第四章 レイヴンの過ち ㈣
来客を告げに来た修道女の跡に続いて、院長室のドアの前までくると中から、院長と若男の声が聞こえた。
静かに頭を下げて立ち去った修道女に、礼の意味を込めてこちらも頭を下げると、シスター・リリアはドアをノックした。
「お入りなさい」
威厳に満ちた院長の声だ。だが、今日の声は少し怒りの感情が隠れているように感じる。
「失礼いたします」
リリアは、静かにドアを閉めると、目の前には自分の執務机の椅子に座る院長と、その前の椅子に座る若い男がいた。
振り向いた男の顔はどこか見たことのある気がした。整えられた金髪に、均整の取れた容姿、一筋の前髪が目のあたりにかかり色っぽく見える姿は、記憶を探っても名前は出てこない。
「この間は、失礼した」
男が立ち上がり、ダークブルーのラウンジスーツから垂れる懐中時計の金の鎖が椅子の背にあたり、固い金属音を鳴らす。
リリアが、その容姿とたたずまいに、言葉を失っていると、院長が立ち上がり壁際の椅子に腰かけるように促した。
リリアが、椅子に腰かけると、二人も椅子に腰かける。
「こちらは、ローゼンガルド侯爵閣下です。以前、カナレン司祭へ訪ねてこられたことがあったとか。シスターもお会いしたことがあるはずです」
院長の言葉に、リリアは赤毛の学者とともに来ていた、手櫛で整えただけの金髪の出版社の青年を思い出した。
「確か、レイヴン・クロード様でしたよね?」
「ええ、そうです。あれは、偽名ではありません。出版社勤務は嘘ですが」
レイヴンは手振りを添えてそう説明した。
「神の面前である修道院で嘘をおっしゃるとは感心しません」
毅然とした院長の抗議の声が入る。
「そうですね。あの時は大変な失礼をいたしました。ですが、こちらにも事情があるのです」
「どのような事情があるにせよ。偽名を使って司祭様たちに近づき、今度はシスターを連れて行こうなど許せる道理はございません」
肩で息をしながらの院長の声は、失態を犯した修道女を叱る姿だった。冷静に言っているように見えて、内心は不快に感じて怒っている声だ。
「状況は刻々と変わるものです。先日、カナレン司祭が亡くなられたと聞きました。禁書管理官であるカナレン司祭が、です。院長。私はカルパティエン侯爵閣下より、司祭とシスター・リリアが聖都から来た、禁書管理官だということは聞いております」
侯爵の名が出ると、院長はさっきまでの勢いを失い、俯いた。
「今、我が国は二つの意見に分かれています。新聞をお読みなら、わかるかと思いますが、王太子殿下の結婚について議会は割れている。私がどちらの意見かは明言しませんが、ある勢力は失われた禁書の力を利用しようとしていると聞きます。私は、その力で世情を動かすことには反対なのです。力で歴史をかき乱すのは正しい判断とは言えません」
レイヴンの理路整然とした説明に、リリアは思わず聞き入った。目の前にいる青年は、自分よりも禁書のことを信じ、危なさを理解している。
「ローゼンガルド卿」
「何です?」
俯いた院長は、顔を上げた。目の前の者を憐れむ目をしている。
「禁書が実際に存在すると信じておられるのですか?」
「ええ」
「何故ですか? 教会が何百年も前に失い、今では誰もがその存在を確認したことがないのですよ。この世の中は混沌としています。ですが、それは目に見えない影の力のせいではありません。すべては人の心が導いた結果なのですよ」
院長は背筋を伸ばして言う。己の言葉の正しさで、相手を屈服させたいというようにしっかりとレイヴンの目を見据える。
対するレイヴンは、一度目を閉じると、口を開いた。
「では、失礼ながら、神などいないと言ってもいいのではないでしょうか?」
その一言に、院長は怒りの形相で立ち上がり、椅子が激しく後ろに動く。リリアも、神を恐れぬ無神論者の言葉を聞き、思わず胸に手を当てた。
「何ということを言うのですか! ここは神の家ですよ!」
院長の怒りに満ちた声は、大きく部屋の中に響いた。この様子だと、部屋の外まで聞こえたのかもしれない。
「申し訳ありません。失言でした。ですが、院長もおっしゃたではないですか。禁書の存在が確認できなかったのだから、そんなものはないと。私は、神の存在は信じていますよ。ですが、実際には見たことはない。だから、あのような失礼な言い方で反論したまでです」
レイヴンが耳元の髪をそっと指で掻いた。
「院長。あなたが考えているよりも、世の中の人間というものは、自分の力が及ばない時、願望として未知の力にすがろうとするものです。近年、王都でもオカルトが流行しましたが、その多くがインチキでした。ですが、人々は熱狂したのです。それも未知の力への憧れと、畏怖、そして力への純粋な欲望からです。それなのに、禁書という世界を変えてしまうような力への欲望がないと言い切れますか? なぜ、司祭は殺害されたのだと思われるのですか?」
レイヴンの畳みかけるような言葉の勢いに飲まれた院長は、崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。
「どうか、院長。シスターを安全なところで匿うことをお許しください」
レイヴンの勤めて冷静な声に、院長がリリアを見た。
「シスター・リリア。閣下はこのようにおっしゃっています。どうするかは、あなたがお決めなさい」
「はい」
リリアは返事をして、膝に置いた手を見た。緊張で少し震えている。
「カナレン司祭のことですが――」
院長がレイヴンに向かって言葉を出す。
「あの方は、素行に問題のある方でした。教皇庁からもそのように知らせが届いています。夜中に街の酒場へ出入りしていたということも聞き及んでいます。司祭の事件の件は警察にも話しましたが、そういった場でのいざこざが原因かと思います」
「そうですか」
「ですが、閣下のお話にあるように、禁書管理官だから事件に巻き込まれたのだとしたら、ここも安全ではないのかもしれません。事件のあった翌日にわかったのですが、裏口が何者かによってこじ開けられそうになっていました。壊れていた木戸から司祭は出入りしていたようですが、夜中に物音で目覚めた修道女の報告で、至急に木の板で打ち付けたことが、結果的に良かったようです。あのままにしていたら、今頃は……」
院長の恐怖に満ちた眼がリリアを見た。
「決めるのはあなた自身ですよ。シスター・リリア」
リリアが顔を上げると、院長と、力強いレイヴンの目が向けられていることに気づいた。
リリアは震える手を押さえて、自分を鼓舞すると、立ち上がった。
「院長様。私、ローゼンガルド卿についていきます」
その一言に、レイヴンは頷き、院長は苦虫をかみつぶしたような顔をした。
*
リリアは自分の部屋に戻ると、修道着を脱いで、聖都から着てきた濃紺のウールドレスに着替えた。無駄な装飾のない、首元までボタンで覆われたドレスは、ミリアス神聖帝国の修道女が修道着以外で外出する際に支給されるドレスの一着だ。
ボタンの一つ一つを閉じていくと、洗いさらした皺が歪に伸びる。
着替えが終わったところで、ドアをノックする音がした。
ドア向こうへ返事をせず、リリアは少しドアを開けた。目の前には王都でよく見た貴族の格好をしたレイヴンが立っていた。
「失礼。あまり急かしたくはないのですが、この辺りは交通の便が悪いもので、なるべくなら早く出ようと思いまして」
「ええ。そうですね」
ドアをもう少し開けて、外を見回した。
「閣下。よろしければ中へどうぞ。内々のお話があるのですが」
リリアの意を決した言葉に、レイヴンはあたりを見回すと頷いて部屋の中に入って来た。そっと、ドアを閉じたリリアに、レイヴンは振り返り心配そうな顔をする。
「大丈夫です。閣下のお人柄は信じておりますし、名誉を汚すようなことは致しません」
男女が部屋に二人っきりになるという、修道院では決して見ない光景に、他者がそれを知った時にどのような顔をするのかは想像がたやすい。だが、リリアには内密にレイヴンに知ってもらいたい話がある。
「閣下。この地図に見覚えはございますか?」
リリアは小さな物書き机に、粗く書かれた地図を広げた。この修道院の書庫にあった古びた地図で、鉄道路線が載っていないところを見るに数十年は前の物だろう。
「ああ、この辺りが王都になる」
レイヴンは地図の一角を指でなぞり、円を描く。
「あと、ここがチェッカーボーンになると思う」
指が王都から西に動き、山が描かれている場所を指さす。
「この地図が何かあるのですか?」
レイヴンの視線がリリアにぶつかる。
リリアは胸元のボタンを二つ外した。目を大きく見開いたレイヴンに、首を横に振ると、水晶のペンダントを外して地図の上に置いた。
「この水晶のペンダントは、私が禁書管理局で年配の修道士から譲り受けたものです。これの存在を知っているのは、教皇猊下と私、そして閣下だけです」
つばを飲み込む喉の音が聞こえるように、レイヴンの体が震えて机がかすかに揺れた。
「このペンダントは、由来はわかりませんが禁書の力を感知することができます。実は、司祭が亡くなる前に、一度青く光りました。それも、あなた方が来た晩のことです。初めてのことです」
リリアの一言に、レイヴンが目をそらした。何か、思い当たることでもあるのだろうかと、声に出して聞きたくはなったが、今はペンダントのことを離さなければならない。
「それは禁書の力が使われたか、新しい契約者が現れたことを示すと言われています。そして、もう一つ、このペンダントには禁書の力を感じて探し出す能力があります。かなり、限定的ですが、教皇猊下と二人で、この方法で禁書の大まかな場所を探し当てました」
ペンダントの銀の鎖を持ち上げて、水晶が垂直に垂れたのを確認すると、リリアは地図の上に持っていく。水晶が自身の重みで振り子のように揺れる。普通の振り子であれば、揺れは静まっていくはずだが、水晶は王都の方角へ大きく揺れていく。
レイヴンが身を乗り出して、水晶の行方を目で追う姿が見える。
リリアは、水晶の揺れる方向へ手を動かしていくと、王都よりすこし北東に外れたあたりで水晶は円を描くように揺れた。
「このように激しく揺れる姿は初めて見ました。何度も試してみましたが、この辺りで大きく動きます」
水晶が青く光った、あの夜以来、教皇と聖都で試した禁書の探索方法は大きく進展した。ペンダントは、あの光で力を取り戻したかのように日々、地図上のこの場所を指すようになったのだ。
「この場所に、心当たりはございますか?」
リリアの質問に、レイヴンが喉を鳴らした。
「この辺りは。ローゼンガルド領だ。つまり、私の所領になる」
思わずペンダントを持つ手が震え、取り落としそうになる。
「実は、私もシスターに打ち明けなければいけないことがあります。そのペンダントが光った晩のこと。つまり、私たちがここへ訪ねてきた日の夜のことです」
リリアはペンダントを首に取り付けて、胸元へ仕舞いボタンを閉めた。
「私の友人。あの日に、一緒に来た赤毛の男を覚えていますか?」
「ええ。レイモンドさんでしたか。とても博識な方だったと記憶しています」
「そうです。そのモーリス・レイモンドが、偶然、禁書を手に入れました」
レイヴンの突然の告白に、リリアは胸を押さえた。禁書管理局が何百年と探しても、存在すら掴めなかった禁書を目の前のレイヴンの友人が所有しているという、現実に思わず声を出しそうになる。
「そ、それで、今禁書はどうなっているのでしょうか」
震える声を自覚するが、恥じる余裕はなかった。あの夜、ペンダントが光ったということは、禁書が契約されたという証なのだからだ。
「偶然が重なって、モーリスが契約したようです」
「危険ではないのですか?」
禁書管理局に残る記録では、契約者は禁書の力に飲まれて、力の行使に酔いしれると言われている。禁書を世界に散らすきっかけとなった、聖都を襲った騎馬民族も禁書の力を使い勢力を伸ばしたが、最後には仲間内で力の奪い合いが起こり自戒したと記録されている。
「今のところは、危険は感じていませんね。逆に、その存在に助けられています」
「助けられる?」
「ええ。それは、実際に御覧いただければ分かるはずですよ」
レイヴンは面白そうに笑いながら言った。
世界を破滅に追いやるかもしれない力を持つ禁書と、契約して無事でいることも驚きだが、その力を目の当たりにしながらこうも笑っていられることも不思議だ。
「もう、そろそろ出かけましょう」
金の鎖がつながる懐中時計を取り出して、時間を確認したレイヴンが言った。
「はい」
リリアは、机に広げた地図を折りたたみ、こげ茶の革の旅行鞄に仕舞い、閉じた。
「荷物は、他には?」
「これだけですわ。閣下」
旅行鞄を手に提げると、レイヴンがドアを開けた。
「シスター。私のことはこれから、レイヴンとお呼び下さい」
振り返り、眩しいばかりの整った容姿に、白い歯がのぞく。
「ええ。わかりました。レイヴン様。では、私のことはリリアとお呼び下さいませ」
リリアは胸元のペンダントの水晶に手を添えて言った。
「では、リリアさん」
レイヴンがドアを開けて支えた。
リリアは修道院の自分の部屋から一歩外へ出ると、後ろを振り返る。
部屋の中の簡素なベッドに整えられたシーツが、物悲しくドアから差し込んだ鈍い光に白く照らされていた。




