第三章 王都の殺人鬼 ㈤
チェッカーボーン修道院の夜は早い。規模のわりには貧しい夕食を皆で味わい、夜の無言の祈りとともに回廊の蝋燭が消されて闇に入る。
修道院が眠りについたとき、カナレン司祭は暗闇の中、わずかに入る外からの月夜を頼りに司祭服を着替えた。労働者の質素な装いは、この街へ溶け込むにはちょうどいい変装だ。
ドアを静かに開けて、回廊を進み、裏口の壊れた木戸から外へ出た。
ガス灯の明りもなく、曇り空の中、わずかに届く月夜の明りだけが頼りだ。
乗合馬車の行き交いもなくなった時間で、轍の残る湿った道を転々と灯る明りを目指して歩いていく。
ここは暇な町だ。
その一言が、カナレン司祭が感じるチェッカーボーンのすべてだった。
ここの修道院にいる限りは衣食住には困らない。だが、聖都の教皇庁ですら多少の楽しみはあったが、ここには何もなかった。祈りと生活の日々。それの繰り返しだ。そんな時、信徒の男から誘われて夜中抜け出して街へ出た。その時間が、とても楽しかった。それ以来、毎夜とはいかないまでも、街への抜けだしは唯一の息抜きとなった。
街の繁華街といってもベルンデンのようにガス灯の明りもなければ、石畳の地面もない。あるのは街の唯一の宿屋兼飲み屋から漏れ出る、蝋燭よりも明るいオイルランプの明りと、轍の残る湿った地面だけだ。
喧騒の漏れる宿屋の扉を開けても、人々は司祭が店に来たことに気にしない。チェッカーボーンに新しく来た司祭が遊びに来ることは、街の人間には周知の事実で誰もそのことに言及しない。
司祭はカウンターでブランデーを注文すると一気に飲み干して、グラスを置いた。
上の宿屋に泊まる客も交じっているのか、飲み屋の奥の大きな円卓はたくさんの人が集まって盛り上がっている。
「おう。今日もやってくかい?」
司祭が近づくと、男たちの肩に手をまわして円卓を囲んでいた男の一人が声をかけてきた。司祭が頷くと、男は他の男たちの肩を手で叩いて道を開けると、司祭は円卓に着いた。
「こんばんは。今日も神様の助けがあるといいな」
円卓の中央に座る男が、にやにや笑いながら言う。
「ああ。神の助けがあらんことを」
司祭が十字を切ると、周りの男たちが笑い声をあげる。彼らにとって、神とは賭博で勝ちを導く存在だ。
「じゃあ、賭けてくれ」
中央の男が濁声で一言言うと、円卓に着いた男たちが思い思いの額を円卓に置いていく。司祭も金を置くと、出る目を言う。男たちもそれぞれ、自分の予想を叫び、中央の男が賽子を振るのを待つ。
「行くぞ」
男が合わせた手を振り、円卓の上に手を広げると汚れた乳白色の賽子が二つ転がる。ころころと転がる賽子を、その場にいた男たちの目が追う。賽子が止まり、男たちは思い思いの声を上げる。司祭は、出た目を見て舌打ちをした。負けたのだ。
司祭は円卓から立ち上がると、壁際の席に座った。オイルランプの明りの元、誰かの飲みかけのウィスキーを煽った。
再び賽子が振られたのか、円卓の周りは盛り上がっている。
「今日は、これで終わりかい?」
「もう一回やるさ。これで、帰れるわけがないだろ」
声のした方を見ると、対面に座る男がにやりと口元をゆがめた。
黒革のコートに、使い込まれた黒革のトップハットを被った男だ。
「そうだろうよ。ほら、伯爵からだ」
男がコートの胸元から取り出した札束を、机に置いて司祭の方へ滑らす。
司祭は札束を受け取ると、数を大雑把に数えて、男の顔を見る。帽子からこぼれた波打つ灰色の髪が肩にかかっている。口から見える歯は白く、帽子の下から見える肌の色も白い。薄汚れた労働着と、泥で頬を黒く汚し、黄ばんだ歯を出して笑うようなこの場所の人間ではない。洗練された都会から来たことを髣髴とさせる姿だ。ほのかに香ってくる甘ったるい香水の香りも、この辺では嗅いだことのないほど淫靡な香りだ。
「伯爵は何を欲しがっている?」
「情報だ。ベゼルフォードでは何も見つからなかったらしいな」
「ああ、あそこでいい情報が手に入っていたら、こんな田舎になんて来てないぜ」
チェッカーボーンに来る前にいた王都のベゼルフォード大学は、今では宗教色が薄い大学だが、かつてはミリアス聖教会の大聖堂を中心とした神学校だった。そこで、禁書についての有力な情報が得られないかと、色々と調べたが何も得ることはできなかった。そこで、カルパティエン侯爵という人物からチェッカーボーン修道院を紹介されてしばらく滞在することになったが、それは大きな間違いだった。田舎町の牢獄にとらわれたと気づいたときには、もうすでにこの生活の輪の中に入り込んでいてしまっていた。
「情報はないか……」
男はつぶやくように言った。
この酒場を紹介してくれた信徒の男は、司祭が教皇庁の禁書管理官ということを知っていた。最初は警戒した司祭だったが、賭博で使う金を都合つけてくれるたびに、次第に話をするようになった。そこで、ある貴族が禁書を探していると言っていた。
司祭にとっては、禁書は紛い物だ。この世にそんな未知な力を持つものは存在するはずもない、禁書管理局も閑職で、教皇庁の厄介者を履きためておくような場所だと思っている。
「情報といえば、そうだな。俺と一緒に来たシスターが最近よそよそしくてな。まあ、元々あんなかわいげのない女は嫌いなんだが、今頃じゃあ、俺に隠し事をしているみたいだよ」
黒革のコートの男とは初対面だが、気前よく金払いのいい伯爵の使いなら話は通じるだろうと、司祭は心の内に溜まった不満をぶちまけた。
「教皇の飼い犬が、見張りでついてきているんだ。せっかく教皇庁の狭苦しい場所から出たのに始終、神の教えを言いやがる厄介な女だ」
司祭は残りのウィスキーを一気に飲み干すと、立ち上がり、怒声と歓声の入り混じる円卓の男たちの中へ戻っていった。
司祭の意気揚々とした後ろ姿を、黒革のトップハットを押し上げた男の黄色い眼がじっと追いかけた。獲物を見定めた蛇の眼を感じさせる眼だった。
酒場の閉まる時間は、都市部の酒場よりも早い。
程よく勝ち続けた司祭の懐は、来た時よりも潤っていった。この調子なら、修道院の寄付金の小銭を盗むことをしなくても、しばらく楽しめそうだ。
頼りにならない月明かりの元、轍の跡を頼りに修道院への帰り路に着いた。
体の中を駆け巡るアルコールの余韻が気持ちよく、足がふらつく。
小便がしたくなって立ち止まると、後ろから人影が見えた。街の人間ならばこの道を歩いては来ない。この先には修道院しかない。
限界に達した膀胱を鎮めようと、司祭は草むらに勢いよく小便をした。ほとばしる水音と、張り詰めた膀胱が縮む開放感が心地よい。
小便を終えて、帰り路に戻ろうとすると、目の前に黒い影があった。
「誰だ?」
月夜がもう少し明るければ姿が見えるのに、ここの夜道では何でも視覚ではなく感触や記憶に頼らなければいけない。
「俺だよ。神父さん」
風で流れた雲の隙間から差し込んだ、わずかな月明かりが影に当たり、酒場で会った黒革のコートの男が立っていたのが見えた。
「何だ。あんたかよ」
司祭は警戒を解いて、男に近寄った。湿ったぬるい風ととともに、甘ったるい香水の香りが流れてくる。
「俺は、神父じゃない。司祭だ!」
アルコールの高揚感で、いつもは出さない声を出す。司祭の声は、風でなびいた木々のざわめきの中に消えていく。
「そうか。失礼。司祭さん」
男が近づいてくる。香水の香りがだんだんと濃くなってくる。
「おいおい。あんまり近づくんじゃないぞ。酒の臭いならともかく香水の匂いはごまかせないからな」
酒場から帰った時は、修道院の朝の祈りが始まるまでに体を拭くのが習慣だった。酒の臭いは口を濯げばごまかせるかもしれないが、香水の匂いはどうにもできないだろう。そんな香りを纏って祈りの場所に行けば、修道女たちがどう思うかわからない。特に、聖都から一緒に来たシスターははっきりと侮蔑の目を向けてくるだろう。
「もう、伯爵に報告できるような情報はないか?」
目の前に立つ男が司祭の肩をつかんできた。座っていた時には気づかなかったが、男の背は司祭よりも高く、司祭の目には男の胸元が見える。
「ああ。禁書のことはシスターがよく知ってるさ。何せ、あいつは禁書係の最古参で、教皇の犬だからな」
男のはだけた胸元から、闇夜に映える白い肌がのぞいた。その胸元には、黒薔薇の刺青がはっきりと浮き出て見えた。
「そうか。じゃあ、お遊びをしようか」
「何だって?」
司祭は男に無理やり頭をつかまれて、口をあけられたのを感じた。振りほどこうともがくが、男の力は強く逃れることができない。
口に冷たく金臭い平たいものが入れられた。反射的に口を閉じると、歯の間に固いものを噛む感触とともに挟まった。
「その硬貨を挟んだままだったら、ご褒美をあげるよ」
男はそう言うと、司祭の頭を聖母のように抱きかかえ、胸元に押し当てる。そして、腹のあたりで素早く横一文字に手を動かした。
司祭の腹部に焼けつくような熱さと、急激な痛みが襲ってくる。
耐え難い激痛に声を上げそうになるが、男に抑えられた状態では口を開くこともできない。
「伯爵は、用無しは処分しろと言ったからな」
男が耳元でささやく。
司祭には、そのささやきも痛みに負けて聞き取れなかった。
男の腕の力が弱まり、解放された司祭はその場でどさりと膝を突いた。
男の嬉々とした顔が近づいてくると、目の前に黒く塗れたナイフの鈍い光が見えた。それと同時に、首元に冷たく滑り気のある刃が当たる。鋭い痛みが刃の切れ筋とともに走り、司祭の視界は闇に落ちた。
*
デルガモンド・ダンシュリーは、目の前に転がる黒い塊から、札束をもぎ取った。塊を強く蹴り上げると、血しぶきが飛び散ったのか、まばらに草むらをかき分ける鈍く重い音がした。
背後を振り返り、チェッカーボーン修道院の黒い影を見つめた。
タン! タン! タッタッ! タッタン!
靴の汚れを落とすようにタップした靴音は、湿ったチェッカーボーンの地面では泥の撥ねる音がするだけだ。
デルは、靴底に着いた泥を司祭の服で拭うと、明りの消えたチェッカーボーンの街へ歩いて行った。
生暖かい風が、草むらを揺らす。
森の奥から不気味な梟の鳴き声が響くと、その声に呼応するように小動物の悲鳴が小さく風に乗って聞こえた。




