第二章 チェッカーボーン修道院 ㈦
王都の学問通りと呼ばれるチェスパー通りは、王立学院から一区画しか離れておらず、他の学校や研究機関ともさほど距離が離れていないところにあるため、あらゆる学術関係の備品が揃うことで有名な通りだった。
その中でも、古い歴史を持つバーンズ書店は、王立学院を始めとして、さまざまな学術関係者が頼りにする書店だ。先代の父親より家業を継いだ、ジャック・バーンズは、学者が求める書物を集める古書業に関しては右に出る者がいないほどのやり手として名を知らしめている。
「入るよ。まだ、やってるかな?」
間延びした、締まりのない声を出して入ってきた客は、顔を見なくてもわかる。
「おお、やっと来たかレイモンド先生」
ジャックは本棚の整理のために上っていた梯子を下りると、薄くなってきた頭髪を掻いた。
「遅れてすまないね。少し旅をしてきた帰りなんだ。本当は明るいうちに来られる予定だったんだけれど」
「先生が旅とは珍しいね。どこまで行ったんだい?」
「チェッカーボーンさ。あそこは遠いというか、この世の果てのような場所だったよ」
「チェッカーボーン! あんな田舎まで行ったのかよ。で、楽しかったかい?」
出不精の若手学者が珍しく出かけたと思ったら、思ったより遠い田舎まで日帰りで旅行に行ったことに、ジャックは驚きを隠せない。しかも、寂れた田舎町で唯一の見どころが聖教会の修道院しかないような場所に出かけるとは、思い切った旅に出たものだと思った。
「楽しいも何も。レイヴンが一緒じゃなかったら、はっきり言っていかなかったよ」
「おいおい・ローゼンガルドの若当主も一緒だったのか」
「そうだよ。じゃなきゃ旅費も出せないよ」
面白そうに笑うモーリスを見て、ジャックは帳簿台から一枚の書類を出した。
「そう言えば、先生。先月のツケを払ってもらいたいんだけれど」
「生憎と、手持ちがないんだ。またにしてもらえる?」
「わかったよ」
ジャックは頭を掻きながら、書類を帳簿台に戻す。無駄だとわかりきったことだ。
「ところで、いいものが出たって聞いたから来たんだけどさ」
「そのことだけどな」
外の暗闇は濃く、ガス灯の淡い光が通りを寂しく照らすのを見ると、店の出入り口のプレートを閉店の表示にした。
「ずいぶん、早く閉めるんだね」
通常の営業時間なら、もう一時間ほどは店を開ける。だが、今はどこの店も人気がなくなると店を占めるようになった。特に、大通りからは外れ、客が来るのは基本的に昼間が多いチェスパー通りの店は、ガス灯が灯ったら店を閉めるところが多くなった。
「先生。今、王都で有名な殺人鬼の話を知らないのか?」
「知ってるよ。でも、狙われてるのは女性ばかりだ。それに、東の川向うでしか事件は起きてないっていう話じゃないか」
店主は盛大にため息をつくと、腰に手を当てて学者をにらみつけた。
「学院の教授ともあろう者がそんな危機管理意識でどうするんだ? 大切な学生が事件にでも巻き込まれたなら一大事だぞ!」
一時、目を丸くしたが学者はくすくすと笑い声をあげた。
「今のは親父さんみたいだ。懐かしいよ」
モーリスがこの店にやってきたときには、父親がまだ現役で店に立っていた時だ。その時は修行の一環でいろいろな書店で働いていたジャックだが、父からよく変わり者の学院生と貴族の坊ちゃんがよく店に来るようになったと聞いていた。
それが、ジャックが店を継いだころには、変わり者の学院生のモーリスは学院の教授にまでなっていたから驚きだった。学院では若手の研究者だ。
「そうか。まあ、そんなことはいいんだ。今回は親父の伝手で、古い屋敷の蔵書を引き取りに仲間といったんだが、価値あるものか見てほしくてな」
「ジャックさんの目利きなら、まともに評価できるでしょう?」
「それもそうだが。蔵書の大半がカナン語なんだよな。ハイゼン語の本はうちでは捌けない内容だったから仲間に渡したが、カナン語の本ならベゼルフォードでも買い取ってくれるかもしれないだろ」
「ベゼルフォード大学なら、よっぽどの書物じゃないと買い取らないと思うよ。あそこのカナン語の蔵書は国内一だよ。それに、聖教会とも関係があるから国外からも蔵書を取り寄せれるしね」
カナン語はかつて、ミリアス聖教会の聖職者が文字や言葉として使っていたものだ。今でもミリアス神聖帝国では使われていると聞くが、聖教会の宗教改革であらゆる分派ができたときに各国の言葉に聖典が翻訳されることになり、廃れていった言葉だった。
「そこで、お前に用があったんだ」
「予想はできるね。僕にカナン語の書物を仕分けてほしいということだろう」
「ああ、正解だ。本は地下室にあるから見て行ってくれるか? 駄賃としては何だが、ほしい本があったら持っていていいからさ」
この若い学者のやる気を出させるには何が一番いいのかということを、ジャックは長い付き合いで熟知していた。
「本当だね! だったら、今日中に見繕ってあげるよ」
意気揚々と地下室に降りて行った学者の背中を、ジャックは温かい目で見送った。
*
闇がさらに濃くなり、警邏の馬の蹄の音が響いてくると、ジャックはショーウィンドウにカーテンをかけて、地下室に行ったきりの学者に声をかけようと階段に向かった。
カンテラの明りに影が重なり、時々本を積み重ねる音が聞こえてくる。
「おい、もう終わりそうか。店を閉めたいんだが」
ジャックが声を張り上げつつ、階段を下っていくと、木箱の中をひっくり返して本を仕分けしているモーリスがいた。大方の本を仕分け終わったのか、自分用の本を見繕ている最中だった。
「ジャックさん。これだけ持って行ってもいい?」
モーリスの両手には四冊の本が抱えられていた。どれも背表紙がボロボロで、中には装丁が破れているものまである。
「そんな襤褸を持ていかなくてもいいじゃないか? ほら、こっちの綺麗な本から好きなの持ていきな」
作業机の上には二つの山がある。一つの山には比較的綺麗な状態の本が積んであり、もう片方は状態の悪いものが目立つ。
「そっちは、カナン語の勉強にはいい軽めの内容が書かれていてね。欲しい本はなかったんだよ。その反対の山は、ベゼルフォードに持っていけば少しは買ってくれそうかな。でも状態がよくないから、同じものが蔵書にあれば引き取り拒否だろうね」
どうやら、今回の仕入れは外れが多かったようだ。
「そうか。仲間が持って行った本も状態がいいのばかりじゃなかったら、今回は旅費だけ回収できれば良しとしないといけないかもな」
頭の中で帳簿をはじいても、どうやら利益は少なそうに思えた。
「これって、どこで仕入れたの? やたらと、神話やハイゼン建国前の話が多かったけれど」
「グラッドスン男爵邸って、東部のバーズメイクの近くの廃村にある屋敷から引き取ったんだ。あの辺りを買い取った会社が、少しでも金になるものを売り捌いてるっていうことで行ったんだが、骨折り損だったな」
「それは災難だね。でも、あんなところで何をするんだい?」
「集合住宅を建設するんだとよ。また、新しい工場が建つから、家を建てればすぐに買い手が見つかるらしい」
「まあ、ハイゼンの災厄の始まりの地とされているのに、買い手がつくのかねえ」
「それなりの値段なんだろうな。今じゃ、あの疫病は過去の話だよ。俺の爺さんの代でも直接は知らん話だぞ」
歴史学者の青年は、昔のことを今の出来事のように情景が浮かぶようだが、ハイゼンの災厄と呼ばれた疫病が猛威を振るったのは、エルドラ女王の治世よりも前の話だ。教科書で知るような話に恐れを抱くほどの関心は人々にはない。
「それも、そうだ。じゃあ、僕はもう帰るよ」
階段を上ろうとした青年にジャックは、机の上にもう一つの仕分けされた本があるのを見つけて声をかける。
「おい、この本はどっちの山だ?」
「どれだい?」
登りかけた階段を下りてきて、作業机に置かれた古い黒革の本を見せると、モーリスは納得したのか口を開いた。
「それ、何も書かれていないから、ジャックさんの手帳かなって思って置いといたんだ」
本をめくると染みついたページや、水にぬれて乾いたのかごわついたページがある。どのページも一文字も書かれていない。
「俺のじゃないな。よかったら。これも持っていくか」
「いいの。ちょうどノートが埋まってなくなったから、新しいのが欲しかったから助かるよ」
モーリスの抱える本の上に、古びた黒革の本を乗せてやる。
「気を付けて帰れよ」
階段を登り切った学者に声を張り上げて言うと、間延びした返事が返り、ドアの開閉を知らせるベルが鳴り響いた。
ジャックは本の山を一瞥すると、ドアに鍵をかけるために階段を登って行った。




