プロローグ「発端」
人を好きになるとはどういうことか。
哲学者たちは言う。魂と魂が共鳴することだと。詩人たちは言う。心が満たされ、世界に色がつくことだと。
田中ケンジ、二十二歳、大学三年生。
彼が出した答えはこうだ。
「好きな人の鼻にワサビを入れたくなること。」
……自分でも、どうかしていると思っている。
佐藤ハナと付き合い始めたのは、半年前の梅雨の終わりだった。
サークルの飲み会で隣になって、酔ったハナが「ケンジくんって名前、なんか犬っぽいね」と笑った。
普通だったら傷つくところだが、ハナの笑い方があんまりにも無邪気だったので、ケンジは気づいたら笑い返していた。
翌週、二人でラーメンを食べた。その次の週、映画を見た。それだけで十分だった。ケンジにとってはもう、十分すぎるほどだった。
ハナは天然だった。財布を冷蔵庫にしまうタイプの天然ではなく、悪意がゼロでリミッターがゆるいタイプの天然だった。人の話を聞きながら全然違うことを考えていて、それが顔に出る。
よく笑い、よく寝る。電車でもカフェでもどこでも五分で寝落ちする。しかもその寝顔が、たまらなく愛らしい。
ケンジはそんなハナのことが、自分でも少し怖くなるくらい好きだった。
問題が起きたのは、付き合って三ヶ月が経った頃のことだ。
その日、二人は駅前の回転寿司に来ていた。
平日の夕方、店内はそれほど混んでいない。カウンター席に並んで座り、流れてくるネタを好き勝手に取りながら、とりとめのない話をしていた。
ハナが大学の友人の恋バナを面白おかしく話し、ケンジが笑いながら茶を飲む。いつもと変わらない、穏やかな時間だった。
「あ、中トロだ」とハナが言って皿を取った。幸せそうに食べる。食べながらまた話す。話しながらまた笑う。
そして、話の途中で、ふと、ハナの目が閉じた。
「……ハナ?」
返事がない。
見れば、ハナはカウンターに肘をついたまま、すでに半分夢の中に入っていた。寿司屋で、である。会計前に、である。
ケンジはため息をついた。呆れながらも、口元が緩む。これだから、この人は。
しばらくそのまま眺めていた。ハナの寝顔を。小さな鼻が、静かに上下している。すうすうと穏やかな寝息。前髪が少し乱れて、頬にかかっている。
綺麗だな、と思った。
そして、なんとなく目線が動いた。
カウンターの向こう、醤油差しの隣に、小皿があった。
緑色の、あの物体が、こんもりと盛られていた。
ワサビだった。
ケンジの視線が、ワサビと、ハナの鼻の間を、往復した。
一回。
二回。
三回。
気づいたとき、ケンジの右手の人差し指は、ワサビの小皿に向かって、ゆっくりと……。
「っ!? 俺は何をしようとしているんだ!!!」
心の中で全力で叫んだ。
指を引っ込める。胸に手を当てる。鼓動が、おかしなくらい速い。
落ち着け。落ち着くんだケンジ。お前は正常な二十二歳の男子大学生だ。好きな人の鼻にワサビを入れようとするような、そんな!?そんな!?
視線が、またワサビに向く。
「……いや、ダメだろ」
小声で、自分に言い聞かせた。
もちろんダメだ。何がしたいんだ。寝ているハナの鼻にワサビを入れて、いったい何を得ようとしているんだ。
笑いたいのか。驚かせたいのか。それともそれとも、何なんだ。
ケンジはぐっと奥歯を噛んで、視線をワサビから引き剥がし、流れてくる寿司に集中しようとした。サーモンが来た。取った。食べた。味がしない。
隣でハナが小さくくしゃみをして、目を開けた。
「……あれ、寝てた?」
「三分くらい」
「えー、ごめん」とハナは悪びれずに笑った。「お腹いっぱいになったら眠くなっちゃって」
「まだ七皿しか食べてないだろ」
「七皿も食べたら十分じゃん」
ケンジはそれ以上何も言わなかった。
ハナはまた新しいネタを取って、幸せそうに食べ始めた。その横顔を、ケンジはじっと見た。
小さな鼻。無防備な横顔。
「……何見てるの?」
「なんでもない」
ケンジは緑茶を一口飲んだ。
心の中の、どこか深いところに、小さな火種が宿った気がした。
帰り道、夜風の中を二人で歩いた。
ハナは機嫌よく鼻歌を歌いながら、ケンジの腕に寄りかかっていた。いつもならそれだけで世界が完成するような気分になれた。
でも今日のケンジは、どこかぼんやりしていた。
「ケンジ、どうかした?」
「……いや」
「なんか今日、変だよ」
「そうかな」
「うん。なんか、考え事してる顔」
ケンジは少し黙ってから「人生について考えてた」と答えた。
ハナは「えー、急に重いな」と笑って、また鼻歌に戻った。
人生について、ではない。
ケンジが考えていたのは、もっとずっとくだらなくて、もっとずっと自分でも説明のつかない何かについてだった。
あのワサビの緑色が、頭から離れなかった。
家に帰って、部屋の電気もつけないまま、ケンジはベッドに倒れ込んだ。
天井を見つめる。
なぜだ。
なぜ俺は、好きな人の鼻にワサビを入れようとしたんだ。
怒りか。憎しみか。いや、そんなものは一ミリもない。ハナのことが好きで好きで、困るくらい好きだ。それは揺るぎない事実だ。
じゃあなんだ。
愛情表現か。それにしては手段がおかしすぎる。
悪戯心か。それにしては、あの瞬間の自分の真剣さが説明できない。
ケンジはしばらく考えて、結論を出すことを諦めた。
ただ一つだけ、はっきりとわかることがあった。
あの衝動は、たぶん、またやってくる。
ケンジは枕に顔を埋めた。
「……俺、どうかしてる」
その呟きは、誰にも届かなかった。
悪魔の種は、こうして蒔かれた。




