表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
彼女の鼻にワサビを突っ込む(願望)〜僕の純情と邪念〜  作者: 山田 ソラ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/11

プロローグ「発端」

 人を好きになるとはどういうことか。


 哲学者たちは言う。魂と魂が共鳴することだと。詩人たちは言う。心が満たされ、世界に色がつくことだと。

 

 田中ケンジ、二十二歳、大学三年生。

 彼が出した答えはこうだ。


「好きな人の鼻にワサビを入れたくなること。」

 

 ……自分でも、どうかしていると思っている。

 

 佐藤ハナと付き合い始めたのは、半年前の梅雨の終わりだった。

 サークルの飲み会で隣になって、酔ったハナが「ケンジくんって名前、なんか犬っぽいね」と笑った。


 普通だったら傷つくところだが、ハナの笑い方があんまりにも無邪気だったので、ケンジは気づいたら笑い返していた。

 

 翌週、二人でラーメンを食べた。その次の週、映画を見た。それだけで十分だった。ケンジにとってはもう、十分すぎるほどだった。

 

 ハナは天然だった。財布を冷蔵庫にしまうタイプの天然ではなく、悪意がゼロでリミッターがゆるいタイプの天然だった。人の話を聞きながら全然違うことを考えていて、それが顔に出る。


 よく笑い、よく寝る。電車でもカフェでもどこでも五分で寝落ちする。しかもその寝顔が、たまらなく愛らしい。

 

 ケンジはそんなハナのことが、自分でも少し怖くなるくらい好きだった。

 問題が起きたのは、付き合って三ヶ月が経った頃のことだ。

 

 その日、二人は駅前の回転寿司に来ていた。

 平日の夕方、店内はそれほど混んでいない。カウンター席に並んで座り、流れてくるネタを好き勝手に取りながら、とりとめのない話をしていた。


 ハナが大学の友人の恋バナを面白おかしく話し、ケンジが笑いながら茶を飲む。いつもと変わらない、穏やかな時間だった。


「あ、中トロだ」とハナが言って皿を取った。幸せそうに食べる。食べながらまた話す。話しながらまた笑う。

 

 そして、話の途中で、ふと、ハナの目が閉じた。


「……ハナ?」

 

 返事がない。

 見れば、ハナはカウンターに肘をついたまま、すでに半分夢の中に入っていた。寿司屋で、である。会計前に、である。

 

 ケンジはため息をついた。呆れながらも、口元が緩む。これだから、この人は。

 

 しばらくそのまま眺めていた。ハナの寝顔を。小さな鼻が、静かに上下している。すうすうと穏やかな寝息。前髪が少し乱れて、頬にかかっている。

 

 綺麗だな、と思った。

 そして、なんとなく目線が動いた。

 カウンターの向こう、醤油差しの隣に、小皿があった。

 

 緑色の、あの物体が、こんもりと盛られていた。

 ワサビだった。

 ケンジの視線が、ワサビと、ハナの鼻の間を、往復した。


 一回。

 二回。

 三回。


 気づいたとき、ケンジの右手の人差し指は、ワサビの小皿に向かって、ゆっくりと……。


「っ!? 俺は何をしようとしているんだ!!!」


 心の中で全力で叫んだ。

 指を引っ込める。胸に手を当てる。鼓動が、おかしなくらい速い。


 落ち着け。落ち着くんだケンジ。お前は正常な二十二歳の男子大学生だ。好きな人の鼻にワサビを入れようとするような、そんな!?そんな!?


 視線が、またワサビに向く。


「……いや、ダメだろ」


 小声で、自分に言い聞かせた。

 もちろんダメだ。何がしたいんだ。寝ているハナの鼻にワサビを入れて、いったい何を得ようとしているんだ。


 笑いたいのか。驚かせたいのか。それともそれとも、何なんだ。

 

 ケンジはぐっと奥歯を噛んで、視線をワサビから引き剥がし、流れてくる寿司に集中しようとした。サーモンが来た。取った。食べた。味がしない。


 隣でハナが小さくくしゃみをして、目を開けた。


「……あれ、寝てた?」


「三分くらい」


「えー、ごめん」とハナは悪びれずに笑った。「お腹いっぱいになったら眠くなっちゃって」


「まだ七皿しか食べてないだろ」


「七皿も食べたら十分じゃん」


 ケンジはそれ以上何も言わなかった。

 ハナはまた新しいネタを取って、幸せそうに食べ始めた。その横顔を、ケンジはじっと見た。


 小さな鼻。無防備な横顔。


「……何見てるの?」


「なんでもない」


 ケンジは緑茶を一口飲んだ。

 心の中の、どこか深いところに、小さな火種が宿った気がした。


 帰り道、夜風の中を二人で歩いた。

 ハナは機嫌よく鼻歌を歌いながら、ケンジの腕に寄りかかっていた。いつもならそれだけで世界が完成するような気分になれた。


 でも今日のケンジは、どこかぼんやりしていた。


「ケンジ、どうかした?」


「……いや」


「なんか今日、変だよ」


「そうかな」


「うん。なんか、考え事してる顔」


 ケンジは少し黙ってから「人生について考えてた」と答えた。

 ハナは「えー、急に重いな」と笑って、また鼻歌に戻った。


 人生について、ではない。

 ケンジが考えていたのは、もっとずっとくだらなくて、もっとずっと自分でも説明のつかない何かについてだった。


 あのワサビの緑色が、頭から離れなかった。

 家に帰って、部屋の電気もつけないまま、ケンジはベッドに倒れ込んだ。


 天井を見つめる。

 なぜだ。

 なぜ俺は、好きな人の鼻にワサビを入れようとしたんだ。


 怒りか。憎しみか。いや、そんなものは一ミリもない。ハナのことが好きで好きで、困るくらい好きだ。それは揺るぎない事実だ。


 じゃあなんだ。

 愛情表現か。それにしては手段がおかしすぎる。


 悪戯心か。それにしては、あの瞬間の自分の真剣さが説明できない。


 ケンジはしばらく考えて、結論を出すことを諦めた。


 ただ一つだけ、はっきりとわかることがあった。

 あの衝動は、たぶん、またやってくる。

 ケンジは枕に顔を埋めた。


「……俺、どうかしてる」


 その呟きは、誰にも届かなかった。

悪魔の種は、こうして蒔かれた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ