第一章 歴史学者モーリス ㈢
マークの運転する自動車に乗り込んだ、レイヴンとモーリスはベルンデン郊外の田舎道を走っていた。貴族院の審議が一休みしているこの日、ヘイグスウッド伯爵は王都のタウンハウスではなく、領地と王都の線上の途中にある、郊外の邸宅で過ごしているということだった。
だが、それも建前なのだろうと、レイヴンは思っていた。友人モーリスを連れてくるように言った伯爵の顔は、歴史学の講義を聞きたそうな好奇心を出しておらず、どこか異様で感じたことのない雰囲気だった。まるで、獲物を罠にかける獰猛な肉食獣が策を巡らせているような冷たさを感じた。
ベルンデンの石畳の地面は終わり、街道は馬車の通った轍が固まりぼこぼこした地面となっていた。馬車よりも早い自動車の受ける振動が、体に伝わり、普段乗りなれているレイヴンですら少しつらく感じた。横に座る友人は、しゃべることをやめて前をじっと見つめている。
並木が途絶え、広い牧草地が見えてくると、木々に囲まれた小さな池が見えた。風光明媚な場所なのに、王都から少し離れるだけで、人の姿は見えなかった。穴場の場所なのだろう。
すると、突然ガタガタと自動車の振動が不規則に変わった。
「すみません。旦那様。こいつの調子が悪いんで停車します」
流れる風音に負けないよう声を張り上げて、ちらりと後ろを見たマークに軽くうなずくと、車は池の近くの開けた草地に止まった。
車が止まると、マークが急いでボンネットを開けて、中を覗き込む。それとともに、レイヴンの横に座る友人も、ドアを開けると木の茂みに座り込み、盛大に嘔吐した。
「ああ。先生は車酔いですか」
ゴーグルをずらしながら、袖をまくり始めたマークに、レイヴンは車から降りると近づいた。
「そのようだな。私でも辛かったから、慣れない彼なら限界だっただろう」
「では、少し休憩でもしたらどうですか? この感じだとスパークプラグの煤を落としてやらなきゃいけないんで、十五分はかかりますから」
「そうか。では、任せた」
立ち去るレイヴンの背に、マークが声を張り上げる。
「運転席の隣の床に、バスケットがあるんで、そこからレモネードでも出して飲んでてください。先生の分もありますから」
振り返らず手を振り、レイヴンがバスケットから、瓶に入ったレモネードを二本取り出すと、後ろでマークが工具をさわる金属音が聞こえた。
モーリスは一通り吐いて楽になったのか、地面に座り込むと恨みがましい目つきでレイヴンを見上げた。
「こんなになるなら、来るんじゃなかったよ」
「まあ、そういうな。こいつを飲んで、ゆっくりしたら着替えて来いよ。もう一着服を用意しておいてよかったなモーリス」
針金を捻じり、コルク栓を開けるとポンっ小気味良い微炭酸のガスが抜けた音が響いた。
レイヴンの持ったレモネードをひったくるようにしてとった、モーリスはそれを一口飲むと、顔を輝かせた。
「なんて、おいしい飲み物なんだ!」
「そうか。車酔いにはこれが一番いいと、マークがいつも準備しているんだ」
「いい運転手だ。僕と同じ南部人だしね」
ごくごくと一気に飲み干した瓶を、草地に転がすと、モーリスは自動車に着替えの服を取りに行った。王都で買った新品の服を包む包装紙をごそごそと解いている友人の背に向けて、レイヴンは空になった瓶を拾いながら声をかけた。
「ところで、君の服はずいぶん汚れていたけれど、洗濯とかはどうしてるんだ? 研究室にはまともに着れそうな、清潔な服は見当たらなかったが?」
モーリスが包装紙を解く手を止めた。マークのブラシでプラグをこする金属音が風に乗て広がる。
「洗濯って?」
友人のすっとぼけた声に、忍び笑いで煤に汚れた顔をのぞかせたマークが面白そうに笑みを浮かべた。
「先生。洗濯っていうのは石鹸水で服の汚れを取ることを言うんですよ」
からかいの言葉に、友人は気を悪くするでもなく、饒舌に講義の口調で返答する。
「正解だよ。マーク君。でも、世の中には洗濯は日課ではなくて、気が向いたらするのがよいという人物もいるのだよ。僕みたいに」
大声で笑いだした二人に、少しあきれながらもほほえましさを感じたレイヴンは一言釘を刺した。
「モーリス。君は早く着替えなさい。マーク。伯爵は時間に厳しい方だ。遅れでもしたら、きつくその責任を取られるぞ」
その言葉に二人はそれぞれの仕事に取り掛かった。
ガチャガチャと機械をいじるマークに背を向けて、殻の瓶をバスケットに戻すと、自分の分のレモネードの栓を開けて、口をつけた。心地よい酸味と、砂糖の甘みが広がり、舌を微炭酸が刺激する。自動車の揺れには慣れているとはいえ、この田舎道で少し堪えていたレイヴンの気分も爽やかに晴れてきた。
「あの。旦那様」
「どうした?」
「すみません。もう少しだけ時間をいただいてもよろしいですか? 他のパーツも見ておいた方が、この先安心かと思いまして」
コートの間に手を入れ懐中時計を取り出して、時間を見る。まだ、余裕はあるのを確認して、マークに許可を与えると、モーリスの着替える茂みの近くに歩みを進めた。
草木を揺らして、脱いだ服を枝にひっかけている友人に、声をかける。
「モーリス。もう少し時間がかかるそうだ」
「そうかい」
手にするレモーネードを一気に口に運び、瓶を空にする。
「なあ、モーリス。ユーリウスの話をどこまで知っている?」
少しの沈黙があった。
「ユーリウスのことは新聞で報じられるぐらいしか知らないよ。同級生といえど、彼は王太子だよ。僕みたいな庶民を相手にするような人じゃなかったからさ」
「それも、そうだな。お前は、ユーリウスの妹のリリィ王女の方が親しかった」
「図書館の友としてね。勉強熱心な王族なんてあまり見ないし、顔は双子だから似ているだろうけどユーリウスの金髪に対して、北部特有の黒髪。さらに、頭がいいときた。王族じゃなかったら、僕の学者のライバルとして一目おいていたかもしれないよ」
王立学院で今でも語り継がれる、王太子ユーリウス、その双子の妹リリィに加えて、北部貴族の名家ヘイグスウッド伯爵家のアルバート、ハイゼン王国の旧家ローゼンガルド侯爵家のレイヴンといった並みいる王族、大貴族の子弟に、庶民出の優秀な生徒が加わった奇跡の学年の同級生は、今のハイゼン王国を揺るがす事件の登場人物ばかりが集まっていた。
「リリィは可哀想だよ。ヘイグスウッド伯爵の息子のアルバートの筋肉野郎と結婚したために、今は注目の的だよ。ユーリウス王太子が廃嫡なんて話になったら、リリィ王太子殿下だ。気軽に話すこともできないよ」
「気軽に話す? あのアルが許すのか?」
「まあ、監視のためにいるかもけど。彼には僕らの話は分からないだろうね。知性のかけらもない筋肉だから」
リリィと、庶民出のモーリスが仲が良いというのは学院時代から有名だが、そのリリィと結婚したアルバートは、それが今でも気に食わないらしく、二人が会うのを嫌がっている。
「ただ、ユーリウスも、考えなしにあんなこと言ったからね。敵、味方に別れるのは当然さ」
茂みから顔を出したモーリスの、シャツのボタンのかけ間違えを指摘すると、再び茂みに引っ込んだ。
「ルーフェニア共和国の女優っていうだけでも、頭の硬い連中は反対するだろうに、ハイゼン国教会への改宗を拒否した女だよ。全部、詰みだよ。そんな女を自分の妃にしたいだなんて前代未聞だよ」
「そのことで、私は頭が痛いよ」
「貴族院の審議かい?」
茂みから出てきた友人は、汚れた服を一塊にまとめて持っていた。
「おかげで、国教会の聖職者議員が審議に参加しない。そのせいで、審議停止が続いている。この件だけでなく。他の法案の審議も止まってしまっているんだ」
車に向かいつつ、レイヴンは沈む気持ちをほどくように友人に言葉をかける。
「庶民院は今や、貴族院改革待ったなしの改革派だらけだ。このまま審議が止まっていれば、彼らは攻勢を強める。それなのに、この有様だ」
自動車に置いたバスケットに、殻の瓶をしまうと、その上にモーリスは自分の丸めた服を置いた。
「でもね。レイヴン。貴族院の審議で決めていい問題ではないと、僕は思うんだよ」
「どういうことだ?」
「国王の継承権に関しては、王族以外が口を挟むべきではないんだよ。その誰もが知ろうとしない自然の摂理が壊されたとき、どんな国でもほころびが起こるんだ。歴史を紐解けばわかるものさ」
レイヴンが時計を取り出すと、モーリスの締めくくりの声に応えるように、マークが修理が終わった旨を伝えてきた。
「ああ、もうこんな時間だ。急いでくれ、マーク。遅刻は厳禁だ」
「はい。かしこまりました」
マークは元気の良い返事をすると、ゴーグルをかけた。
「また、この道を行くのかい?」
「そうだ。帰りもあるからな」
苦い顔をしたモールスの背を押しながら、自動車の後部座席に乗り込み、レイヴンはマークに指示を出した。三人を乗せた自動車は、先ほどよりも速く走り出した。
*
ヘイグスウッド伯爵の邸宅へは道に迷うことなく、時間通りに着いた。
車酔いで疲れたのかモーリスが寝てしまったことで、マークが気兼ねなくスピードを出せたからだ。
「旦那様。先生は寝ちゃいました?」
風の音でかき消されないように、叫ぶようにそう話すマークに、レイヴンはバックミラー越しに頷いた。それから、速度を上げる許可を出すと、めいっぱいにアクセルを踏みしめ、ギアを切り替えていった。
並木も、牧草地も、ところどころに見える民家も、一瞬で駆け抜けていき、ヘイグスウッド邸の門を抜けたとき、モーリスが目覚めた。
「もう着いたのか?」
「そうだ。君が眠りこけてくれたおかげだよ」
「そうか。それはよかった」
平和そうに寝ぼけ眼をこする、モーリスをほほえまし気に見ながら、レイヴンは居住まいをただした。邸宅の敷地に入ってから、自動車の速度は落としている。そのせいか、周囲が静かなのも加わり、エンジン音だけがけたたましく鳴り響いた。
屋敷が見え始めると、案内の使用人の姿が見えた。手振りで、車寄せまで誘導すると、止まるように指示を出され、マークがブレーキを踏み込んだ。
衝撃で少し前に倒れそうになるが、ベテランの運転手の運転技術は絶妙な衝撃で抑えてくれた。
車寄せには、黒く磨かれ、日の光を反射する黒塗りの馬車が二台止まっていた。それぞれの馬車の御者が、馬車の脇に控えて立っており、謹厳実直な伯爵の教育が見て取れるようだった。
レイヴンはあちらの使用人に自動車のドアを開けてもらい、地面に降り立った。
重厚な扉は固く閉ざされており、入ってしまえば二度と出ることはできない牢獄のような物々しさを感じさせる。
「眠たいねぇ」
そんなレイヴンの固い心を溶かすようなのんきな声が聞こえ、レイヴンはクスリと笑いそうになるのを堪えると、使用人の案内で屋敷の中へ入った。




