第1話「研究」
翌朝、ケンジは目が覚めた瞬間から、昨夜のことを思い出した。
寿司屋。ワサビ。ハナの鼻。自分の指。
枕に顔を押し付けたまま、五秒間、動かなかった。
「……忘れよう」
声に出して言った。声に出すことで、決意が固まる気がした。
忘れよう。あれは一時の気の迷いだ。疲れていたんだ。血糖値が乱れていたんだ。そういうことは誰にでもある。きっとある。あるはずだ。
ケンジは起き上がり、顔を洗い、コーヒーを淹れた。
いつもの朝だ。何も問題ない。
スマートフォンを手に取った。ハナからおはようのスタンプが届いていた。ラッパーのカエルが両手を振っているやつだ。意味はわからないが、ハナはいつもこれを送ってくる。
ケンジは同じスタンプを送り返した。これもいつものことだ。
コーヒーを一口飲んだ。
何も問題ない。
スマートフォンのブラウザを開いた。
検索欄に、指が動いた。
気づいたときには、もう打ち込んでいた。
【ワサビ 鼻 入れる どうなる】
エンターキーを押した瞬間、ケンジは我に返った。
「……忘れるって言ったじゃないか、俺」
でも指は、すでにスクロールを始めていた。
検索結果が並ぶ。医療系のQ&Aサイト、知恵袋、どこかのブログ。ケンジは眉間にしわを寄せながら、しかし目だけはしっかりと画面を追った。
刺激成分がどうとか。粘膜への影響がどうとか。アリルイソチオシアネートという物質がどうとか。
読んだ。全部読んだ。
読み終えてから、ケンジはスマートフォンをテーブルに置いて、コーヒーを飲んだ。
冷めていた。
「……痛いのか」
ひとりごとが、静かな部屋に落ちた。
そりゃそうだ。当たり前だ。ワサビは目に入っても強烈なのに、鼻に入ったらどれほどのものか。粘膜への刺激は相当なものだろう。くしゃみが出て、涙が出て、しばらく鼻がツーンとして……。
ケンジの脳裏に、ハナの顔が浮かんだ。
目を白黒させて、くしゃみを連発して、涙目になって、「ちょっとケンジ!!」と叫ぶハナ。
……なんで笑えるんだ、俺。
ケンジは自分が少し口元を緩めていたことに気づいて、すぐに引き締めた。いかん。これは笑えることではない。
もう一度、スマートフォンを手に取った。
今度は打ち込まないようにしよう、と思った。思ったのに……。
【ワサビ 鼻 危険性 医療】
打ち込んでいた。
追加で調べた。粘膜へのダメージについて。刺激が抜けるまでの時間について。過去に同様の事例がないかについて。
最後の検索に差し掛かったとき、ケンジはふと我に返り、検索欄を眺めた。
今朝だけで六回、検索している。
しかも内容が段々と具体的になっている。最初は「どうなるか」だったのに、今や「危険性」「医療」にまで踏み込んでいる。これはもはや、知的好奇心の域を超えている。
ケンジは深呼吸をした。
そして、スマートフォンの「履歴を削除」をタップした。
削除する前に確認画面が出た。「すべての履歴を削除しますか?」
タップした。
消えた。
それだけでは足りない気がして、ブラウザのキャッシュも消した。クッキーも消した。念のためブラウザのアプリ自体を一度閉じて、再起動した。
完璧だ。
証拠は何も残っていない。
ケンジはスマートフォンを置き、改めてコーヒーを飲もうとして、カップが空になっていることに気づいた。いつ飲み干したのか、記憶にない。
午後、大学に行くと、親友の村上トモが学食でひとりカレーを食べていた。
トモは中学からの腐れ縁で、ケンジの性格を骨の髄まで知っている男だ。背が高くて顔もいいのに、なぜかいつも残念な印象を与えるタイプで、本人もそれを自覚して受け入れている。
「よ」とトモは言った。「なんか顔色悪いぞ」
「そうか」
「寝れなかった? ハナちゃんと何かあった?」
「何もない」
ケンジはトマトパスタを頼んで、トモの向かいに座った。
食べながら、しばらく二人とも無言だった。トモはカレーを食べ、ケンジはパスタを食べた。学食のざわめきが二人の間を満たした。
「……なあ、トモ」
「ん?」
「お前、誰かを好きになったとき、なんか、変な衝動とか感じたことあるか」
トモはスプーンを止めた。少し考えてから「変な衝動ってどんな」と聞いた。
「いや……なんか、うまく言えないんだけど。論理的に説明できないような、その人にしたいこと、みたいな」
「ラブラブでイチャイチャしたいとかそういうこと?」
「もっと、こう……」
ケンジは言葉を探した。「ワサビを鼻に」という答えは、まだ喉の奥に引っかかったまま出てこなかった。
「もっとこう、なんか、おかしなことというか」
トモは首をかしげた。「おかしなこと?」
「…………いや、なんでもない」
「なんだよそれ」
「哲学的な話だ。気にするな」
トモは「こいつ何言ってんだ」という顔をしたが、それ以上追及しなかった。カレーの残りをすくって、口に入れた。
ケンジはパスタを食べながら、昨夜削除した検索履歴のことを考えた。
完璧に消した。誰にも見られていない。
では、なぜこんなに、頭の中にワサビの緑色が居座っているんだ。
夜、ケンジはまたスマートフォンを手に取った。
今日はもう調べない、と思っていた。本当に思っていた。
でも気づいたら、ブラウザを開いていた。
検索欄を見つめる。
今日学んだことを整理しよう、とケンジは思った。調べるのではなく、整理だ。整理には新たな検索は必要ない。今日仕入れた知識を、頭の中でまとめるだけだ。それだけだ。
五秒、我慢した。
十秒、我慢した。
【ワサビ 成分 刺激 持続時間】
打ち込んでいた。
ケンジはスクロールしながら、小さく、しかし確実に何かが自分の中で育っていくのを感じた。
それはまだ、形のない何かだった。
衝動と呼ぶには淡く、趣味と呼ぶには重く、愛情と呼ぶには——少し、方向がおかしかった。
研究は、続く。
その夜の検索履歴は、十一件だった。
消去にかかった時間は、検索にかかった時間より長かった。




