第一章 歴史学者モーリス ㈡
散らかったモーリスの研究室に入ると、急いで荷物をどけた肘掛椅子にレイヴンを座らせて、いそいそと給湯室から運んで来たお湯でお茶を入れ始めた。モーリスのお茶の入れ方は、お茶など入れたことのないレイヴンにもわかるほど粗雑だった。
「急に来られて、びっくりしたよ」
まくしたてるようにしゃべりだすモーリスは、口先が茶色く染まったティーポットから紅茶を注ぐ。お客さん用だからと、戸棚から出したティーカップとソーサーは不揃いだが、使うことがないのか新品のように汚れが見当たらなかった。その反面、彼の愛用するマグカップは茶渋が縁についており、それがグラデーションとなってカップの中を彩っていた。
「どうぞ。熱いから気を付けて」
目の前の本をどけた、机のわずかな隙間に置かれた紅茶は、色が薄く、香りも弱かった。
いつも座っているであろう書き物机の前の椅子に座って、紅茶の熱気をふうふうと冷ましているモーリスを見つめて、レイヴンはソーサーを手に取り、カップに口をつけた。お湯の無機質な香りと、深みの無い味わい。秀でているのが、茶葉由来かわからない酸味だけだった。
レイヴンは、一口飲んだカップを静かに机に置くと、よけられた本の脇に寄せた。
「ところで、モーリス。電話の件だが」
「そのことだけどね。無理だよ。僕にそんな時間はないんだ。今は、出版社からの依頼で本を書いていてね」
両手で持つマグカップのお茶を、おいしそうに飲みながら、モーリスは続けた。
「ちょうど、さっきの授業で話していた。エルドラ女王の結婚の話を中心にした歴史解説書みたいなものでね。いろいろ書きたいことがあって、原稿が分厚くなっちゃって今は添削中なんだ。このまま出すなら価格を上げるか、僕が自費で増えた分の印刷代を出さないといけないんだ」
飲み切ったマグカップを机に置くと、モーリスの目がレイヴンを見つめる。
「援助してほしいんだ。今回の原稿の印刷代なんだけれど。駄目かな?」
「無理に決まっているだろ」
考える余地もなく、レイヴンは口を開いた。
「君のアパートの滞納した家賃に、そこから三ヶ月は住めるように、大家に金を出した。それだけでも、毎月の援助金よりも高額なんだぞ。そんな金額を出してみろ、管財人のハリソンがなんていうか」
「よくないだろうね。ハリソンさんは僕のこと大っ嫌いだから」
足を組み、そこに両手を重ねたモーリスは、天井を仰いだ。
「この本が完成したら、あのグロッグ教授を一泡吐かせるほどの大流行間違いなし。増刷に増刷。品切れ中の店が続出する大傑作が誕生するはずなんだけどなあ」
「そうか。それはよかったな。そのグロッグ教授というのは知らないが、どうでもいいことだ」
「どうでもよくないよ!」
モーリスは立ち上がると、床に散らばった本をよけ、それでもよけ切れない服を踏んでレイヴンに近づいた。
「いいかい。物理学こそがこの世の英知だという、あの禿げ頭が悔しがる姿を想像した方がいいよ。それだけでも苦労のかいがある。さらに、歴史学なんて過去の遺物を学んだところで何の役にも立ちはしないという、あの鼻持ちならない発言を撤回させることができたらどれだけ喜ばしいことか」
力説するモールスを、レイヴンは見つめた。
「ところで、ヘイグスウッド伯爵の件だが」
「ああ、待って」
飛ぶように机に戻ると、モーリスは書類の山をかき分けて、メモ用紙代わりのノートの切れ端を見つめた。
「ここには、こうある。残念だが、お断りだってね」
真剣な目線でそう言いいのけた、友人に心底あきれながらも、レイヴンは発したい言葉を堪えた。
「貴族院の重鎮の用事なんてろくでもないし、それに、今や君は飛ぶ鳥を落とすヘイグスウッドの腰巾着で犬なんだから、必死なんだろうけど……」
「おい、今なんて言った!」
友人の口から出た侮蔑の言葉に、思わず語気を荒げた。
「いつ、私が伯爵の犬に成り下がったと言うんだ!」
「落ち着きなよ。レイヴン。僕が言ったんじゃないよ。ゴシップ新聞はそう書き立てて、巷の皆が噂していることさ。まあ、君は知らない巷なんだろうけれど」
声がだんだんと小さくなり、申し訳なさそうに俯く友人を見て、怒りの気持ちが冷えていく。
「すまなかった。つい、強い口調で言ってしまった」
「いや、いいんだ。僕もその新聞を見たときに、思わず頭にきて、それで床に落ちたシチューを拭いたから」
友人の怒りは、床に落ちた汚れを拭くぐらいのものなのかと、少し落胆したが、世間からそう言われも反論できないほど、爵位を継いでからのレイヴンはヘイグスウッド伯爵にいいように使われているのは自覚していた。
「悪いことは言わないよ。僕には、貴族院のしがらみがどういうのかはわからないけれど、君は伯爵と近づいてから、碌に楽しそうな顔をしなくなったじゃないか。アリシア王女の降嫁が決まっているんだから、いろいろと事情があるかもしれないけれど。僕は忠告するよ。伯爵と一緒にいると、よくないってね」
「ありがとう。モーリス」
友人の助言は痛いほどしみるものだ。確かに、王女のアリシアとの結婚が決まり、父から爵位を受け継いでからの日々は喜びよりも、忙しさと理不尽なまでのしがらみでつぶされそうな時がある。そのたびに、この友人と語り合えば、この苦しみが紛れると何度も思った。
「だが、モーリス。今回の伯爵の件。君にとってもいい話だぞ」
「どんな風に?」
疑いの目を見せ、お茶の残りを確かめるようにティーポットをゆする友人に、レイヴンは呼吸を整えていった。
「レイモンド教授の助言を得られたら、約束できるだけの援助を決めると、おっしゃっていた」
マグカップに、残っていたお茶をティーポットから滴らせながら傾けてた友人は、こちらを見つめる目を大きくした。
「本当の事かい?」
「ああ。そう明言された。私は反対したのだが……」
ティーポットをたたきつけるように机におくと、友人は脱いでいたジャケットを急いで羽織った。
「何やってるんだ。レイヴン、行くぞ。君の車は表門の前か。早く行こうじゃないか」
態度を豹変して、率先して出かける準備を始めたモーリスの肩を、レイヴンはつかむ。
「なんで、そう気が変わるんだ?」
振り返った友人は、にやりと意味深な笑みを浮かべた。
「だって、あの禿げ頭を一泡吹かせる算段がついたからさ」
さあ、行こうと部屋を飛び出したモーリスを慌てて追いかけたレイヴンは、速足で前を歩く友人に髪を整えて、顔を洗えと忠告した。うんうん、と頷くモーリスに追い打ちをかけるようにレイヴンが一言言った。
「モーリス。さすがにその服ではまずい。伯爵に会う前に身なりを整えて、服もそろえよう」
「そうだね。名案だ!」
「ああ、支払いは君の来月の援助金から引いとくよ。それならハリソンも快く金を出してくれるさ」
振り返って見つめた友人は、不満げに頬を膨らませた。




