序章 ハイゼンの災厄
空は晴れているのに、どんよりとした雨雲に似た黒い煙でおおわれていた。
地平のかなたを見渡すたびに、日々増える煙突から立ち上る黒煙はハイゼン王国繁栄の象徴であるとともに、旧時代からの脱却の象徴だった。
「ねぇ、見て、ベルガー。また煙突が増えたわ」
「さようでございますね。お嬢様」
仕立ての良いドレスに身を包んだ十代の少女は、隣に立つ、実直な黒髪の執事に話す。
「さあ、お嬢様。外は冷えますので、中に戻りませんと」
「嫌よ。ずっとお屋敷の中ですもの。たまには外に出たいじゃない」
少女の乗る車いすに手をかけようとした執事のベルガーに少女は言う。
足の悪い少女にとって、車いすを押してくれるベルガーは唯一無二の使用人であり、気の置ける人物だ。
「お父様は、私のことを心配して、お屋敷にいるように言うのはわかるわ。でも、これじゃあ籠の鳥と一緒じゃない。私は足が悪くても、ベルガーがいればどこにでも行けるわ。その、ベルガーさえよければだけれど」
俯きながらいう声を小さくする少女に、ベルガーは膝を屈して、少女に語り掛ける。
「お嬢様がお行きになるときは、私が足となりますよ。たとえ、お嬢様がお嫁に行かれても、私は旦那様からお許しをいただいて同行させていただきますとも」
にっこりとほほ笑むベルガーに、少女ははにかみながら、まだ早いとこぼし、二人は家路に帰った。
*
あの日から数日後、少女は発熱をし、寝込んでしまった。
「ベルガー。あの子の様子はどうだ」
書類の山を机に広げ、ペンを走らせながら、ベルガーの主であるグラッドスン男爵は訊いた。
一人娘である少女は、グラッドスン男爵の亡き妻に似ており、きれいな金髪の少女だ。だが、ここのところ増え続ける工場の黒煙で汚れた空気のせいで、喘息を発症し、日に日に悪くなっていた。
「熱が昨日から下がっておりません。お食事も少ししか召し上がりません。お水は召していただけるのですが」
「そうか。後で様子を見に行く。それまでついていてくれるか?」
「ええ。それはもちろんのことです。ですが、家の中の仕事が溜まっておりますし、お掃除もここのところしておりません」
「構わんさ」
男爵は手を止めて、窓の外を見つめた。
「我が家を訪ねるような客人は、ここ数年見ていないだろう。それに、使用人は君一人だ。すべての仕事をこなすことは大変だろう」
ベルガーがこの屋敷に来てから、男爵の奥方が亡くなるまでは、数人の使用人がいた。だが、奥方の治療費や、少女の治療費が重なり、さらに地代の収入が年々減っており、財政状況の厳しくなるグラッドスン男爵家には、使用人を置くのが難しくなり、ついにはベルガー一人になってしまった。
「大変ではござません。旦那様。お嬢様に尽くせることが、私にとって至上の喜びでございます」
「嬉しいことを言ってくれるな」
ペンを走らせながら男爵は言う。
部屋にはペン先が紙にこすれる乾いた音が響いていた。時折、少女の咳き込みの音が聞こえると、ベルガーは少女の元へ向かおうとドアノブに手をかけた。
「旦那様」
「なんだ?」
ベルガーは男爵に向き直り、口を開いた。
「お嬢様の喘息が悪化したのは、私のせいかもしれません。私があの時、お嬢様を外に連れ出さなければ、このようなことには……」
「関係ない」
ベルガーが最後まで言い終わるまでに、男爵は一言言い放った。
「そんなことよりも、あの子の元へ早くいってくれ」
「はい」
ベルガーは部屋をでると、少女の部屋に駆け込み少女の額の汗をぬぐい、水を絞ったタオルを額に乗せた。
ベルガーの必死の看病は三日ほど続いたが、運命の歯車は残酷にも少女を助けることはなく、日が昇るとともに、苦行から解放されるように息を引き取った。
*
ベルガーが少女と煙突を見つめた丘の上に、少女の墓を作った。少女はここから外の世界を眺めるのが好きで、あの日よりも煙突の数は増え、空は曇っていた。
男爵がかき集めた金で、質素な葬儀を行い。小さな墓標の元に少女は埋葬された。
ベルガーは埋葬業者を見送ると、埋められたばかりの湿った土の上に膝をついた。
「申し訳ありません。お嬢様。私がもっと気を使っていれば」
悲しいのに涙が出ない。この悲しみを表す生理現象が自分には起きないことの無性のいら立ちを、こぶしを作り地面にたたきつけることで発散させるしかない。
「ベルガー、我が家の使用人たるもの、いつも身だしなみには気を付けるように」
後ろから男爵の声が聞こえ、振り返ると男爵は数枚の紙束を持っていた。
「あの子は逝ってしまった。親の私より早く。そして、私は独りになってしまった」
どこか呆然とした表情の男爵は、ベルガーに立ち上がるように手を差し伸べる。
土で汚れてしまった白い手袋で主人の手をつかむのを憚り、手袋を脱ぐと男爵の手に支えながら立ち上がった。
「君が悪いわけではないのだよ。ベルガー。いつかはあの子が先に妻の元へ向かってしまうのはわかっていた。ただ、私はその事実を直視したくなかった」
「旦那様……」
男爵の目には薄っすらと鈍い日光に照らされた涙が輝いていた。
ベルガーがどうしても得られない悲しみの表現が、そこにはあった。
「旦那様。私は旦那様の忠実な下僕です。旦那様を独りにはさせません。あのお屋敷で、これからも一緒に過ごしていきましょう」
その言葉に、男爵は苦笑いを浮かべた。
「そうしたい。そうしたいのだよ。だがな、ベルガー。我が家は遂に破産してしまった。私は、先祖から譲り受けた土地も屋敷も、妻も娘も失ってしまった。私には、もう生きていく希望はない」
崩れるように地面に倒れこんだ男爵をただ見つめるしかなかった。普段からあれほど身だしなみに気を遣う彼が、土で汚れるのを厭わずに地面に屈する姿は、ベルガーにとって衝撃的だった。
思えば、少女の看病に追われて、男爵の身の回りの世話をおろそかにしたのはいつからのことだっただろうか。記憶に残る最後の男爵の身なりよりも、今の男爵はみすぼらしく見える。それはこの世界の敗北者の姿なのだろうか。
「ベルガー。君は独りでも生きていける。今、ここで君の契約を解除したい」
主人のその言葉に、ベルガーは言葉を失った。
「ああ、言葉ではだめだったな。君との契約解除には私が死ななければならいのだったな」
自嘲気味な笑みをこぼし、うつろな目で黒煙の上がる煙突を見つめる主人に、ベルガーはすがった。
「旦那様。無茶を、悲しいことを言わないでください。お嬢様を亡くし、旦那様まで失えば、私は……」
「悲しいか」
冷たい響きだった。今までに聞いたことのない、主の鉄をはじくような冷たい声音。
「涙も流せず、人でもない、お前が悲しいという言葉を使うな!」
男爵に力いっぱい押し飛ばされ、ベルガーは地面に転がった。
ゆっくりと、歩み寄る男爵の目には涙がこぼれ、頬を伝って、ジャケットに黒いシミを広げている。
「ベルガー。今ここに命ずる。私を殺せ。いや、あの子を、私の愛しい娘を奪った、この汚い世の中も一緒に葬ってくれ!」
今まで仕えてきて初めて聞いた。感情の高ぶった叫びだ。
ベルガーは立ち上がると、男爵を見つめ、眼に焼き付けると、一呼吸した。両腕を広げ、この大地と大気に、自らの力を流し込む。
ベルガーの漆黒の使用人服から、黒い靄が流れ出ると、それは風に乗りあたりに広がった。
その靄が、男爵の顔にかぶさると、男爵は咳き込んで苦しみ始めた。
うずくまる男爵を、ベルガーは抱きかかえると、屋敷への道を歩み始めた。
*
その日から始まった、疫病は、後の歴史にハイゼンの災厄として知れ渡ることになる。咳き込み、熱を出し、嘔吐する。大気に乗って運ばれた病は、ハイゼン王国中央部を東から西へと流れていった。
阿鼻叫喚の地獄絵図が国中で見られ、誰もが絶望を感じ、この地獄は終わりがないのだと国中が思った。だが、この病はひと月も経たずに静かに収束する。
病が収束したとき、ベルガーに命を下した男爵はすでにこの世の人ではなかった。
命を下されたベルガーという名の使用人も、この世にはいなかった。
残されたのは、荒れ果てた男爵邸に残された、黒革の古びた一冊の本だけだった。




