第四章 レイヴンの過ち ㈦
チェッカーボーン駅を定刻よりわずかに遅れて出発した汽車は、汽笛を鳴らしながら田園と荒野の入り乱れる平野を走っていた。
レイヴンは、対面に座るシスター・リリアと共に固い木製の直角の座席に座っていた。
「修道院より外に出るのは久しぶりです」
リリアは物珍しそうに、寂しい田舎の景色を車窓から眺めていた。少しだけ開けられた窓から入る風が、リリアの亜麻色の短い髪を揺らす。時折見せる子供のような純粋な光を放つ眼は美しく、思わずレイヴンは見惚れた。
婚約者がいる身でありながら情けないと、自分を叱咤し、リリアに話を振る。
「ところで、リリアさん」
車窓からこちらを振り向いたときに、顔にかかった髪を耳にかける。艶のある血色の良い薄紅色の頬が何とも愛らしい。
「何でしょうか。レイヴン様」
「これからのことですが、まずは王都に行きます」
「はい」
これから重要な話をここでしてもよいのだろうかと、周りを見回す。まばらに座る乗客は寝ている者もいれば、車窓を眺める者もいる。編み物を始めた婦人もいる。幸いなことに、自分たちの席の前後と隣は空席だ。
「王都の私の屋敷で過ごしていただこうと思っております。不自由はさせません。リリアさんのなさりたいことがあれば、ご自由にしてください」
「ありがとうございます。一つだけお願いがあるのですが、よろしいでしょうか」
「ええ。なんでもどうぞ」
「朝晩のお祈りを許可していただけますか?」
意を決したようなリリアの視線に、思わずレイヴンは口を押えて笑い声を噛みしめた。
「すみません。お祈りでしたら自由にしていただいて構いません」
「ですが、家の方たちが見られたら、咎められるのはレイヴン様ですよ」
「誰も咎めやしませんよ。逆に見習いたいくらいです。安息日に教会へ行くくらいのことしか普段していませんので。お恥ずかしいですが……」
真面目に話すリリアへの申し訳なさと気恥ずかしさで、思わず俯いた。
「その……信仰は自由ですから、私が何か言うことではないかもしれません。でも、国教会の信徒の方のお屋敷で、聖教会の信徒が祈りをささげるのはどう思うのかと考えまして」
「そのことでしたら、比較的自由ですよ。他の家はわかりませんが、私の家族は皆が国教会の信徒ですが、使用人の中には聖教会の信徒もおります。皆が仲良く過ごせれば、教会の違いは問いませんよ」
「そうですか」
胸元に手をやり、ほっとしたようにリリアは、一息した。
「もしかして、帝国では異教徒は肩身が狭いのでしょうか?」
ハイゼン王国と、ミリアス神聖帝国の間で国交が樹立したのは二百年ほど前のことだ。当時ですら、聖教会から分派した国教会に風当たりが強かったが、当時の情勢が二つの国を結びつける後押しをしたと聞く。今でも、帝国に駐在する外交官は聖教会の信徒を選ぶのが暗黙の決まりだとも聞いている。
「そこまでのことはありません。先代の皇帝陛下の御代は、厳しいこともありましたが、今上陛下が即位されてからは帝国内の異教の方々への厳しさも和らぎました。そのことに不満を持つ方もみえますが、多くの国民は少し暮らしが楽になったと言っているようですよ」
「そのようなことがあったのですか。大変勉強になります」
貴族院議員になり、実際に政治の表舞台に立つと感じるのが自分の知識の乏しさだった。学問的な知識は学院で教わるが、国家間の詳細な関係や本では知ることのできない、伝聞によるその国の風土を知らなければ、政治を司ることはできないと痛感した。
学者の友人がよく言っている言葉を思い出す。
――文献から学ぶことよりも、その土地の伝聞や史跡を巡ることで文献の行間の空気を感じなければ歴史というものの見方を間違えることがある。
まさしく、その言葉の通りだと納得するのが、ここ最近のレイヴンであった。
「レイヴン様にそう言っていただけると、恥ずかしいです。私などは、今回の旅がなければ教皇庁から出ることはなかったような人間ですので、勉強させられるのは私の方です」
「それでも、リリアさんとこうして話していると、本当に帝国を歩いているような気がします。やはり、実際に目にしたことを言葉で聞くというのはいい経験となります」
吹き込む風で、前髪が目にかかり、後ろに撫でる。腕を組んで、これからの工程を頭の中で反芻しようとしたところで、コートの中にごわごわした感触を覚えた。
「忘れていました。リリアさん、こんなところに入っていたものですが、召し上がりますか?」
レイヴンはコートの内側から、焼き菓子の包まれた新聞紙と、砂糖菓子の入った紙の包みを取り出す。
リリアに手渡すと、それぞれの包みを開けて、顔を輝かせる。
「美味しそうなお菓子ですね。頂いてもよろしいでしょうか」
「もちろんです。その、どちらも食べかけなのですが」
「構いませんよ」
かぶりを振り、リリアは焼き菓子を口に入れ、目を細める。次に、砂糖菓子を口に入れるとチェリー風味の酸味が効いたのか、眉間にしわを寄せて目をつむる。
その姿を見て、レイヴンは自然と笑顔になる。
教皇庁という戒律の厳しい生活では知ることのなかった、お菓子の味わいに大きく表情を変える姿は新鮮で、子供の姿を見ているようだった。
指に着いた砂糖菓子の粉を、小さく出した舌で舐めとったリリアを見ていると、急に汽車が止まり、リリアの体がレイヴンの方へと倒れてきた。
「危ない」
リリアの短く小さな悲鳴とともに、華奢な体を抱きとめた。
「すみません」
「けがはないですか?」
二人の言葉が同時に重なった。
「どうしたのでしょうか?」
「おそらく、いつもの軽い故障でしょう。この路線はいつもこのような感じなので、すぐに発つと思いますよ」
席に座ったリリアにそう言うと、レイヴンは周りを見回した。乗客の中で体勢を崩した者はいたようだが、汽車の急停車で慌てるような者はいない。皆が、いつもの緊急停車なのだろうと思っていた。
「それにしても、このお菓子は不思議ですね。なぜか、気持ちが暖かくなります」
リリアは顔をほころばせながら、お菓子をつまむ。
そんな姿を、見つめていると、後方の車両から白い煙が立ち始めた。後ろの車両の乗客が慌てて前の方へ駆けよってくるのが、ちょうど曲がり角に差し掛かったことで車窓から見える。
「何かありましたか?」
乗客の混乱する叫び声が聞こえてくると、リリアも後方を振り返る。同じ車両の乗客も立ち上がるものや、窓を大きく開けて身を乗り出す者がいる。
レイヴンも、後方の車両を気にして立ち上がろうとした時だった。突然、後ろの席から何かが割れた音がした。音共に白い煙が床に流れ込み始め、煙はすぐに車両の中を満たし始める。
「リリアさん。鼻を押さえて」
レイヴンはコートからハンカチを取り出すと、かすかに見えるリリアに手渡す。レイヴンの手から強引にハンカチをもぎ取るようにして、リリアはハンカチを受け取ったようだ。
その感触に微かな違和感を感じたときには遅かった。頭を強い衝撃が遅い、座席に叩きつけられるようにして、床に倒れ込んだレイヴンは、車内の喧騒の中からしっかりとリリアの悲鳴と助けを求める声を聞いた。
床に這いつくばりながら、声のした方へ進み、座席につかまりながら立ち上がると、開け放たれた窓から風が入り込み、一瞬、視界が開けた。
黒革のコートを着た、波打つ灰色の髪をなびかせた男が、リリアの体を片腕で引きずるようにして、汽車の乗降口へ向かおうとしていた。
「リリアさん!」
渾身の力を込めて叫んだ声は、荒れ狂う車内に響いた。声に気づいたリリアは、何かを言おうとしたが、それに気づいた男がリリアの鳩尾に拳を叩き込み黙らせた。
「リリアさん!」
もう一度、叫び、男の方へ向かう。男の黄色の目がレイヴンの姿を見つける。
男は口元を歪に歪めると、白い歯をむき出しにして笑い始めた。笑い声は聞こえない。だが、その姿はレイヴンを嘲笑していることは明らかだ。
長い舌を出して、リリアの柔らかそうな無垢な頬をひと舐めすると、忽然と姿を消した。
レイヴンが人をかき分けて、男が消えた方へ進むと、乗降口の扉が開け放たれており、その下を男がリリアを担いで駆けていく姿が目に付いた。追いかけようと、乗降口から飛び降りようとしたとき、汽車がわずかに動いた。その衝撃で、乗客が一斉に体勢を崩す、レイヴンも後ろの乗客に掴まれて、のけぞった。
「すまんねぇ」
後ろから、田舎訛りの謝罪の言葉が聞こえたが、レイヴンの耳には入らなかった。乗降口に縋りつくようにしてたどり着くと、路線から下りきった場所に止まった自動車にリリアを押し込む男の姿があった。男も自動車に乗り込む。
「待て!」
レイヴンは力の限り叫ぶが、その声は自動車までは届かない。自動車のけたたましいエンジン音が小さく空気を震わせて、レイヴンの耳に届く。
乗降口から飛び降りようと足元を見つめた、レイヴンの方を誰かが掴んだ。
振り向いたレイヴンの目の前にはくたびれた格好をした男が立っていた。
「旦那。こんなところから飛び降りたら危ねぇですぜ」
そう一言告げると、男はすぐ近くの座席に座った。
レイヴンは乗降口の枠に縋りついて、外を見つめた。
自動車は土煙を上げながら、彼方を歩く農夫とロバを追い越して消えていった。
風が車内に吹き込み、煙が薄まると、レイヴンは床に落ちた焼き菓子の包みを見つけた。無残に踏みつけられて、破れた箇所から、砕けた焼き菓子がのぞいている。
一陣の風が吹き込み、砕けた菓子の破片が乗降口から外へ吹き飛ばされていく姿を、レイヴンは見つめるしかできなかった。
*
気づいたときには王都の騒がしさが耳に響いていた。モーリーパーク駅でマークに電話したとき、自分はどんな声をしていたのだろうか。ベルンデン中央駅に着いたことですら、記憶にはない。
レイヴンは、視界がふらつく中、見知った自動車を見つけて歩み寄る。
「旦那様! 大丈夫ですか!」
目の前の視界が揺らぎ、足に力が入らない。
目の前を必死の形相のマークが、キャスケット帽が脱げるのも構わずに駆け寄ってくるのが見えた。
右手が地面につき、小石が手のひらに食い込む。もう片方の手も地面に着きそうになった時、誰かに支えられた感触がした。
「気を付けて。レイヴン」
見上げると赤いくせ毛の見知った顔がそこにあった。
「モー、リ、ス」
口の中がからからに乾き、言葉が出ない。だが、不思議と友人の顔を見たことで、今までの焦燥感が薄れ、安堵からが頬に暖かい涙が伝うのを感じた。
「泣くのは後だよ。こんなところを新聞にでも見られた、大惨事だよ」
地面に着いた手も。急に持ち上がる。
「旦那様。歩けますか?」
耳元で、マークの声がした。それだけで、立ち上がりかけたときに足の力が急に抜けて倒れ込みそうになる。
「危ないな。マーク君。歩けそうにないから、少し乱暴だけれど、車まで支えて歩けるかな」
「はい。先生」
マークの声とともに、体が自分の意志に関係なく動いていく。
目の前の石畳がぼやけていき、瞼を持ち上げる力が抜けた。レイヴンの記憶があるのはそこまでだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
明日の投稿は、定刻通りとなりますが、第5章が始まります。
物語の展開に合わせて、【登場人物・世界観のページ】を更新いたします。
登場人物が増えて、より濃厚な物語になり始めた「ハイゼン王国記」。
それを読み進めるための、一助になれるページになれればと思っております。
引き続き「ハイゼン王国記」は「毎日 20:30」の投稿となります。




