第一章 歴史学者モーリス ㈠
ハイゼン王国の首都ベルンデンは、世界でも指折りの大都市だ。
ベルンデン中央駅は、王国中に張り巡らされた毛細血管のような鉄道の終結地であり、いつも喧騒と、蒸気機関の煙に満ちている。
中央駅よりも、東に数区画分向かった、大通り沿いにある大聖堂見まがう瀟洒な尖塔を持つ建物を囲むように、堅牢で優雅さも併せ持つ歴史の刻まれた建物が連なる一区画がある。その一帯こそ、ハイゼン王国の英知極まる、王立学院と呼ばれる学び舎だ。
*
大通り脇に自動車を止めるよう、運転手に指示を出すと、けたたましいエンジン音に、周囲の歩行人の目が向けられるのを感じた。
「マーク。エンジンは切っておくように」
後ろから、運転手のマークに声をかけたレイヴンは、自分の手でドアを開けると、懐かしの石畳の歩道に足を踏み出した。よく磨き上げられた黒光りするボタン・ブーツで石畳の上に立つと、羽織った漆黒のチェスターフィールド・コートの裾が、膝にまとわりつくようにして動き、落ち着いた。自動車の揺れで少しずれたシルクハットの縁を、指先で軽く整えると一歩足を踏み出した。
「ああ、いけませんよ。坊ちゃま」
慌ててエンジンを切り、運転席から出てきたマークにレイヴンは、遮るように手をかざした。
「気にするな。自分でできることは自分でする。それに、今、坊ちゃまといったな。今は私が当主だ。断じて、坊ちゃまなどではない」
「はいはい。そうでございましたね。旦那様」
語尾を強調するように言うマークは、数年前に雇い入れた、自動車の運転手兼整備士だ。出会った頃は、緊張のあまり挨拶の言葉もかむような青年だったが、父から爵位を継いでからは、二人だけの時はこんな軽口もたたくようになった。
「すぐに戻って来れるはずだ。大人しく待ってろよ」
「はい。かしこまりました」
こげ茶のハンティング帽を脱いで赤毛の頭を下げるマークを背に、レイヴンは王立学院の砦のような門をくぐり入った。
懐かしい雰囲気ととともに、これから出会う旧友のことを思うと、少し気が滅入った。
数日前に電話で話したとき、彼は聞いているのか、聞いていないのか分からない曖昧な態度だった。約束の日の今日、通いなれた旧友のアパートを尋ねると、もの家の空だった。大家に聞けば、家賃が溜まっていたので出て行ってもらったという話だ。家賃を立て替えて払うと、大家はいつでもこの部屋は開けておくと快い返事をした。それだけの額を渡したということだ。
石畳の回廊を歩いていくと、真ん中は芝生の庭が広がっており、学院の生徒たちが思い思いの休息をしていた。ベンチに座り、本を読む者。フェンシングの型を練習する生徒までいる。かつて、自分がここの生徒だったときはどうだったかと、レイヴンは思い出してみるが、どちらでもない。あの変わり者の旧友の話を延々と聞いていたと思う。
懐かしの情景が頭に浮かんで、レイヴンは自然と顔がほころんでいたことに気づいた。いつぶりの笑いだろうか。ここのところ、ここまで気持ちが和んだ時はなかったように思えた。
石畳の回廊は途絶え、よく磨かれた飴色の木の床の廊下に足を運ぶと、目的の場所へは自然と足が動いた。かつて足しげく通った指導教授の研究室が、今の旧友の居場所だった。
「いるか。モーリス。私だ」
ノックを響かせて声をかけても返事はなかった。研究熱心な友のことだから、寝ているのだろうかと思い鍵の開いているドアを開けるとそこは、目を疑いたくなる程散らかっていた。
脱いだ服が、椅子やソファにかかっており、床には本が積み上がり、机の上には食器や、お菓子の食べ残しが散らかっていた。
見慣れた光景だったが、それは彼の住むアパートでのこと。この様子では、ここを根城にしてしまったのだろう。
レイヴンが、足の踏み場を探して部屋の中へ入ろうと模索していると、後ろから声をかけられた。
「あら。ローゼンガルド卿ではありませんか」
振り返ると、そこには学院の職員がいた。
「散らかってますね。レイモンド教授がここに住んでいるっていうのは聞いてましたけど。これは、ひどい」
レイヴンの背後を覗き込むようにしてみた職員は呟くように言った。
「すまない」
「あなたが謝ることじゃありませんよ。それよりも、教授に何か用でも?」
「ああ。今日、会う約束をしていたんだが、どこにいるかわかるか」
それでしたらと、職員は手元の紙をめくり、予定表を見る。
「この時間でしたら、講義中ですね。第十八講義室です。ご案内しましょうか?」
「いや、結構。私はここの卒業生だ。足が覚えているよ」
「そうでしたか。失礼しました」
職員は頭を下げて、廊下を歩き出した。
レイヴンも、第十八講義室へ向けて歩き出した。頭で思い出すよりも先に、足は講義室へ向かって進んでいた。
*
第十八講義室は、王立学院のなかでも広い講義室に分類される。この部屋で講義をすることは、王立学院の教授陣にとっては名誉なことであり、それだけで友人が世間からも評価される学者なのだと感じた。
講義室近づくと、聞きなれた理屈っぽい口調が聞こえてきた。
二つの扉が開いており、レイヴンは学生の邪魔にならないよう、後ろの扉から静かに入った。前方の席には、学院の制服を着た生徒が男女問わず、席を埋めており。その後ろには、講義の無い講師と思われる人々が、まばらに座っていた。
レイヴンは入り口近くの席に、コートとシルクハットを脱いで座った。漆黒のチェスターフィールド・コートとは対極の、ダークグレーのラウンジスーツの胸元から垂れた、懐中時計の銀の鎖が講義室の机に当たり、乾いた音を立てた。帽子を脱いで露になった金髪は後ろでなでつけているが、はらりと一筋の前髪が目にかかり、レイヴンは指先で横になでる。淡いバニラの甘い香りが広がった。数席前に座る、若い講師が後ろを振り返ったので、レイヴンは謝罪を込めて手を軽く上げると、講師は再び前を向き直り講義に聞き入っていた。
「そう。だから。僕の持論としては、偉大なる女王、ソフィア・エルドラ・シュターリス女王と、ジャノバン王配の結婚に隠された、当代の政治家たちの深い思惑が見え隠れすると思うのだよ」
よくとおる、自身に満ちた声を発し、チョークで黒板に文字を書き連ねていく。
「この当時を知る人間は今は生きてはいない。だからこそ、僕らは学問を通じて想像するしかないのだけれど、ここに王国北部の対立を融和する一枚の手札がある。そう、これは当時の政治家たちは使いたくても、使うのをためらっただろうね。だが、それを彼らは使ったんだよ。この結婚で、ハイゼン王国は、北部のニール地方との和解の道を進んだんだ」
さらに黒板に書き連ねていくと、生徒たちがノートにペン先を走らせる乾いた音が、講義室に幾重にも響いた。それは生徒だけでなく、講義を聞いている講師たちも同様のようだ。
講義をする、旧友の若き教授は壁に掛けられた室内時計を一瞥すると、チョークを置いた。
「今日の講義はここまでにしたいと思う。さあ、質問のある者はいるかい?」
彼の声に、一斉に手が伸びる。それは生徒だけでなく、講師たちも同様だった。
「ああ。今日はずいぶんと質問者が多いね。そうだ。この結婚は恋愛結婚だと言い張る質問者はいるかな」
逆の問いに、手の上がる姿は半分以下になった。
「じゃあ。君、この結婚は純粋に恋愛結婚だと思うわけだね」
教授に当てられた女子生徒は立ち上がると、少し聞き取りにくい小さな声で話し始めた。
「これは恋愛小説では有名な話で、子供の絵本にもなっています。若き王女が、護衛の騎士と結ばれる。その結果として、政治的な対立が和んだ。そういう見方はだめでしょうか」
周囲からは冷やかしの声が聞こえるが、教授はそういった声を手で制した。
「いいかい。君たち。歴史学というのはいろいろな見方があって当然なのだよ。だから、彼女の言うことも正しい。むしろ、僕は彼女の言うことの方が、夢があって素晴らしいと感じるのだよ。だって、打算の無い恋愛で結婚した結果、問題が解決したなんて、こんな素晴らしいことはないからね」
女子生徒に座るように言うと、教授は拍手をした。つられてまばらな拍手が響いた。
「世の中はそんな素晴らしい恋愛ばかりではないのかもしれないけれど、僕はたまに思うんだよ。そんな素晴らしい恋愛を経験してみるのも新しい見識のためには必要だとね」
その締めくくりの言葉に、講義室にはどっと笑いが起こった。
「先生には無理だよ」
「まずは、寝ぐせ直そうぜ」
複数の男子生徒のからかいの声が飛び交った。
レイヴンも思わず、声に出して笑いそうになり、口を手で覆った。
その喧騒を鎮めるように授業時間の終わりのベルが響くと、生徒と講師たちはそそくさと立ち上がり、部屋から出ていく。
雑踏をかきわけるように、コートを携えたレイヴンが教授の元へ向かうと、気づいた生徒や講師たちが会釈してくる。レイヴンも軽くうなずくと、旧友の元へ向かった。
人々が去った講義室は静かで、旧友は手荷物をまとめていた。室内には、レイヴンの足音が響いた。
「授業は終わりだよ。質問は、また次回にしてくれないか?」
そう言って、顔を上げた旧友の顔に一瞬で笑みが広がった。
「ああ、君だったんだね。レイヴン。でも、なんの用?」
寝ぐせをつけたくせ毛の赤髪を持つ旧友のモーリスのその言葉に、レイヴンは一瞬でよういしていた賞賛のことが頭の中から消えた。
「おい、モーリス。今日は何の日だったが忘れたのか?」
「忘れた? 失敬だな。君との約束なんてしていないよ。僕は」
レイヴンは、チョークの粉が飛び散ったジャケットをつかんで、引き寄せて囁くように言った。
「今日は、ヘイグウッド伯爵の屋敷へ一緒に行くはずだろ。電話でそう伝えたはずだ」
間近かに迫ったモーリスの目が大きく見開かれた。
「いやいや。そんな約束はしていないよ。君とはね」
「しらばっくれるのか」
レイヴンがさらに問い詰めようかと、モーリスの肩に力を入れた瞬間、講義室に野太い声が聞こえた。
「いいかね。君たち。おしゃべりをするなら別のところでやってくれ。次は私の授業なのだから」
二人が声のした方を同時に向くと、禿げ上がった頭の屈強な老齢の教授が腕組みをして講義室の入り口の扉の前に立っていた。その後ろには、何事かと中を覗き込もうとする生徒たちの姿とざわめきの声がしていた。




