第五章 知の宝庫・ベゼルフォード ㈣
地下書庫からの階段を登り、図書館のカウンターでモーリスが司書に鍵を返している姿を遠目で見ていると、不意に後ろから声を掛けられた。
「ローゼンガルド卿ではないですか」
静謐な図書館では、小声で言ったそれも、よく響いた。
後ろを振り返ると、申し訳なさそうに肩をすくめ、金髪のお下げを肩に垂らす、中性的な顔立ちの青年が立っていた。
「サイモンか」
「ええ。そうです。こんなところで会うとは奇遇ですね」
サイモンはダークブラウンのサックコートに、黒のボーラーハットの姿で、手元には数冊の本を抱えている。足元に置かれた、黒革のブリーフケースは、革靴同様に磨き込まれて自然光で光っていた。
レイヴンは思わず自分の腕を曲げて見た。フロックコートの袖口や腕は白い砂ぼこりがつき、足元を見ると薄っすらと雪化粧のように砂埃が靴の先の方についていた。
「ずいぶんと汚れていますね」
「ああ。地下書庫で少し……」
「地下書庫ですか? あんなところ、学生時代でも入ったことないですよ」
視線を落としたレイヴンに、サイモンは驚きの声をあげる。再び、サイモンの声が響いた。
「図書館では静かにしないとね」
足音を立てずに、近寄って来たモーリスを二人は同時に見つめた。
「ここじゃあ、話できないから外に行こうか」
「ああ、それでしたら、これから一緒にお昼はどうですか? この近くに評判のカフェがあるんですよ」
「いいね。そこ行こうか」
モーリスの一言で、三人は図書館から出ると、大聖堂を回り込んで大学の敷地から出て、並木の植わる通りをしばらく歩くと、人がまばらにはけ始めたカフェのオープンテラスに座った。
サイモンは空いている座席に、サックコートを引っ掛けると、ボーラーハットもそこに置き本をしまって膨らんだブリーフケースを足元に置いた。レイヴンも、サイモン同様にコートと帽子を空いている座席に置く。
「モーリス」
モーリスの肩掛け鞄を受け取ろうとレイヴンが手を伸ばすと、彼はかぶりを振る。入っているものがあれなので、手元に置いておきたいのだろう。
店員に手慣れた様子で、サイモンが注文を伝える。
店員が立ち去っていくと、サイモンはモーリスの顔をじっと見つめて口を開く。
「もしかして、レイモンド教授ですか?」
名前を言われた本人は、目を丸くしてレイヴンに助けを求める視線を送って来た。ここに来るまで、サイモンとレイヴンが会話をしながらだったので、モーリスのことを紹介していなかったが、どうやら、サイモンはモーリスのことを知っているようだった。
「あ、申し遅れました。私は、サイモン・バーグマン。弁護士をしています。よく叔父たちがあなたのことを話していました」
「バーグマン……」
モーリスはサイモンの苗字をつぶやくと、何かを思い出したのか顔を上げた。
「バーグマン子爵のご家族でしたか。確か、今は――」
「ええ。叔父が亡くなって甥の私が養子となって爵位を継ぎました」
「そうでしたか、ではご夫人はご健勝ですか? 最近、講演会で見かけないので」
モーリスの言葉に、サイモンは俯きがちに答える。
「叔母は、足を悪くして、領地の屋敷の方で過ごしています。最近では寝込むことも多く、屋敷の庭を見るのが楽しみだと言っていましたよ。もちろん、レイモンド教授の講演会は資料を知り合いから送ってもらって目を通しているみたいです」
店員がトレーに乗せたミートパイをテーブルの上に置くと、それぞれの目の前にグラスの内側に気泡がついたジンジャーエールを置いた。
「すみません。この後、法廷に出る用があるので、アルコールを控えてまして」
申し訳なさそうに言うサイモンに、レイヴンもモーリスも首を横にふるう。
「構わない。仕事の途中で、こちらこそ申し訳ない。ところで、なんでベゼルフォードまで?」
サイモンの勤める法律事務所や、裁判所の位置から考えると、ベゼルフォード大学は反対の位置にある。特別な用がなければ、ここまでやってこないだろう。
「貴族院で仕えそうな本を借りに来たんですよ。あそこは、卒業生なら本の貸し出しもやってますから」
ジャケットも脱いで、シャツを袖まくりしたサイモンは、ミートパイをナイフで切り分けて皿に盛っていく。
「ここのミートパイは絶品ですよ。味は保証します」
フォークを手に取り、レイヴンはミートパイを切り取ると、口に運んだ。サクサクの生地に熱い肉汁が沁み込み、香ばしさと肉のうまみを口の中に広げる。肉に練り込まれた香辛料がいいアクセントになり、肉のうまみと調和して、噛むたびに味に微妙な変化をもたらし、飽きさせることはない。
「ずいぶんと、質のいい肉を使っているな」
レイヴンの一言に、サイモンは自分が褒められたかのようににこやかに笑う。
モーリスは、もぐもぐと少し口に入れすぎではないかと思うほど、頬を膨らませて食べている。大きくのどを鳴らして、ミートパイを飲み込むとジンジャーエールを美味しそうに眼を閉じて飲んでいる。
「教授もその様子なら、ご満悦ですね」
サイモンはモーリスの方を見ながら言う。
「うん。これは中々美味しいね。ここに来た時の定番コースにしようかと思うよ」
ナプキンで口に着いた肉汁をぬぐいながら、素の口調に戻ったモーリスに、サイモンは先ほどの疑問を口にした。
「ところで、お二人は地下書庫で何をなさっていたんです?」
レイヴンはどういえば切り抜けられるかと考え、モーリスを見た。
「次の講演会の準備です。レイヴンには、後援者代表として、少し手伝いを頼んでいましてね」
「そうでしたか」
フェミルトン教授に言った嘘をここでも使った。もし、ここで、違うことを話せばどこかで辻褄が合わなくなる。
「叔母も資料を送れば喜んでくれるかもしれません。今では、庭を見に屋敷に来る客も減ってきて寂しいそうです」
「そんなに見所のある庭なのですか?」
モーリスは首をかしげながら言う。空になった皿に、切り分けられたミートパイを乗せる。
「バーグマン子爵邸の庭と言ったら、貴族の間では知らないものがいないほど素晴らしい庭だぞ。バラ園に、季節ごとに咲く花で作った花時計が有名だな。私も子供のころは両親とともに何度がうかがったことがある」
「レイヴン様は、我が家の庭をご覧になったことがあるのですか?」
「ええ。所領が隣同士なので、父からは隣人付き合いが大切だからと連れてかれましたが、本心では父はあの庭に惚れ込んでいたようです。自分の屋敷でも同じようにできないかと庭師に相談した姿を見ましたよ」
レイヴンは自嘲気味に笑う。あの頃の父親の姿は見ていて滑稽なほど、目新しいおもちゃを欲しがる子供のようにバーグマン邸の庭に執着していた。後日、使用人からの知らせで痺れを切らした母が窘めて、ローゼンガルド邸の庭の改造計画は消えた。
「よく来る貴族の方はバーグマン邸の『魅了の庭』だと言われてましたよ。何度見ても飽きず、来るたびに表情を変える。でも、あの庭はたった一人の庭師があそこまでに仕上げたんですよ」
「一人で、ですか!」
通常の邸宅でも、庭師の親方に数人の弟子か、他の使用人の手伝いが入る。バーグマン邸の庭の大きさは、そこまで広くはないとしても一人で面倒を見るには大きすぎるくらいだ。
サイモンは、力尽くよく頷いて言葉をつづけた。
「私は、子供のころに一度だけ庭に作った迷路で迷子になったことがあったんですが、その時に、金髪の青年が助けてくれたんです。彼は、私が迷子になったのを知ると、庭を作り直さなきゃいけないな、って呟いたんです」
「それでは、その青年が今でも一人で庭を?」
「たぶん、もう結構な歳になってるかもしれませんが、私はあの時の青年の姿が瞼に焼き付いて離れません。肩まで伸びた金髪は風がなびけば、さらりと流れるようで、透き通った青い瞳に、整った容姿が相まって、まるで美術館の彫刻を見ているようでした」
「そんな、美青年がいるんですね」
ミートパイを頬張りながらしゃべる、モーリスをレイヴンは少し睨むと、サイモンの話に聞き入る。
「いるんですよね。私の頭の中にはいつでも」
自分こめかみ辺りを、指でつついてほほ笑むサイモンにレイヴンは微笑した。
王都でも指折りの敏腕弁護士は、こういうお茶目な一面もあるのかと思うと、人というのは一目見ただけでは想像ができないほど奥深い生き物なのだと思った。
ミートパイが皿から片付き、銘々が自分のジンジャーエールを飲み干すと、サイモンがベストに入れた懐中時計を見て言った。
「あ、もうこんな時間か。急いでいかないと間に合わないや」
慌てた様子でジャケットとコートを着込むサイモンを見て、レイヴンは提案した。
「良かったら、うちの自動車で送りましょうか? 乗合馬車よりは早く着けますから」
レイヴンの急な提案に少し戸惑ったような表情を見せるサイモンだが、カフェの前の乗合馬車の停留所にはまだ人が集まっておらず、馬車が来る様子がない事がうかがえる。
「お言葉に甘えて、お願いできますか?」
「ええ、もちろんですよ」
レイヴンがそう答え、席を立った。
「じゃあ、僕はマークを呼んでくるよ」
モーリスが勢いよく席から立ち上がり、オープンテラスから走り去っていった。
「全く、忙しないやつだ」
レイヴンがそうこぼすと、隣に立つサイモンは忍び笑いを堪えながら黒いボーラーハットをかぶった。
「ところで、レイヴン様?」
「何です?」
「神聖帝国の人間が誘拐されて、大使が政府に詰め寄ったという話はご存じですか?」
レイヴンは頷いた。その問題を作った本人は自分なのだから。
「早く見つかって、外交問題に発展しなければいいのですが……」
サイモンは心配そうに言い、エンジン音を響かせながらこちらへ向かってくる自動車に視線を向けた。
「ええ。そう願います」
低い声でレイヴンは言った。
連れ去られるシスター・リリアの可愛げのある姿が脳裏によみがえり、思わずテーブルを拳で小さく小突いた。
かすかに触れたテーブルで、踊った食器の音はカフェの横に止まった、自動車のエンジン音にかき消されて誰にも聞こえなかった。




