第三章 王都の殺人鬼 ㈠
ハイゼン王国の王都ベルンデンには、国政を司る二つの議場がある。
選挙で国民から選ばれた議員で構成される庶民院。
もう一つが、爵位を持つ臣下とハイゼン国教会の主要な教区の主教で構成される貴族院だ。
この二つの院が、互いに牽制し意見のすり合わせを行う、この国のかじ取りを行ってきた。そして、その均衡が崩れたときが王国の受難の始まりの時だと、歴史は語っている。
*
レイヴンは議場の中心に置かれた空の玉座を背に向けて、他の議員たちの列に続いて長い深紅の革張りのベンチからでると、開け放たれている聖典の一節が彫り込まれた重厚な扉を抜けて廊下に出た。
深紅の絨毯が敷き詰められた貴族院の議場の外の廊下は、散会した議場から出る貴族院議員の雑踏にもまれていた。葉巻の残り香にコロンの香りが混ざり合い、各々の話し声が響き合う。
「大主教! グラウンベリー大主教!」
レイヴンは議員たちの雑踏をかき分けて、聖職者議員の黒いフロックコートを纏った老人の背に向けて声を投げかける。上質な漆黒のフロックコートの裾を翻し、急ぎ足で進む姿に、優雅に談笑に応じる議員たちからは、「礼儀知らず」だと言わんばかりの嫌悪の視線を向けられるが、彼には気に留める暇はなかった。
老人の背中に近づくにつれて人影はまばらになった。途中ぶつかってしまった白髪の議員と目が合ったが、相手はレイヴンの顔を見るとぎょっと表情を硬くして、鋭い眼でにらみつけてきた。
議場で激しくアデルとやり合った男の顔を忘れるはずもない。彼は、王太子の件でもユーリウスの廃嫡に反対する議員の筆頭――モールデン伯爵だからだ。
「これは、失礼。モールデン伯爵」
謝罪の言葉をかけても、白髪の口髭の隙間から不快気にな小さな舌打ちが聞こえた。
レイヴンはアデルに近しい者として、完全に敵扱いされたことを悟った。
深く考えても変わらない現実を胸に、老人の元へ進んだ。
老人の杖の音が、モザイク状に配置された大理石の床に甲高い音を響かせる中、レイヴンの靴の鈍く響く音が重なった。
従者の若い聖職者に手を引かれた、老人がこちらを振り向く。薄くなった頭髪は白く、コートの胸元からは聖職者議員特有の紫のベストが見える。昼間でも暗い廊下を照らし出す数多のガス灯の明りが、老人の掛ける丸眼鏡のレンズを照らし出した。
「おお。誰かと思ったら。レイヴン君ではないか。大きくなったものだ」
訝し気な顔は、レイヴンの顔を見ると頬が緩んだ。
「お久しぶりです。グラウンベリー大主教。少し、ご一緒しても」
「ああ、いいとも」
そう言うと大主教は、お付きの聖職者に先に行くように指示を出した。
「こうも年を取ると、足がおぼつかなくてな」
レイヴンはお付きの聖職者が離した手をつかむと、大主教の歩みを支えた。
「ありがとう。レイヴン君。君は本当に、子供のころから優しい子だ」
「そうでしょうか?」
二人のゆっくりとした歩みを、他の議員たちは雑多な足音を残して追い越して行く。
「そうだとも、人の心理というものはそう簡単に変わらないものだよ。君が、この議場でどんなに経験を積んでも君らしい優しさを失うことはないだろう」
「ええ。そう願いたいものです」
大主教の言葉は子供のころから温かみのあるものだ。
「その様子なら、アリシア王女との結婚生活もうまくいくでしょうな」
ガス灯の光で照らされたレンズの向こうの目には、あたたかな光が見える。
「はい。大主教が結婚式を執り行っていただけるとのことで、私たちは感謝の念でいっぱいです」
大主教は笑い声をあげるが、周りの誰も気に留めない。階段に差し掛かったところで、レイヴンは大主教を支える手に込める力を強めた。
「この階段は急ですので、お気をつけて」
「ああ、ありがとう。君たちの結婚式は喜んで執り行わせていただくよ。もちろん、国王陛下からもよろしく頼むと言われているので、老骨に鞭打って頑張らせていただくぞ」
一段一段としっかりと階段に足をつけて降りていく。
「それに、あの活発な王女の花嫁姿を見られるなど、儂も長生きしたものだ」
大主教の足が段差に止まった時、後ろから急ぎ足で駆け抜けていった議員の体がぶつかった。体勢を崩した大主教が転びそうになり、レイヴンが胸元に手を伸ばすが、反対から細身の腕が伸びて大主教の体を支えた。
「危ないなぁ」
ぶつかって駆け抜けていった議員の後ろ姿に、文句を言った男は、こちらに振り返ると大丈夫かどうか訊いていた。
「ああ。大事ない。ありがとう。お若い御仁」
「いえ。とんでもない。この階段は急ですからね。僕も初登院の時は、上りでこけて散会まで痛かったですから」
大主教のもう片方の手を、男は支えた。
初めて見る顔だった。絞られたフロックコートの線が、男の細身の沿っており、女性のように引き締まった腰のラインを際立たせていた。長く伸ばした金髪は、後頭部で黒いリボンで結ってあり、階段での騒動で揺れて肩にかかっている。何よりもその姿が、男の中性的な顔立ちを引き立てる。
階段を降り切ると、大主教は礼の言葉を述べた。
「レイヴン君も、あと、君の名は――」
「サイモン・バーグマンと申します。子爵位を賜っております」
「おお。バーグマン子爵。あなたもお優しい心をお持ちのようだ。ありがとう。では、失礼するよ」
大主教はお付きの聖職者に支えられて、待機していた馬車へ乗り込んでいった。
「では、私もこれで」
そう言って立ち去ろうとするサイモンに、レイヴンは声をかけて立ち止まらせた。
「止めてしまって、申し訳ないが、バーグマン子爵といえば、あの素晴らしい庭の邸宅をお持ちでは?」
「ええ。今は、私ではなく、叔母が住んでおりますが」
「そうでしたか。実は私は子供のころ領地が隣同士だったので、よく遊びに行っていたのですよ」
レイヴンの一言で、サイモンは顔を輝かせた。
「では、あなたはローゼンガルド侯爵閣下ですか。初めてお目にかかります」
礼をする、サイモンにレイヴンは小声でささやいた。
「閣下はやめてください。見たところ年が近そうですし」
頭を上げたサイモンは驚きの目で見る。上位の爵位の者が、同等に接してくる姿は異様に思ったのだろう。レイヴン自身、モーリスとの対等な友人関係でしばらく忘れていたが、これがこの世の中の当然の反応だった。
「では、レイヴン様」
敬称も不要だと言いたかったが、それではあまりにも彼に負担をかけることになりそうだと感じた。
「では、こちらも名前で呼ばさせていただきますね。サイモン」
頷いたサイモンとともに、貴族院の建物の外へと連れ立って向かった。
「レイヴン様はどの馬車でお帰りで?」
院の建物の外には議員を迎えに来た馬車が何台も待っていた。そのかなた、車寄せの端の低木に並ぶように止まった自動車を指す。
「自動車ですか。すごいですね」
「サイモンは、どの馬車ですか?」
「僕は馬車なんてありませんよ。徒歩です。生憎とアパートが近くにあるんですよ。だから、馬車を借りなくても歩けば安く済みますしね」
立ち止まり、首を傾げたレイヴンにサイモンは説明する。
「僕は爵位は叔父から継ぎましたが、元々弁護士をしているのですよ。働く貴族だって、同僚は言いますが、僕は叔父の残した領地や邸宅も、仕事も大事にしたいと思っているんです」
「立派な心掛けだ」
褒められてはにかむサイモンを見て、不意に友人の学者の顔を思い出した。彼の褒めるところは今のところ思い浮かばないが、おそらくサイモンのように関わるすべてのことが彼には大事なのだろうと思った。
「今回の貴族院の審議は重要そうだと、噂で聞いたんで参加したんですが、難しい議題ばかりで手帳に書き留めてたら、変な顔されましたよ」
真面目な姿だが、貴族院議員の誰もが純粋に審議を行うためにきているわけではない。縁故と派閥の利益のために来るものや、この場所に来ることが選ばれた者の証なのだとして来る者もいる。
「君のような真面目な議員ばかりならいいがね。今回の審議は大主教がお越しにならなければ開かれることがなかった。だから、多くの議員が様子見で来たのかもしれない」
今度はサイモンが首を傾げたので、レイヴンは貴族院の審議が止まっていた経緯と、グラウンベリー大主教が今回の審議に参加したことで、貴族院が機能したことを説明した。
「そんな、大変なことになっていたんですね。僕は、前の審議の時は仕事があったので休んだので経緯は新聞でしか知りませんでしたけれど。なかなか奥が深いです」
「ええ。私も、父から爵位を継いだ時は何もわからず、親しい貴族の方からいろいろと聞いて学んだものです。あとは、友人の学者からも教えを受けています」
「素晴らしいですね。それに、うらやましいです。僕は、親しい議員の方はいませんから、今日座った席も何やら険悪な雰囲気でしたし」
サイモンが座っていたのは、モールデン伯爵一派の席だったのだろう。議会の審議中の、無遠慮に向けられる嫌悪と敵対的な視線は議場の空気を重くさせていた。
「もし、よければ今度食事でもどうです。わたしも、サイモンの仕事のことや、所領のこともいろいろと聞きたいので」
「いいですね。では今度、僕のお勧めするレストランでどうですか? お口に合うかわかりませんけれど」
肩にかかった髪を後ろに戻しながら言うサイモンに、レイヴンは連絡先を書いたメモを渡す。
「王都のやり手の弁護士が勧める味なら間違いないでしょう。今度、友人も誘っていきますよ」
自動車で送っていこうと言ったレイヴンに、サイモンは申し訳なさそうに固辞した。
レイヴンが近づくと、マークが自動車のエンジンを吹かせた。運転席から出たマークに扉を開けてもらい、乗り込んだレイヴンは、頭を下げて見送るサイモンを後に、車を走らせた。




