第五章 知の宝庫・ベゼルフォード ㈡
城館の中に入ると、レイヴンは少し寒さを感じた。古い石造りの館内は、陽ざしの暖かさを遮り、明りすら転々と灯るガス灯に頼らなければいけないほど、外界との格差が大きかった。
モーリスは我が家のように、階段を登り、廊下を進んで行く。レイヴンは、遅れまいと館内に目をやりながら続いていく。
何部屋も通りすぎていき、金色メッキの名札のかかるドアの前に立つ。モーリスが大きく息を吸い込み、ドアをノックした。
「どうぞ。開いてるわ」
年配の女性の小さな声が聞こえた。
「失礼します。先生」
ドアノブをつかみ、ゆっくりとドアを開けて中に足を入れたモーリスに続き、レイヴンも軽い挨拶の言葉を掛けて、中に入る。
後ろ手にドアを閉じると、室内は殺風景な廊下とは異なり、壁際に置かれた棚に、陶磁器の小物が並び、窓の間の壁にはタペストリーが飾られている。本棚も置いてはあるが、モーリスの研究室と比べるとこじんまりとしたもので、必要最低限の書物しか置いてないように見える。
「ずいぶんと久しぶりではなくて、モーリス?」
壁際に置かれた書斎机の椅子に座り、半身を捻りこちらを見る女性の姿があった。濃い緑色のドレスは襟元に縫い付けられたレースがいい塩梅で知的な雰囲気を醸し出している。白髪頭は後ろで丸く結い上げてあり、白いレースの飾りをつけている。
「ええ。ご無沙汰しています。フェミルトン教授」
モーリスは胸に手を当てて頭を下げる。レイヴンは、その姿に目を見張った。大貴族のヘイグスウッド伯爵を前にしても、ここまで丁寧な挨拶をしていなかった。そこに、モーリスの知性に対する尊敬の念を感じた。
「そうね。前の学会の時以来かしら。ところで、お隣の紳士はどなたかしら? あなたがお友達を連れてくるなんて珍しいわね」
眼鏡の蔓を片手で持ち上げて、自分を見つめるフェミルトン教授に、レイヴンはモーリス同様の挨拶をする。
「お初にお目にかかります。レイヴン・クロード・ローゼンガルドと申します」
レイヴンの挨拶を聞き、黒い瞳を輝かせたフェミルトン教授は、椅子から立ち上がると、膝を折り頭を下げた。
「これは。ローゼンガルド侯爵閣下とは知らず、失礼いたしました。クラエス・フェミルトンです。このベゼルフォード大学で、恥ずかしながら歴史学の授業を受け持っておりますわ」
挨拶をすまし立ち上がろうとした、クラエスは少しよろめき、椅子背をつかんだ。
それと同時に、モーリスにお菓子の箱を押し付けられ、彼はクラエスの手を支える。
「大丈夫ですか?」
モーリスの支えで、クラエスは椅子に腰かける。
「ええ、ありがとう。でも、私も年ね。最近は膝が痛くて、講義室へも学生の助けがないと教材を運んでいくこともできないわ」
「そんな。先生の手助けができるなんて、学生としては光栄ですよ」
モーリスの言葉にクラエスは微笑んだ。
「ありがたい言葉ね。でもね、モーリス。最近では歴史学を受講する生徒が減ってきているのよ。こんなおばあちゃんの話ですもの、レイモンド先生の人気にはかなわないわ」
「そんな、寂しいことを言わないでくださいよ。まだまだ、先生は現役ですよ」
モーリスの励ましの言葉に、クラエスは首を横に振る。
「そんなことないわ。私も自分の幕引きぐらいは考えているもの。もう少ししたら、辞職して田舎で暮らすのも悪くないと思っているのよ」
視線を落として言うクラエスに、モーリスもつられて視線を落とす。
部屋の中を沈黙が包み込み、壁掛け時計の秒針が進む音だけが聞こえる。
「ところで、モーリス。お友達を連れてきて、どうしたのかしら。それに、あの箱は私の好物の王都のマドレーヌじゃなくて」
はしゃいだように明るい声をあげたクラエスの前に、レイヴンはお菓子の箱を差し出す。クラエスは、このお菓子に合う紅茶があると言い、膝をさすりながら立ち上がると、二人に来客用のソファに座るように言い、紅茶を入れる準備を始めた。
*
クラエスの淹れてくれた紅茶を口にしたレイヴンは、その深い渋みと鼻を抜ける芳醇な香りに思わずうなった。飲み込んだ後の余韻も素晴らしく、渋みは口に残らず、香りの余韻も邪魔にならないほどの心地よさだ。
手土産で持ってきたマドレーヌも、値段と店の混雑具合を納得させるほどの味だった。しっとりとした生地に、くどすぎない甘みと、紅茶の香りを邪魔させないレモンの風味が絶妙な塩梅だ。
「どう? 美味しいでしょ」
隣に座るモーリスは、ソーサーを手に持ちカップを口に着ける。普段とは違う彼の礼儀正しさの違いに思わず声を出したくなるが、モーリスの言葉には頷くしかない。
「本当に美味しいですね。今度、屋敷の皆にも買っていこうか」
思わずつぶやいた言葉に、対面にすわるクラエスが口に手を当てて笑う。
「ローゼンガルド家で働く者は幸せですわね。お優しいご主人の元で働いておられるのですもの。その優しさは、お父様にそっくりですわ」
「父を知っているのですか?」
驚きで体が揺れ、カップの中の紅茶が揺れてこぼれそうになった。
「先代のローゼンガルド卿は、学生時代によくここの図書館を利用していましたよ。学院の図書館よりも蔵書が豊富だからと言っておりました。ベゼルフォードに通いたかったけれど、御父上に反対されたと嘆いていましたわ」
「そうですか」
レイヴンは書斎で本を読みふけっていた父親の姿を思い起こす。本といえば何でも好んで読んでいた父親は、爵位を譲った今では領地の屋敷に籠って読書三昧の日々を送っていると手紙に書いてあった。
「あの時代にベゼルフォードへ来る貴族の子弟は、エルドラ女王が学院へ優秀な生徒であれば身分を問わずに受け入れるという命に対する無言の反発で来た子が多かったですわ。今でも、思い出しますよ。カルパティエン家の子なんかは、ものすごく不服そうな顔をして授業をうけていましたもの」
脳裏に想像するのは、ウェイン・メイベラーズ・カルパティエンが小さくなった姿だ。おそらく、親しい貴族の子息と離れなければならないことに不満だったのだろう。彼の父親は身分の違いや、貴族としての振る舞いに厳しい人物だったと聞いている。
「では、先生はそのころから、ここで教鞭を?」
レイヴンは、カップをソーサーに乗せて机に置く。カップとソーサーは棚に飾られていたもので、古さを感じるデザインだが、質の良い陶磁器の代物なのは目で見ても、触ってみても明らかだった。
なめらかな質感と、手に持った時にその薄さが儚さを醸し出し、思わず丁重に扱わなければという感覚にさせる。職人が筆先を器用に使って描いた淡い色合いの花模様に、金の獅子の紋章が絶妙な配置で描かれている姿は、この陶磁器の価値を一段と押し上げている。
「ええ。そうですわね。私が、大学の講師となった時は、女が学問をするなんてといわれるような時代でしたけれど、ここまで教師人生を過ごせることが出来ましたわ」
皿に乗ったマドレーヌを、フォークで小さく切り分けて口に入れ、クラエスは幸せそうに口元をほころばせる。
「ところで、先生。電話でお話しした件は、大丈夫でしょうか?」
モーリスは口元についたマドレーヌの食べかすを指で拭い、口に入れながら言う。
「構わないわ。地下書庫を閲覧したいだなんて、ここの教授陣でも滅多に申請しないのだけれど、モーリス・レイモンドの頼みだと言ったら、学長も二つ返事で許可を出したわよ」
「ありがとうございます」
頭を下げるモーリスに、クラエスは机の引き出しから絵葉書の大きさの、閲覧許可証を取り出して渡す。
「本当は、私がついていった方がいいのだけれど。あそこの階段はこの膝にはつらいのよ。でも、モーリスならあの書庫を熟知しているから大丈夫でしょう」
頷く隣の友人を、レイヴンは少し不信気に見た。
「でも、地下書庫で探し物だなんて、いったい何を調べているの? あそこはカナン語の文献がほとんどで、他にはここが聖教会の時代に編纂された書物しかないわよ。ああ、それと古い新聞の束が捨てられないからと、箱で押し込まれていたわね」
クラエスの急な質問に、二人は顔を見合わせた。ここは、レイヴンが口に出すよりも、モーリスに任せた方が無難だろう。
「ええ。今度、聖教会と国教会の改革史に焦点を当てた講演会を頼まれまして、その下調べで色々と。学院の図書館では物足りなくて、先生の顔を思い出したんです」
「まあ、それは面白そうな話ね。ぜひとも、その講演が実現したら拝聴させていただきたいものね」
「ええ。ぜひとも」
許可証をジャケットの内側に仕舞うと、友人は意味ありげな視線をレイヴンに寄せてきた。
時計の秒針が動く、規則正しい機械音が聞こえてきた。




