第9話「完結」
後に、ケンジはこの夜のことを「人生で一番意味のわからない、でも一番忘れられない夜」と表現した。
聞いた相手がトモだったので、「お前の人生どうなってんだ」と言われた。
それはそれとしてあの夜のことを、ケンジは多分、死ぬまで覚えているだろうと思う。
チューブを傾けた。
ほんの少し。
緑色が、ごく微量、にじみ出た。
ハナの鼻の、右の穴の縁に、そっと触れた。
一秒。
二秒。
三秒。
「ひゃあ!!!!!!」
ハナの声が、部屋に炸裂した。
反射的に上を向いていた顔が、一瞬でうつむいた。両手が鼻を押さえた。目が限界まで見開かれて、次の瞬間、限界まで細くなった。
くしゃみが、連続で来た。
「っくしゅ! っくしゅ! っくしゅ!」
三回。立て続けに。
鼻を押さえたまま、ハナがケンジを見上げた。
目に、うっすら涙が滲んでいた。
鼻の頭が、赤くなっていた。
そして……。
「なにこれ!!!!!!」
ケンジは、笑った。
笑い、というものは、こんなに制御が効かないものだったか、と思うくらい、笑った。
声が出た。お腹が痛くなった。目から涙が出た。
ワサビチューブを持ったまま、ベッドの上で前のめりになって、笑い続けた。
止まらなかった。
止めようとすると、ハナの「ひゃあ!!!」という声が脳内リプレイされて、また笑いが戻ってきた。
「笑わないでよ!!」とハナが言った。でもハナの声も、怒りきれていなかった。
「もう! ケンジ! 笑わないで!!」
「ごめん、ごめん……っ」
「全然ごめんじゃないじゃん!! 顔、笑いすぎ!!」
「いや、だって——」
「だってじゃない!!」
ハナがケンジの腕をぽかぽかと叩いた。力はない。本気で怒っているわけではないのが、声のトーンでわかった。
それがまた、おかしかった。
笑いが少し落ち着いてから、ハナがケンジを見た。
まだ鼻の頭が赤い。
目が、潤んでいる。
口元が——笑っていた。
「……どうだった?」とハナが聞いた。
「どうだったって、俺に聞くのか」
「だって、ずっとやりたかったんでしょ」
「……そうだけど」
「どうだった」
ケンジは少し考えた。
どうだったか。
半年間、頭の中で抱え続けていたものが、現実になった。あのとき寿司屋で止めた指が、今夜、到達した。
どうだったか。
「スッキリした」と言おうと思った。実際、スッキリした部分は、確かにある。
でもそれだけではなかった。
もっと、なんというか……。
「……嬉しかった」
ケンジが言った。
「え?」
「スッキリした、じゃなくて。嬉しかった」
ハナがきょとんとした。
「ワサビ入れて、嬉しかったの?」
「入れたことが、じゃなくて」ケンジは言葉を探した。「お前が、やってみよって言ってくれたことが」
ハナが黙った。
「なんか、ずっと一人で抱えてたんだよ。変だってわかってたから、言えなくて。言ったら引かれると思って。でもお前、全然引かなかったし、なんか、一緒に笑ってくれたから」
「……笑ってないよ、さっき」
「今は笑ってるだろ」
ハナが、少し照れたように視線を逸らした。
「……まあ、笑ってるけど」
「だから、嬉しかった」
少しの間、沈黙があった。
虫の声が、また聞こえた。
ハナがもぞもぞと、ケンジの隣に座り直した。肩が、くっついた。
「ね、ケンジ」
「なんだ」
「なんで鼻にワサビだったの」
ケンジは答えようとして、止まった。
これは、半年間ずっと考え続けて、結局答えの出なかった問いだった。
「……わからない」
「わからないの?」
「わからない。最初からずっとわからない。なんでこうなったのかも、なんでワサビじゃないといけないのかも、全部わからない」
「じゃあなんでやろうと思ったの」
「それも、うまく言えない」ケンジは少し考えた。
「ただ、お前のことが好きで、好きだったら、なんかそういう、変な衝動が生まれることもあるのかもしれない。俺にはそれがたまたまワサビだっただけで」
「たまたまワサビ」
「そうだ」
ハナが「うーん」と言った。
「なんか、ちょっとわかる気がする」
「本当か」
「うん。好きな人のこと、なんでか変なことしたくなること、ある」
「変なことって、たとえば」
「ケンジが寝てるとき、鼻つまんだことある」
ケンジが固まった。
「……鼻を?」
「うん。なんか、つまみたくなって」
「それはそれも、大概だぞ」
「でしょ」とハナは言って、笑った。「だからわかるよ。変な衝動って、あるもんだよ」
二人で、しばらく笑った。
特に何かが面白いわけでもないのに、笑い続けた。
笑いが落ち着いてから、ハナが「ところで」と言った。
「なんだ」
「冷蔵庫のワサビ、四本あったじゃん」
「……あった」
「残り三本、どうするの」
ケンジは答えに詰まった。
「……捨てる」
「本当に?」
「……捨てるべきだろ、普通に考えて」
「でも買い込んだんでしょ」とハナはケンジの顔を見た。「まだ、やりたい?」
ケンジは少し間を置いた。
「……正直に言っていいか」
「どうぞ」
「まだ、ちょっと、やりたい気持ちはある」
ハナが目を細めた。
「じゃあ、たまにやっていい」
「え」
「たまにだよ」とハナは言った。「びっくりするのは嫌だから、毎回ちゃんと聞いてくれれば」
「……本当にいいのか」
「ケンジがずっと思ってたこと、私が受け入れないのも変だし」
「いや、普通に考えたら受け入れない案件だと思うが」
「普通じゃなくていいじゃん、私たち」
ケンジはしばらく、ハナの顔を見た。
ハナは笑っていた。
さっきの「ひゃあ!!!」から、もう笑っている。目が赤くて、鼻の頭も赤くて、それでも笑っている。
そのとき、ケンジはふと思った。
これが、好きということかもしれない。
相手の変なところを、変だと思いながら、でも受け入れること。
変なことを、一緒に笑えること。
ワサビを鼻に入れられて、「ひゃあ!!!」と言いながら、それでも「たまにやっていい」と言えること。
それがハナのことを、ケンジがこんなに好きな理由の一つなのかもしれなかった。
うまく言語化できないが、確かにそう思った。
少しして、ハナが「ねえ」と言った。
「なんだ」
「一個だけ、いい?」
「なんだ」
ハナがケンジを見た。
目が、少し楽しそうに細くなっていた。
「ケンジも、やってみる?」
「……何を」
「鼻にワサビ」
ケンジが固まった。
「……それは」
「ギブアンドテイクだよ」とハナは言った。「私だけ損するのは嫌」
「損って、お前が……」
「やる? やらない?」
ケンジは、ハナの顔を見た。
楽しそうだった。
心底、楽しそうだった。
「……わかった」
ケンジは言った。
「本当に?」
「ギブアンドテイクだからな」
ハナが嬉しそうに立ち上がった。冷蔵庫に向かった。ドアポケットを開けた。
「四本もある」とハナが言った。
「使っていい」
ハナがチューブを持って戻ってきた。
ケンジの前に立った。
チューブのキャップを開けた。
ケンジは上を向いた。
「……心の準備は?」とハナが聞いた。
「できてない」
「じゃあせーので行くよ」
「せーのはやめろ、覚悟が!!」
「せーの」
「待っ!?」
部屋に、ケンジの声が炸裂した。
虫の声が、一瞬、止んだ気がした。
ハナが笑い転げていた。
ケンジは鼻を押さえたまま、目に涙を浮かべて、しかし口元は笑っていた。
「お前っ、せーのって言ったのにっ!!」
「だってケンジの顔が面白くてっ!!」
「ひどい、ひどいぞっ!!」
二人で、笑い続けた。
ケンジはくしゃみを三回した。ハナがそのたびに笑い声を上げた。ケンジも笑いながらくしゃみをした。部屋の中に、笑い声とくしゃみが交互に響いた。
外では虫が鳴いていた。
夜が、深くなっていた。
それでも笑い声は続いた。
落ち着いてから、二人は並んでベッドに座った。
ケンジの目は赤い。ハナの鼻もまだ赤い。
二人とも、まだ時々、吹き出した。
「……なんか」とケンジが言った。
「なに」
「変な半年だったな」
「そうなの? 私は最後の十分しか知らないけど」
「俺は半年、一人で悶々としてたんだぞ」
「なんで言ってくれなかったの」
「言えるわけないだろ、普通」
「でも言ったじゃん、結局」
「……まあ、そうだな」
ハナが、ケンジの肩に頭を乗せた。
さっきと同じ体勢。さっきと同じ重さ。
でもさっきとは、何かが違った。
「ケンジ」
「なんだ」
「変だけど、好きだよ」
ケンジは少し間を置いた。
「……変だからか、好きなのは」
「変だけど、好き。変だからじゃなくて」
「それは、どう違うんだ」
「変なのは関係なく好き、ってこと」とハナは言った。「変なのも含めて、全部ひっくるめて好き」
ケンジは、ハナの頭の重さを肩に感じながら、窓の外を見た。
夜空に、星が出ていた。
先週見た星と、たぶん同じ星だ。でも今夜は、少し違って見えた。
「……俺も」とケンジは言った。「お前のこと、好きだ」
「知ってる」
「知ってるのか」
「なんとなく」とハナは言って、笑った。
「鼻にワサビ入れたいくらいには、好きなんでしょ」
「……そういうことになるな」
「変な愛情表現だけど」
「わかってる」
「でも、悪くないよ」とハナは言った。
「変だけど、悪くない」
それからしばらく、二人は黙っていた。
並んで座って、窓の外を見ていた。
虫の声が続いていた。
夜風が、少し入ってきた。
ハナが小さくくしゃみをした。
ケンジが「ワサビが残ってるんじゃないか」と言った。
ハナが「ケンジのせいじゃん」と言った。
二人で、また少し笑った。
翌日、ケンジはトモにLINEした。
「言えた」
既読がついて、すぐ返信が来た。
「どうだった」
「ハナが一緒に笑ってくれた」
少し間があった。
「……よかったじゃないか」
「ああ」
「ハナちゃん、怒らなかったのか」
「怒らなかった。やってみよって言ってくれた」
また少し間があった。今度は、少し長かった。
「……ハナちゃん、すごいな」
「すごいだろ」
「お前には勿体ない」
「わかってる」
「まあ、よかった。本当に」
ケンジはスマートフォンを置いた。
財布を取り出した。
中から、折りたたんだメモ用紙を出した。
四行が、書いてあった。
ずっと言えなかったことがある。お前の鼻にワサビ入れたい。変なのはわかってる。でも、ずっとそう思ってた。
ケンジは、その紙をしばらく眺めた。
それから、丁寧に、もう一度折りたたんで、財布の中に戻した。
捨てなかった。
なんとなく捨てられなかった。
冷蔵庫のドアポケットには、ワサビチューブが三本残っていた。
一本は、昨夜使った。
残り三本を、ケンジは捨てなかった。
捨てる理由が、なくなった。




