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彼女の鼻にワサビを突っ込む(願望)〜僕の純情と邪念〜  作者: 山田 ソラ


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第2話「チャンス到来」

 土曜日の午後というのは、罪深い時間帯だと思う。


 予定がなく、締め切りもなく、しなければならないことが何もない。そういう午後は、人間の理性をじわじわと溶かしていく。普段は鍵をかけている引き出しが、少しずつ、少しずつ、緩んでくる。


 ケンジはそれを、この日初めて実感した。


 ハナがケンジの部屋に来たのは、昼の十二時過ぎだった。


「暇だから来た」


 それだけ言って上がり込み、冷蔵庫を開けてプリンを一個取り出し、ケンジのベッドに寝転んだ。付き合って三ヶ月も経つとこうなる、という見本のような行動だったが、ケンジは何も言わなかった。こういうハナが好きだから。


 二人でテレビを見た。昼の情報番組で、芸能人が全国のラーメンを食べ歩く企画をやっていた。特別面白いわけでもないが、なんとなく見てしまうやつだ。


 ハナはプリンを食べ終えると、ケンジの太ももに頭を乗せた。


「膝枕していい?」


「もうしてるじゃないか」


「許可取っといた方がいいかなと思って」


 ケンジは苦笑いして、ハナの前髪をそっとかき上げた。ハナが目を細めて笑う。幸せそうな顔だ。こういう顔をされると、ケンジは胸の奥がきゅっとなる。


 テレビでラーメンの麺がほぐれていく映像が流れた。


 ハナの目が、ゆっくりと閉じ始めた。


「眠くなってきた」


「さっき来たばかりだろ」


「だって土曜日だもん」


 反論になっていないが、ケンジには反論できなかった。土曜日というのはそういう日だ、という気持ちが、自分の中にも確かにあったから。


 三分後、ハナは完全に寝ていた。


 すうすうと穏やかな寝息。膝の上で、無防備に、あまりにも無防備に、眠っている。


 ケンジはしばらく、テレビを見るでもなく、ハナの寝顔を見るでもなく、ぼんやりとしていた。


 静かだった。


 外から、遠くを走る車の音が聞こえた。


 風が窓を揺らした。


 そしてケンジの視線は、気づけば冷蔵庫の方を向いていた。


 ケンジが冷蔵庫にワサビチューブを常備するようになったのは、三日前からだった。


 自分でも、いつ買ったか正確には覚えていない。スーパーで無意識にカゴに入れていた。会計のとき、レジの人に変な目で見られた気がした。見られていないかもしれないが、見られた気がした。


 冷蔵庫のドアポケット。醤油と豆腐の横。緑色のチューブが、ひっそりと存在していた。


 ケンジは今、そのことを思い出していた。


 膝の上で、ハナが眠っている。


 鼻が、ある。


 冷蔵庫に、ワサビがある。


 これは!?これは、つまり!?


「…………」


 ケンジは三十秒、動かなかった。


 理性と何かが、音もなく交渉していた。


 理性が言う。やめろ。寝ている人間の鼻にワサビを入れるのは、どう考えても一線を越えている。ハナが怒る。泣くかもしれない。最悪、別れることになる。


 何かが言う。でも。


 理性が言う。でも、じゃない。


 何かが言う。ちょっとだけ。


 理性が言う。ちょっとでもダメだ。


 何かが言う。ほんのちょっとだけ。


 理性が、黙った。


 ケンジは、できるだけゆっくりと、ハナの頭を動かさないように気をつけながら、自分の太ももの下にクッションをそっと滑り込ませた。


 ハナは起きなかった。


 ケンジは立ち上がった。


 冷蔵庫まで、五歩だった。


 ドアポケットを開ける。醤油。豆腐。そして緑色のチューブ。


 手に取った。


 軽い。ひどく軽い。こんなに軽いものが、こんなに重大な意味を持っているのが、なんだかおかしかった。


 ベッドの方を見た。


 ハナが眠っている。


 ケンジはワサビチューブを持ったまま、ゆっくりとベッドに近づいた。


 一歩。

 二歩。

 三歩。


 ハナの寝顔が、近づいてくる。


 無防備な顔だ。まつ毛が長い。頬がほんのり赤い。口元がかすかに緩んでいて、いい夢でも見ているのかもしれない。


 そして、鼻。


 小さくて、丸みのある、ハナの鼻。


 ケンジはチューブのキャップに指をかけた。


 心臓が、おかしなくらいうるさかった。


 開ける。


 緑色が、チューブの先端にごく微量、にじみ出た。


 あとは、ほんの少し近づけるだけ、だ。


 ケンジは身をかがめた。


 チューブがハナの鼻に、近づいていく。


 五センチ。

 三センチ。

 二センチ。


 そのとき、ケンジはハナの寝顔を、真正面からまともに見てしまった。


 まいった。


 まいった、と思った。


 なんてことだ。なんて、穏やかで、無防備で、信頼しきった顔で眠っているんだ、この人は。眉ひとつ動かさず、世界で一番安全な場所にいるみたいな顔で、ケンジの部屋で、ケンジのベッドで、眠っている。


 この顔に。


 ワサビを。


 ……できるか。


 ケンジは十秒、その体勢のまま固まった。


 チューブを持った手が、宙に浮いたまま、止まっていた。


 できなかった。


 物理的にできないのではなく、精神的に、できなかった。


 ケンジはゆっくりと身を起こした。チューブのキャップを閉めた。


 それから自分の鼻を見下ろした。


 チューブを見た。


 自分の鼻を見た。


 チューブを見た。


 ……まあ、いいか。


 ケンジはチューブを自分の左の鼻の穴に、ほんの少しほんの気持ちだけ近づけて、ちょんと触れさせた。


 三秒後。


「っっっっ!!!!!!!」


 声にならない声を上げた。


 目に涙が滲む。鼻の奥から脳天に向かって、鮮烈な刺激が駆け上がっていく。ツーンどころではない。突き抜ける、という表現が正しい。思考が一瞬、真っ白になった。


 ケンジはその場にしゃがみ込み、口を手で押さえ、くしゃみを全力で抑えた。


 出したら、ハナが起きる。


 絶対に、起こしてはいけない。


 くしゃみが三回、喉の奥で爆発した。声はなんとか殺せた。代わりに目から涙が溢れた。視界がぼやける。鼻がツーンを通り越して、もはやジーンとしている。


 三十秒ほど、ケンジはベッドの脇でしゃがんだまま、静かに悶絶していた。


 ハナは起きなかった。


 すうすうと、平和な寝息を立て続けていた。


 涙が引いてから、ケンジはワサビチューブを冷蔵庫に戻した。


 洗面所で顔を洗って、鼻をかんだ。


 鏡の中の自分を見た。


 目が赤い。鼻の頭も赤い。なんとも言えない顔をしている。


「……俺は何をしているんだ」


 鏡の中の自分も、同じことを思っているようだった。


 リビングに戻ると、ハナがもぞもぞと動いていた。目を細めて、ケンジを見上げる。


「……起きてたのか?」


「今起きた。ケンジ、目赤くない?」


「あくびした」


「そっか」とハナは言って、また目を閉じた。「もうちょっと寝ていい?」


「好きにしろ」


 ケンジはハナの隣に腰を下ろした。


 ハナの鼻を見た。


 自分の鼻を思った。まだ少し、ジーンとしている。


 ……なるほど、と思った。


 痛い。確かに痛い。刺激が強い。思ったより全然、強い。


 そんな思考の流れの果てに、ケンジはひとつの、まったく不毛な結論に辿り着いた。


 だからこそ、か。


 自分でも何がだからこそなのか、うまく説明できなかった。


 でも、火種は消えるどころか、今日もまた、少し大きくなった気がした。




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