。




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