第一章 歴史学者モーリス ㈥
義弟に落ち着くように言われ、我を取り戻したアデルは、ソファに腰かけた。
「失礼した。教授はその禁書があると思われるのかな?」
気持ちを落ち着けるために、冷めきった紅茶を一口飲んだ。横に座るウェインは、少しにんまりと笑みを浮かべている。対する、ローゼンガルドの若当主は、膝に乗せた両手のこぶしをきつく握りしめている。
「思いませんよ。だって、あれはおとぎ話のものですからね。現実にあったら拝見したいものです。どんな一級の資料にも劣らない、歴史を見つめてきた研究材料ですから」
カップを持ち紅茶を飲む学者は、にこにことした笑顔だ。
「もし、仮に存在するとしたら、伯爵はどうなさりたいのですか? その力を使いたいのですか? かつて、この禁書の力を利用したといわれる東方の騎馬民族は大陸を一飲みにするような勢いだったのが、今では見る影もありません。歴史は栄枯盛衰。栄えるときもあれば滅ぶ時もあるのです。永遠の力など存在しません」
学者の理路整然とした言葉。それに当惑していると、隣の若者が重々しく口を開いた。
「伯爵。レイモンド教授のいうことももっともです。そのような力など存在しませんよ。以前、王都で心霊写真が流行りましたが、あれもガラスのフィルムに残した人影をうまくぼかしたものだったといいますし、今は科学全盛の時代です。オカルトは真剣に論じるものではなく、楽しむものです」
ローゼンガルドの若当主の言葉には頷くこともある。科学の発展した我が国において、もはや神話も空想の物語になり始めている。ハーディー党の中には無神論者がいると聞くほどだ。
「でも、もし存在するとしてその力を利用しようとする者たちがいたら、君ならどうすね?」
ウェインの助け舟だ。義弟の思考と、こちらの考えを見抜く洞察力には怖いものがあるが、この時ばかりはいい助けになった。
「存在するなら、使わせないことです。人智を超えた力で動かした歴史は歪みを生じます。歴史というのは歪みを許しません。必ず同じ力で巻き戻そうとする。それに巻き込まれると思うとぞっとしますからね」
「それもそうだね。でも、禁書は実在すると言ったら君は見てみたいかい?」
ウェインの目が鋭く光った。アデルはそこに、貴族院でたまに見せる義弟の狡猾な策士の一面を垣間見た気がした。
「ええ。見たいですとも、学者としては喜んで!」
学者の無邪気な言葉に、義弟は口元を吊り上げた。獲物が釣れたのだ。
「じゃあ、決まりだね。教授。禁書を探してもらおうか」
ウェインのその言葉は、水面に一滴の雫が波紋を広げるように、この場の空気を震わせた。
*
呆気にとられた表情をした二人をウェインが見送りに行くと、アデルは執務机の椅子に座り、書類を読み始めた。だが、どの文字も、どんな言葉も頭には入ってこない。
修正案を書き込んだ手を止めると、ペン先から滲んだインクが書面に広がり、文字を侵食していく。慌てて、ペンを置いても染みは広がるばかりだ。
「義兄上。どうされましたか」
染みに気を取られているすきに、ウェインに見られていることに気づいていなかった。外からは遠ざかる自動車のエンジン音がだんだんと小さく響いていた。
「いや。どうもしていない。だが、ウェイン。あのことをいきなり話したのはどうかと思うが」
「どうもしませんとも」
そう言って、ウェインは固めた髪をなでると、学者の座った後のソファに腰かける。
「彼らには、チェッカーボーンの修道院へ行くように指示しました。近々。いえ、来週にでも教皇庁の禁書管理局の者に合わせる予定です」
「そうか」
チェッカーボーンは王都から汽車で向かわなければいけない距離にある田舎だ。そこには国内でもわずかに残るミリアス聖教会の修道院がある。そこに、王国を訪れている禁書管理官をとどめ置いているのは、アデルとウェインしか知らない話だ。
「まさか、おとぎ話のような禁書を、ミリアス神聖帝国の教皇が必死になって探しているなんて、彼らは知らないでしょうけれど」
面白おかしく口元をゆがめた義弟を、アデルは見つめた。
「ですが、彼らには立派な駒になってもらわなければいけません。モールデンよりも早く、教皇よりも早くあの力をこちらの物にしなければ、我々に未来はない」
語尾をきつく締めた義弟は、立ち上がりアデルに歩み寄る。
目の前の執務机に両手をついて覗き込むウェインは、獲物を追う肉食獣のごとく目を光らせた。
「力を持つ者だけが明日の歴史を紡げるのです。私は、あなたや姉のためならば悪者になる覚悟があります。もちろん、可愛いアルやリリィのためにも。さらには我が王国のためにも!」
ウェインの言葉は、アデルにこの国への忠誠心を目覚めさせるのに十分だった。
*
数時間後、アデルは使用人に数通の手紙を渡した。
宛先は同じ志を持つリーベック寄りの貴族院議員の者だ。
それを受け取った議員諸君は、手紙の文言を読み始めると口元をゆがめ、獲物を定めた獣の目つきになったのだった。




