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彼女の鼻にワサビを突っ込む(願望)〜僕の純情と邪念〜  作者: 山田 ソラ


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第3話「告白(トモへ)」

 人間には、一人で抱えていられる限界というものがある。


 悩みでも、秘密でも、どんなに「墓まで持っていく」と決意しても、どこかで必ず漏れ出す瞬間がある。ため池に水を注ぎ続ければ、いつか溢れる。それは物理の話であり、同時に、人間の話でもある。


 田中ケンジのため池が溢れたのは、ハナが膝枕で寝落ちしてから四日後の、火曜日の夜だった。


 きっかけは、たいしたことではなかった。


 夜の十時過ぎ、ケンジはコンビニで晩飯を買って帰る途中だった。袋の中には、おにぎりと唐揚げ棒と——なぜか、生わさびのチューブが入っていた。


 レジを通るとき、気づかなかった。


 袋から取り出すとき、気づいた。


 ケンジはしばらく、自分の手の中のワサビチューブを見つめた。


 買った記憶が、ない。


 正確には、買おうと思って買った記憶がない。なのに確かにここにある。ということは、無意識に手が伸びたということだ。


 それはつまりもはや、癖になっているということだ。


 ケンジは部屋のドアの前で、鍵を持ったまま、三分間立ち尽くした。


 そしてスマートフォンを取り出して、トモに電話した。


「……もしもし」


「なんだ、こんな時間に」


「今から会えるか」


「は? なんで」


「話がある」


 トモは少し間を置いてから「お前の声、なんか思ったより深刻そうだな」と言った。


「深刻かどうか、自分でもわからない」


「……ファミレスでいいか」


「ああ」


 駅前のファミレスは、夜の十一時でも適度に人がいた。


 ケンジとトモは奥の窓際のボックス席に座った。トモはコーヒー、ケンジはドリンクバーのコーラを頼んだ。


 向かいに座ったトモは、開口一番「ハナちゃんと別れるのか」と言った。


「違う」


「浮気したのか」


「してない」


「じゃあ何だ」


 ケンジはコーラを一口飲んだ。


 炭酸が喉を通り抜けた。


 言うか言うまいか、ここまで来てまだ迷っていた。これを口に出してしまったら、自分の中でそれが「ちゃんと実在する悩み」になってしまう気がした。今はまだ、頭の中の靄のようなものだ。言葉にした瞬間、それは形を持つ。


 でももう、限界だった。


「……なあ、トモ」


「ん」


「俺さ」


「ん」


「ハナの鼻に……」


 一回、止まった。


 トモが静かに待っている。


「ハナの鼻に、ワサビ入れたいんだよね」


 沈黙が、降りた。


 ファミレスのBGMが、のんきに流れていた。


 トモはコーヒーカップを持ったまま、固まっていた。口が、かすかに開いていた。


 五秒経った。

 六秒。

 七秒。


 トモがカップをソーサーに置いた。音が、静かな空間に響いた。


 そしてトモは、まっすぐケンジを見て、言った。


「別れろ」


「待って待って待って話聞いて」


「いや聞くことある? 別れろ」


「違うんだ、そういう話じゃないんだ」


「どういう話なんだよ」トモの声は怒っているわけではなかった。ただ、純粋に理解が追いついていない声だった。「俺は今、お前が彼女の鼻にワサビを入れたいと言ったと理解しているが、それは正しいか」


「……正しい」


「なんで」


「わからない」


「わからないのか」


「わからないんだよ」


 トモはしばらく天井を見上げた。何かに答えを求めるように。しかし天井には何もなかった。


「お前、ハナちゃんのこと好きなんだよな」


「好きだ。めちゃくちゃ好きだ」


「なのに鼻にワサビを入れたい」


「そうだ」


「好きだから入れたいのか」


「……かもしれない」


「意味がわからない」


「俺もわからない」


 二人は同時にそれぞれの飲み物を飲んだ。


 トモが「もう少し詳しく話せ」と言ったので、ケンジは最初から話した。


 寿司屋での発端。翌朝からの検索。ワサビチューブの購入。膝枕事件と、その矛先が自分に向いたこと。そして今夜、無意識にレジでワサビを買っていたこと。


 トモは途中で何度か「うん」と言い、一度だけ「自分の鼻に入れたのか」と確認し、それ以外は黙って聞いていた。


 ケンジが話し終えると、トモはコーヒーのおかわりを頼んだ。


 それから言った。


「整理するぞ」


「頼む」


「お前はハナちゃんが好きだ」


「好きだ」


「ハナちゃんの寝顔を見て、ワサビを入れようとした」


「した」


「でも寝顔がかわいすぎてできなかった」


「そうだ」


「代わりに自分の鼻に入れた」


「……そうだ」


「それで何を得た」


 ケンジは少し考えた。「ワサビの刺激の強さを実感した」


「それがどう役立つんだ」


「……わからない」


 トモはため息をついた。長い、深いため息だった。


「ケンジ、お前さ」


「なんだ」


「これ、悩みとして成立してるのか?」


「成立してると思うんだが」


「いや、悩みって普通、どうすべきかわかってるのに動けないとか、選択肢の間で迷ってるとかじゃないか。お前の場合、そもそもなんでそうしたいのかが謎だろ」


 ケンジは黙った。


 正論だった。


「動機が不明な衝動を、どう解決しろというんだ」とトモは言った。怒っていない。ただ、困惑している。「俺に何をしてほしくて呼んだんだ」


「……わからない。でも誰かに言わないと、どうにかなりそうだった」


 トモはしばらくケンジを見た。


 それから、少し声のトーンを落として言った。


「……そっか。まあ、それは、わかった」


 ケンジは少しだけ、肩の力が抜けた気がした。


「一個だけ聞いていいか」とトモが言った。


「なんだ」


「お前、ハナちゃんの鼻にワサビを入れた場合、その後どうするつもりなんだ。謝るのか、笑うのか、それとも一緒に笑うつもりなのか」


 ケンジは答えられなかった。


 そこまで考えていなかった。いや、正確には、そこを考えようとするたびに、思考が霧の中に入り込んで、出口を見失っていた。


「……一緒に笑いたい、のかもしれない」


「ハナちゃんが笑うと思うか」


「……わからない」


「怒ると思うか」


「……わからない」


「ケンジ」


「なんだ」


「お前、ハナちゃんのこと、好きなのはわかった」トモはまっすぐ言った。「でもそれ、ちゃんとハナちゃんのこと、見えてるか?」


 ケンジは黙った。


 それは優しい問いかけだった。責めているのではなく、ただ確認しているような、静かな声だった。


「見えてる、と思う」


「思う、か」


「……ああ」


 トモはそれ以上その話を続けなかった。


 ただ「まあ、急ぐなよ」と言って、コーヒーを飲んだ。


 深夜一時に、二人はファミレスを出た。


 夜風が冷たかった。


 駅に向かって並んで歩きながら、トモが


「で、結論は出たのか」と聞いた。


「出ていない」


「だよな」


「少し楽にはなった」


「そりゃよかった」


 しばらく二人とも黙って歩いた。


 信号が赤に変わって、足を止めた。


 トモが「ひとつだけ言っておくぞ」と言った。


「なんだ」


「俺はお前の味方だ」トモは前を向いたまま言った。「ワサビのこととか、正直まだ全然意味わかんないけど。でも、お前がハナちゃんのこと大事にしてるのは、わかる」


 ケンジは何も言わなかった。


「だからまあ、どうにかなるんじゃないか。たぶん」


「根拠は」


「ない」


 信号が青になった。


 二人は歩き出した。


 ケンジはコンビニ袋の中の、ワサビチューブの感触を手のひらで確かめた。


 どうにかなるか。


 どうにか、なるんだろうか。


 夜空には、星が少しだけ出ていた。




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