第四章 レイヴンの過ち ㈤
ハイゼン王国の王宮に行くためには、ベルンデンの市街地の北側を横断する川を渡らなければならない。この川を渡る橋は何本もかけられているが、王宮のある中洲へ渡るための橋は三本しかなく、そのうちの一本を王宮へ渡る賓客や政治家が利用する。
見通しの良い橋は、だれがどの時間に通ったかが一目で分かり、秘密裏に王宮へ赴くには王宮への仕入れか、王族が優先して使用する他の橋を使うしかない。
アデル・リーデンは、そのうちの一本である、王族が使用する橋を馬車に乗って渡り、王宮へ入った。今回の謁見は、誰にも知られずに行わなければならない。それに、国王の友人としての来訪でもあるため、公務の一環ではないという理由から、目立たず王宮へ渡れる橋を使った。
王宮の車寄せに着くと、王宮の使用人にドアを開けてもらい、馬車を下りる。光沢のある漆黒のフロックコートに、最近の流行よりも少し高い、シルクハットをかぶり、王宮の表玄関の階段を登る。
開け放たれた扉の向こうに続く、大理石の階段の中央を歩いていく。赤い絨毯の柔らかな毛並みを足に感じながら、国王の執務室へ使用人に先導されながら歩いていくと、前から、正装をした首相が歩いてきた。
「これは、ヘイグスウッド伯爵閣下。今日は、どのようなご用件で参られましたかな?」
互いに軽い挨拶を交わすと、マルケン・ジェンドリン首相はなじみ切れていないシルクハットを軽く押さえながら言った。
組閣時には、王宮内を他のハーディー党の閣僚たちとともに、見回していた姿は過去のもので、目の前にいるジェンドリンは王宮での立ち居振る舞いにも慣れ切った様子で、不敵に微笑む余裕すらできたようだ。
「ジェンドリン首相。陛下との謁見が終わったのでしたら、早々にお帰りになられ、差し戻された法案をよく吟味されることをお勧めいたしますぞ」
グランベリー大主教の登院によって開かれた貴族院議会で、庶民院から賛成多数で可決された法案の多くは、貴族院の改善案とともに庶民院へ差し戻された。ハーディー党とリーベック党の連立政権ができてから出された法案は、その多くが貴族院の反対で差し戻され、多くの変更を加えて審議を繰り返すことが多かった。
「閣下に指摘されなくても、そのつもりですぞ。国王陛下も、我々の法案の骨格には賛同を得られているご様子。閣下も、陛下のご意向を無下になされぬようにしていただきたいものですな」
軽く頭を下げて、話を切ったジェンドリンは使用人を促して玄関へ向かっていった。
「不愉快な奴だ」
使用人の先導で、国王の執務室まで案内される中、アデルの頭の中には、ハーディー党の躍進で苦言を呈する貴族院の議員たちの声が反芻した。誰もが労働者階級の主張の先導役であるハーディー党の躍進をよくは思っていない。特に、組閣時の不慣れな状況とは打って変わって、最近では議会運営での立ち回りがうまくなり、連立するリーベック党の主要閣僚のポストも、時機に代わるのではないかとも噂されていた。そうなれば、ますます政局は混乱する。
荘厳なシャンデリアの並ぶ広い廊下の脇の一室で立ち止まり、使用人が部屋のドアでアデルの来訪を告げる。扉が開き、深紅のカーテンが折りたたまれた広い窓は、レースの白いカーテンから入る眩しいばかりの陽ざしで白い光が満たされている。
「陛下。ヘイグスウッド伯爵が参りました」
先導する使用人が、そう告げると、執務机の書類を捲っていた国王が顔を上げた。
国王が軽く手を振り、人払いの合図をすると、使用人たちは部屋から出て行き。扉の閉じる音が聞こえた。
「よく来てくれた、アデル」
数筋の白髪の混じった金髪は後ろに撫でつけられ、ところどころに皺の目立つようになった白い肌は若い時の張りを失ってはいても、血色はよく健康そうに見える。アデルを見つめる優しげな青い瞳は、輝きを失っておらず、かつて王太子時代に国中の女性たちを虜にした美青年の姿は、年齢を重ねた今でも深みを増して健在のようだ。
「ご無沙汰しております。ジョアン国王陛下」
アデルは胸に手を当て、ひざを折り、頭を下げた。
「かしこまらなくてもよい。人払いをしたのだ。昔のままでよい。それに、私たちは家族ではないか」
白い歯を見せてほほ笑んだ、ジョアンは、右手を差し出した。
「では、遠慮なく」
立ち上がったアデルは、ジョアンの手をつかみ、固い握手をした。
「ずいぶんと衰えてきたようだな。アデル」
「心労が続いているのだ。ジョアン。誰かのせいでな」
かぶりを振るジョアンは、握手をするアデルの手をもう片方の手で軽く叩いた。
「国王は臣下には公正中立でなければいけない。気に食わないからと言って、総選挙の結果を無下にすることはできないさ」
前回の庶民院の選挙では、レイニー党とハーディー党が拮抗する結果となった。そこへ、リーベック党の連立交渉が双方からなされ、ハーディー党との連立が実現し、組閣が決まった。初のハーディー党政権は不慣れなことが多く、主要閣僚はリーベック党が大臣を出し、国家運営が始まった。だが、最近では政権運営に慣れてきたハーディー党議員から、所要閣僚のハーディー党議員の起用する請願が出され始めている。
「あなたのお母上が生きていれば、このようなことはお許しにならなかっただろうに」
「そうだな」
手を離したジョアンは、レースのカーテン越しに見える外の景色を見つめた。眩しいばかりの陽ざしが、ジョアンの髪を輝かせ、金髪とフロックコートの黒との絶妙なコントラストを映えさせる。
国民が偉大なるエルドラ女王と呼ぶ、先代の国王であるジョアンの母は、若いころは改革派のリーベック贔屓、晩年は保守的なレイニーを贔屓にしていた。普通選挙法で国民のすべてが選挙年齢に達すれば投票できるように改革したのはエルドラ女王の裁量だったが、彼女が唯一危惧していたのは、民衆の扇動的な改革の波が国政に流れ込むことだった。
それは、治世の半分を過ぎたころに起きたヴィジュマ革命によって、隣国であり友好国のヴィジュマ帝国が皇帝の処刑を経て、ヴィジュマール連邦という共産主義国家が誕生したことで、危機感を感じたからだった。
「母は常々言っていたよ。民衆にペンを握らせても、武器を握らせてはいけない。彼らに与えてよいのは国家の繁栄のための知識だけだとね」
「なかなか深い言葉だ。エルドラ女王らしい」
「私にとっては呪縛の言葉だよ」
ジョアンは悲しげに眉を寄せて、アデルを見た。ソファに座るように促して、二人で向かい合って腰かける。
「母の言葉は深く重い。今でも、その一言一言を思い出すと、いかに国王というものが重責なのかがわかる」
ジョアンは二人の間の机の上に置かれた数部の新聞の内から、上に載っている新聞を手に取る。
そこには、ユーリウス王太子の悲哀について書かれた記事が載っている。相手のルーフェニア共和国出身の女優エレノール・モリュエンとの並んだ写真が大きく載っており、大きな見出しでは二人が建国記念碑で大衆に歓声とともに囲まれたと書かれている。
「ユーリウスも聞き分けの良い子だが、結婚に関してはこの人ではないと駄目だと言うことを聞かない」
エレノールは女優としては華やかさのない顔の女性だ。写真で見る彼女は、その反対に可愛げのある保護欲をそそる愛らしさを感じる顔立ちに、肩のあたりで切りそろえられた真っ直ぐな髪と、頭に乗せられた小さな帽子が可愛げを際立たせている。
「確かに、かわいらしい女性ですな。一般庶民の結婚相手であれば十分でしょうが、ユーリーは王太子なのです。異国の女性で、異教徒、出自も普通の家柄とあっては王家の威信にも関わります」
「それもそうだがね。どうにかできないものだろうか」
ジョアンは新聞の記事に目を通しながら言う。
「私や、あなたの時とは事情が違います」
アデルは、若かりし頃の自分を思い出した。妻のカレンシアは、カルパティエン侯爵家の令嬢で、ジョアンの妃候補の一人だった。義父にあたる、カルパティエン侯爵は大の北部人嫌いの貴族で、エルドラ女王の命の下、優秀な庶民出の生徒の入学を許可しだした王立学院へ自分の息子を入学させずに、伝統あるベゼルフォード大へ入学させるほどの人物だった。カレンシアがアデルに想いを寄せていても、当時の情勢では結婚は無理な話だった。
ところが、ジョアンの機転と、エルドラ女王の一言で、アデルとカレンシアの結婚の話は進み、これを機に王国の貴族間の長年の地域差の排他的な感情が薄まったと言ってもよかった。義父は、孫のアルバートが生まれると相好を崩して頻繁に北部の邸宅に会いに来たものだった。
「それもそうだ。王族には守らなければいけない法がある。だが、それとともに、人としての喜びを得る権利もあるはずだ」
新聞を机に投げ出したジョアンは、足を組んだ。
「母のように恋愛したとはいえ、政治的な思惑のある結婚をした例もある。だが、私は、時代の発展とともに、王室も変化を遂げてもいいと思う」
ジョアンの衰えぬ、国王としての力強い眼がアデルを見つめる。アデルは、思わずその力に気おされて、視線をずらした。
「アデル。君の知略でなんとかできないものだろうか?」
ジョアンは幼少からのつながりで親しい友人であるとはいえ、王と臣下の関係だ。この言葉は、願いではなく、命に等しい。
「難しいかと思います。わが国には、我が国としての成り立つための伝統と慣習がございます。ハーディー党の躍進はこの国に変化をもたらす革新的な出来ことでしょうが、それは王室には当てはまりません。わがハイゼン王室は、国民のよりどころなのです。その王室が世間に流されるようでは、国民の心も離れてゆきます」
貴族や王室の矜持を重んじたエルドラ女王は、従来の国政よりも改革的な国政を指導した名君だった。だが、彼女は一線を越えるような政策には慎重で、国の土台を揺るがすようなことを許すことはなかった。
今の国王は、どこまであの名君に近づけているのだろうかと、アデルは思考した。ジョアンは優しく、人としては素晴らしい人間だ。尊敬できる面が多く、友人としても臣下としても誇らしい。しかし、ハーディー党の政策に関心を寄せる姿や、ユーリウスの結婚の問題でも、毅然とした明言をしない姿を、エルドラ女王が見ればどのように思うのだろうか。
「それは、そうだが、国民の声というものを無下にはできまい。貴族院へ王太子廃嫡の法案が出され、審議が止まっていることも知っている。そのせいで、国内が二分されていることもわかる。だが、うまい妥協点を探せないかとも考えている」
「相変わらず、あなたは優しい方だ」
「ああ。母にはよく言われたよ。優しいだけの国王では国は治められないとね」
エルドラ女王の生前の一言一言は重く、アデルの脳裏にも昨日のことのようにいろいろな言葉が思い出される。
優しいだけでは国は治められない。
そのとおりなのだ。なぜ、ここまで国内世論が二分してもユーリウスは動こうとしないのだ。エレノールが国教会の改宗を拒んだことへの説得をしたのだろうか。彼女の信仰心がどこまでなのかは知らないが、元をたどれば同じ神を信仰する宗教なのだ。どこかで妥協点が見いだされるはずだ。この問題の当事者であるユーリウス王太子の優柔不断さが問題に複雑さを与えて、国内を混乱させているのであれば、彼は将来、この国を繁栄へ導く名君になれるのだろうか。
「アデル」
「何でしょうか?」
「この難題に答えを出せるのは君しかいないかもしれない。より良い妥協点を見つけてはくれないだろうか?」
ジョアンはその一言を告げると、執務机へ向かい、侍従を呼ぶベルを鳴らした。
「より良い結論を出します。陛下」
アデルは、書類に目を通すジョアンに頭を下げると、入って来た侍従たちと入れ違いに部屋を出た。
再び、使用人に先導されながら玄関へ向かいながら、途中立ち止まると、大きく肩を揺らして息を吸い込んだ。
一つの大きな決断を下さなければいけないという、決意を決めると、立ち止まっている使用人を手で促して歩き始めた。
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次回更新日時:2026年11月1日(日) 20:30
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