第4話「ハナの無防備」
木曜日の放課後、ケンジはハナと一緒に帰っていた。
大学から駅までの道は、十二分ほどかかる。イチョウ並木の続く緩やかな坂道で、秋になると銀杏が落ちて大変なことになるが、今の季節はただ気持ちのいい並木道だった。
ハナはケンジの左隣を歩いていた。鞄を両手で抱えて、特に目的もなく辺りを見回しながら、ゆっくりとした足取りで歩く。急がない人だ、とケンジはいつも思う。ハナは何をするにも急がない。
ご飯を食べるのも、歩くのも、考えるのも、全部ゆっくりだ。
その日も、二人はとりとめのない話をしていた。
ハナの友人が失恋したとか、学食のチキン南蛮が最近味変わった気がするとか、昨日見たテレビで猫が面白いことをしていたとか、そういう話だ。ケンジは相槌を打ちながら歩いた。
並木道の真ん中あたりまで来たとき、ハナが急に黙った。
ケンジは気づかずに二歩ほど進んでから、隣にハナがいないことに気づいて振り返った。
ハナは立ち止まって、スマートフォンのカメラを自分に向けていた。
「何してるんだ」
「自撮り」
「なんで急に」
「なんとなく」
ハナはカメラをいろんな角度に動かしながら、自分の顔を確認していた。正面、斜め、下から、上から。しばらくそれを繰り返してから、眉をひそめた。
「ねえケンジ」
「なんだ」
「私の鼻、なんか変?」
ケンジの時が、止まった。
止まった、というのは比喩ではなく、ほとんど文字通りだった。
足が止まった。思考が止まった。心臓だけが、やけにうるさく動き続けた。
ハナは特に深い意味もなさそうに、スマートフォンの画面を見ながら続けた。
「なんか今日、鼻が大きく見える気がして。角度のせいかな」
「…………」
「ケンジ?」
「…………あ、ああ」
「変じゃない?」
変じゃない、という言葉が、ケンジの頭の中で奇妙なエコーを起こした。
変じゃない。変じゃない。変じゃない。むしろ、その鼻こそが問題の核心であり、ケンジがここ二週間近く悶々と抱え続けている執着の対象であり??
「か、完璧だよ!!!」
叫んでいた。
並木道に、ケンジの声が響いた。近くを歩いていたカップルが振り返った。前方を歩いていたおじさんも振り返った。銀杏の木が、風もないのに少し揺れた気がした。
ハナが目をぱちくりさせた。
「……完璧?」
「完璧だ」ケンジは声を落とした。「なんの問題もない。非常に、その、理想的な鼻だ」
「理想的って、なんか採点みたいな言い方だね」
「そんなことはない」
「なんか顔赤くない?」
「日差しが強い」
「曇ってるけど」
「日差しが、弱い」
ハナはしばらくケンジを見てから、ふわっと笑った。
「えへへ、ありがとう。完璧かあ」
そう言って、また歩き出した。
ケンジは一瞬遅れて、隣に並んだ。
心臓がまだうるさい。
ハナが鼻の話をしたのは、それで終わりではなかった。
駅までの残り五分、ハナは思い出したように続けた。
「そういえばさ、昔から鼻が低いのがちょっと気になってたんだよね」
「低くない」
「低いよ。自分の顔だからわかる」
「低くない」
「即答しないでよ、見てから言って」
ケンジは努力してハナの鼻を「普通に」見た。
普通に見ようとした。
できなかった。
普通に見るとはどういうことなのか、もはやケンジにはわからなかった。ただの顔のパーツとして、フラットに認識しようとすればするほど、脳みそが別の方向に滑っていく。
「……普通だ」
「普通か、完璧か、どっちなんだよ」
「完璧な普通だ」
「意味わかんない」とハナは笑った。「ケンジって鼻フェチなの?」
ケンジは三秒、固まった。
「……違う」
「なんか否定するのが遅くない?」
「フェチという言葉の定義を考えていた」
「定義?」
「深い話だ」
ハナはけらけらと笑った。「なにそれ」と言って、ケンジの腕に自分の腕を絡めた。
ケンジは前を向いたまま、歩いた。
鼻フェチ、という言葉が頭の中で反響していた。
違う、とケンジは思った。
これは鼻フェチではない。鼻フェチというのは鼻が好きだということだ。ケンジが抱えているのはそういう話ではなく、もっと、こう、なんというか……。
なんというか、なんだ。
ケンジは答えを持っていなかった。
でも「違う」とだけは、はっきりわかった。
駅の改札前で、ハナと別れた。
ハナは「また明日ね」と言って、手を振って、改札を通っていった。
ケンジはしばらく、ハナの後ろ姿を見送った。
完璧だよ、と言った。自分で言っておいて、それは本当のことだとケンジは思った。完璧なのだ、ハナの鼻は。何も問題がない。美醜の話ではなく、造形の話でもなく、ただ単純に、完璧なのだ。
完璧すぎて、入れたいくらいだ。
……ちがう。
ケンジは頭を振った。
今のは、なかったことにする。
家に帰ってから、ケンジはトモにLINEを送った。
「今日ハナに鼻のことを聞かれた」
既読がついて、すぐ返信が来た。
「何て答えた」
「完璧だよと叫んだ」
しばらく間があった。
「叫んだ?」
「叫んだ」
「声に出して?」
「声に出して」
「並木道で?」
「並木道で」
また少し間があった。
「お前、大丈夫か」
ケンジはスマートフォンを置いて、天井を見た。
大丈夫かどうか、自分でもわからなかった。
ただ一つだけわかることがあった。
ハナが「鼻なんか変?」と聞いてきたとき、ケンジの中に生まれた感情は、困惑でも動揺でもなく、その前に一瞬、確かに、なんとも言えない愛おしさだった。
なんで気にしてるんだ、と思った。何も変じゃない。何も問題ない。完璧だよ、という言葉は、叫んだのは恥ずかしかったが、内容は本心だった。
好きだな、と思った。
鼻が好きなのではない。
ハナのことが、好きだ。
……その好きの表現が、なぜワサビに向かっているのかは、相変わらずわからなかったが。
ケンジはもう一度トモにLINEを送った。
「大丈夫じゃないかもしれない」
返信は一言だった。
「知ってた」
その夜、ケンジは冷蔵庫を開けた。
ドアポケットのワサビチューブが、今日も静かにそこにあった。
ケンジはそれを見て、閉めた。
今日は触らなかった。
触らなかったが頭の中では、ハナが「私の鼻、なんか変?」と言いながらスマートフォンを傾ける仕草を、三回くらい再生していた。
愛おしい、と思った。
それだけは、純粋に、思った。




