第三章 王都の殺人鬼 ㈢
朝の陽ざしが窓から差し込み、学者の顔にあたたかな温もりを届けると、モーリスは目をこすりあくびをしながら目覚めた。
「おはようございます。旦那様」
ベルガーは暗闇から出てから、日常の業務をこなした。学院に届けられた新聞を受け取りに行き、給湯室でお湯を汲むと、モーリスの研究室まで戻り、新聞へのアイロンがけと、目覚めの紅茶を入れた。
昨夜の契約の目覚めの後、ベルガーはモーリスの記憶を読み取り、この学院の配置、日常の行いを学んだ。契約者の思考を読み取るのは、力のいる行いで、契約者との絆をほころばせる危険な行使だが、初めから契約者の行動を知っていると先が読めるため、いつごろからかベルガーは契約早々に思考を読むことにしている。
「おはよう。夢じゃなかったんだ」
間延びした声の主は、目の前に置かれた新聞と、紅茶に目を奪われると、包帯の巻かれた手でマグカップを持つとそっと口をつけた。
「美味しい」
「ありがとうございます。旦那様」
味の感想を言ってもらえたのはいつぶりのことだろうか。あの暗闇の中では時間の流れはなく、つい先ほどのことのように思う。だが、目の前にいる新しい契約者は、あの見知った顔ではない。それが、残酷にもベルガーに時間が過ぎ去ったことを感じさせた。
「旦那様。その呼び方はやめようか。僕は貴族じゃないから」
「では。どうお呼びしましょうか? 他の方々と同じように、教授、とお呼びしても構いませんか?」
「ああ、いいよ。そっちの方がしっくりくるよ」
学者が新聞を取ると、驚いた表情をした。
「アイロンがけもしたの? インクが手につかない」
ベルガーは頷いたが、それと同時に不思議に思った。当然の行いをして、驚かれるのは記憶にないことだからだ。
「普通は、アイロンがけをする執事がいないと、こんなに気持ちよく新聞は読めないけどね」
新聞を広げて記事を読んでいる学者は、ぶつぶつと独り言を言う。
「そういえば、この新聞とか、お湯をもらいに行ったときに人に見られなかった? あんまり、目立つことをしてもらうと、弁明するのが大変だからさ」
新聞から目を離さずに言う学者に、ベルガーは軽く礼をして言った。
「お気遣い感謝します。私は、霧のように姿をくらませられますので、他の方の目に入るようなことはいたしません」
「そう。さすがだね」
新聞を折りたたんで、机の上に置いた学者は、紅茶を飲み干す。
空いたカップに、ベルガーはお茶を注ぐ。
「ああ。ありがとう」
ベルガーは無言でうなずく。時は流れているだろうが、人間の本質的な動きは変わっていないようだ。
「ところで、君は禁書の中から出てきたんだよね」
学者は足を組んで、両手を膝に乗せた。
「はい。その通りでございます」
ベルガーは姿勢を正して答えた。
「気づかなくてごめん。座ってもらっても構わないよ」
「いえ、私共は疲れることはありませんので、このままで大丈夫です」
「そうかい。なら、色々と聞かしてもらうけどさ」
そう言って学者はノートとペンを机から取り出すと、口を開いた。
「君の一番新しい記憶から順次、教えてもらおうか」
学者の口から澱みなく流れ出る質問の波に、ベルガーは答えていった。
*
これからの時間は講義があるという学者は、ベルガーに部屋にいるように言い残すと、整えられたくせ毛の赤毛を掻きながら出て行った。
一人残されたベルガーは、床に散らばった本や服を手に取り片付けていった。前の主人は、身だしなみや身の回りの生活に厳しかったが、今回の契約者はそうでもないらしい。
散らかった部屋を片付け始めたのは、昨日の契約で呼び出されてからだが、部屋の隅々まできれいに整えようとしていたら、主は机に突っ伏して眠りにつき、気が付かないうちに朝が来ていた。
本棚には無造作に並べられた高さの違う背表紙が見える。ハイゼン語に、懐かしいカナン語の言葉が並び、まだ見たことのない言葉も見える。
今度の主も、時間があれば言葉を教えてくれるのだろうか。そんな考えが不意によぎるが、それは贅沢な願いだ。契約者は、常に命を下し、己の欲求に忠実に動くように求める。前の契約者が変わっていたと感じたのは、人として生きるための礼儀、言葉、文字の読み書きや行動を教えてくれたからだ。
講義が終わる時間まであと少し、それまでに部屋を片付けておこうと思い立ったベルガーは、本や服を綺麗に棚に仕舞っていく。すると、ノック音が響いた。
「モーリス。入るぞ」
上品なハイゼン語の響き。それは、前の契約者の言葉の響きに似ていた。
もしかしたら、友人が訪ねてくるかもしれないので、その時はおもてなしをして待っていてほしいと言いつけられていたことを思い出し、ドアを開けて主の友人を招き入れた。
「ようこそ、お越しくださいました」
ドアを開けると立っていたのは、シルクハットをかぶり上質な漆黒のチェスターフィールド・コートをまとった、茶色の澄んだ目をした端正な顔立ちをした青年だった。
「誰だ!」
きつい眼差しを向けられて詰問を受けた。
「ローゼンガルド卿。教授は、今は講義の時間で留守でございます。お部屋でお待ちただくように言付かっております」
学者に教えられた友人の名を口にすると、青年は驚いた表情をするが、部屋の中に入ってくれた。そして、部屋の中を見回すと、ベルガーの顔を凝視した。
「これは、お前がやったのか?」
「はい。教授の許可は得ておりますので、ご心配なさらずに」
ベルガーが椅子を引き、手を添えて座るように促すと、青年はシルクハットとコートを脱いでベルガーに手渡すと、椅子に腰かけた。
すぐに、来客時に使うように指示された色違いのカップとソーサーを棚から取り出すと、新しく入れなおした紅茶を注いだ。
机に差し出すと、青年は上品なしぐさでソーサーを持ち上げて、カップを手に取り、目を閉じた。
「とてもいい香りだ。前に飲んだ時とは違う」
澄み切った紅茶に口をつけた青年は、目を大きくすると、カップをソーサに戻して机に置いた。
「美味しい」
「ありがとうございます」
ベルガーは胸に手を当てて礼をした。
「ああ。こんなにおいしいお茶は初めて飲んだ。香りといい、味に深みがあってほんのり甘みを感じる」
感心したように頷く青年を見て、ベルガーは自分のおもてなしが成功したことを確信した。
主の命を遂行できたことを確信していると、再び青年から疑惑の目を向けられる。
「ところで、お前は何者だ? なぜ、モーリスの部屋にいる?」
今にも飛び掛からんとするほどの勢いで立ち上がろうとしたが、膝が机にあたりカップが倒れて紅茶が机の上を流れ、床に滴り落ちた。
ベルガーはとっさにカップを立てると、床にしゃがみこんで雑巾で床にこぼれた紅茶を掃除した。
「すまない」
申し訳なさそうな声を出す青年に、ベルガーは首を横にする。
「謝る必要はありません。これが私の仕事ですから」
ベルガーが紅茶を拭きとると、同時に講義の終わりを告げるベルが小さく聞こえた。
すぐに、廊下を駆けてくる足音が響いてくると、ドアが開き、主の顔が見えた。
「レイヴン。早かったじゃないか」
「モーリス。こいつは誰だ!」
間延びした主の声と、青年の鋭い詰問の声が重なり合った。
*
モーリスが昨夜のバーンズ書店から禁書を手に入れたこと、禁書に血をこぼして契約がなされて、ベルガーが登場したことを話した。
話を静かに聞くレイヴンは、半信半疑という表情だったが、ベルガーと視線が合うと現実に引き戻されたのか神妙な顔つきになった。
「それで、これからどうするんだ?」
「どうするって、どうもしないよ。ベルガー君の話は歴史に埋もれた断片をつなぎ合わせるほどの価値があるんだよ。これから、詳細な記録を取るためにいろいろと話を聞いていかないといけないよ」
満足げに頷くモーリスに、レイヴンは首を横に振る。
「そんな悠長な時間はないんだ。昨日、久しぶりに貴族院の審議があった。大方は庶民院から上がってきた法案の件だったが、今後、ユーリウスの件についても審議が始まるかもしれない」
レイヴンが昨日の貴族院で起きたことを一通り話した。
法案の審議は今までの停滞を巻き返すように、粛々と進んだ。多くの法案が、貴族院の採決で否決され、庶民院への差し戻しとなった。
審議の終盤になると、王太子廃嫡反対派の議員が声を上げた。それに対する反対意見も出たが、その言い合いは長くは続かなかった。グラウンベリー大主教が、席を立ちあがり議場から出て行ったからだった。
聖職者議員の参加が必須の審議の場で、唯一の参加者のグラウンベリー大主教が出て行けばその場の審議と採決は無効となる。その場で、議長は散会を宣言し、議会は閉じたということだった。
「相変わらず駆け引きの世界だよね。僕の意見を言うと、そんなことを審議するのはお門違いもいいところなんだけれど。君たちの世界に口を挟む立場じゃないから黙っておくよ」
「私も、君くらい気軽になりたいさ」
レイヴンがため息をつき、紅茶に口をつける。空いたカップに、ベルガーは紅茶を注ぐ。
レイヴンが軽く頷き、感謝を伝えた。
ベルガーは無言で、礼をする。
「この件は伯爵に報告する。それでいいか?」
レイヴンの目がベルガーを見つめ、モーリスを見る。
「駄目だよ。まだ、秘密にしていようよ。禁書が持っていかれたら、僕の研究が何十年も遅れるよ」
「そんなことは関係ない。君の研究より、この国行く末の方が大事だ」
二人のやり取りにベルガーは耳を傾け、この二人の固く深い絆を感じる。
「だって、伯爵に禁書を渡しても、契約したのは僕なんだから、伯爵が欲しがったら、僕の命はないさ」
両手を広げてお手上げの格好をするモーリスに、レイヴンは静かにうなる。
「それもそうか」
「そうだよ。それに伯爵たちは禁書の力を必要としていないんでしょ。それだったら、僕が持っていることには賛成のはずだよ。だって、僕はどちらの味方でもないのだからさ」
モーリスの正論に、レイヴンは自分の浅はかさを恥じて、ただ、頷くしかできなかった。
長い沈黙の時が流れる。ベルガーはレイヴンのカップの冷めた紅茶を入れなおした。沈黙を破るようにレイヴンが口を開く。
「ところで、ベルガーと言ったか。君は、なんで執事服を着ているんだ。ずいぶんと古い仕立てなのが気になる。生地は上等な物のようだが」
ベルガーは自分の姿をガラス窓に移してみる。群青のテールコートに、金メッキのボタンが並ぶ。膨らみのあるクラバットの白色が、ベルガーの浅黒い肌と、黒髪に対比して目立つ。
「禁書から出たときから、この格好なんだよね。前の契約者の元で、執事をしていたらしいんだよ」
モーリスがベルガーから聞き取ったことを書き留めたノートを捲りながら言う。
「その恰好が落ち着くらいいが、少し時代遅れだな。私の祖父の時代に近いだろう。新しい服を仕立てさせよう」
「ありがとうございます。閣下」
「閣下はよしてくれ。レイヴンでいい。名前で呼んでくれ」
「わかりました。レイヴン様」
ベルガーに名前を呼ばれて、口元をわずかに緩めたレイヴンが、ソファに置かれた新聞を手に持ち、その紙面に目を落とした。そこには、昨日開かれた貴族院の審議を大々的に伝える記事があった。その真横には、政治記事と同等の扱いで、東の貧民街で起きた猟奇的な殺人事件を伝える記事が黒々と埋まっていた。
「物騒な世の中だよ」
モーリスの間延びした声が、午後の陽ざしが差し込む研究室に響いた。




