第二章 チェッカーボーン修道院 ㈣
ハイゼン王国の中にミリアス聖教会の礼拝堂は両手で数えるほどしかない。かつては、世界の半分以上に信徒を持ったミリアス聖教会も数々の教会の改革により、信仰の道を分かれた宗派がある。
ハイゼン王国の主流であるハイゼン国教会もその一つだ。教皇の介入を嫌った、時の国王が多くの血を流して行った宗教改革は、今のハイゼン国民の多くが忘れてしまった歴史の一つでもある。
少ない色のステンドグラスから差し込む光の通りはよくなく。年中、曇りの日が多いと言われているチェッカーボーンで吸い込む空気は湿り気が多く、重い。
「ここに、おられましたか。シスター・リリア」
リリアが振り返ると、チェッカーボーン修道院の院長が入り口で微笑みを浮かべて立っていた。
「あなたは、いつもここで祈りを捧げておられますね」
小さな礼拝堂は、修道院の敷地内の片隅になる。朝と昼の礼拝は、修道院の大きな礼拝堂に参列するが、リリアにとっては、荘厳な礼拝堂よりも、この礼拝堂の素朴さと祭壇への近さが神とのつながりが近くなるような気がして好きだった。
「あなたがここにいらしてからですよ。この礼拝堂が光輝いて見えるようになったのは」
院長の衣擦れの音が近づいてくる。年配の修道院長は、リリアたちがここにきてから何かと世話を焼いてくる。周りの修道女たちも教皇庁からやってきたリリアに、色々な質問を投げかけ、会話の中に入れてくれる。
「主だった仕事が終われば、この礼拝堂を掃除していただいて。きっと主は、その姿を見守っておいでになりますよ」
朗らかに、皺を寄せてほほ笑む院長の姿に、リリアは立ち上がると礼を言った。
「このような勝手を許してくださり、ありがとうございます。ところで、何か御用がございましたか?」
「ええ。そうです」
リリアの問いに、院長は笑顔を引っ込めて神妙なまなざしを向けた。
「カナレン司祭様が、お呼びです」
「まあ、司祭様が。何用でしょうか」
礼拝堂の開け放たれた扉へ共に向かいながら、リリアは頭の中にカナレン司祭の不機嫌そうな姿を思い浮かべた。
教皇庁のある、ミリアス神聖帝国の聖都から、ルーフェニア共和国を鉄道を使い横断し、海峡を船で揺られ、ハイゼン王国までやってきたのは二ヵ月前のことだった。
教皇庁の禁書管理局といえば、教皇庁の中でも目立たない部署であり、多くの同僚は失態を犯した者たちだった。リリアのように、信仰の道に入ってから管理局に来た者もいたが、その多くは無味乾燥な管理局の仕事に嫌気がさして、他の部署へ去っていった。
リリアも管理局の仕事の味気無さに嫌気は差していたが、入局当初より世話をしてもらっていた老修道士より、この仕事が教会や世界のためになるものだと説かれて耐える日々を送っていた。
「シスター・リリア」
礼拝堂をでたところで、院長が振り返った。
「私と司教様だけが、あなた方が禁書管理局の者だと聞いています。かつて、禁書管理局が動いたのは何百年も前の話だと聞いています。ですから、私は心配なのです。何か良からぬことがあるのではないと」
眉を寄せて、不安げなまなざしは普段の院長の顔ではなく、一信徒が恐れを抱く顔だ。
「ご心配されることはございません。そのために我々がおりますから」
リリアはそういうと胸元に重ねた手を置いた。
「そうですね。ですから、教皇猊下はあなたたちを世界各地にお使わしになったのでしたよね。さあ、行きましょう。遅れると司祭様にお叱りを受けてしまいますよ」
「はい」
二人は苔むした石畳の回廊に歩みを進めた。
リリアは、もう一度胸元に手を置いた。胸元のペンダントの先になる塊をさすると、心の不安が和らいだ気がした。
*
院長が部屋から立ち去り、カナレン司祭と二人きりになると、彼は司祭服の襟元に指をひっかけて広げた。
「また、いつものあばら家に行っていたのかね」
司祭の呼気からは薄っすらと酒の臭いがした。旅に同行してから知ったことだが、カナレン司祭は酒を飲む習慣があった。それも、ワインではなく、度の強い蒸留酒を好んで飲んでいた。そのことに苦言を呈しても、のらりくらりと神の教えを説くので、いつごろからかリリアは言及しなくなっていた。
「ええ。大聖堂より。あちらの方が落ち着きますから」
「そうかね。ここの大聖堂も、聖都に比べればこじんまりとして落ち着くと思うがな」
司祭は朝夕の礼拝には参列をしているが、それも司教や院長の目があるからなのだろう。礼拝が終われば、事務的な作業をこなしてどこかへ出かけており、夕刻の礼拝には戻ってくるという一日を過ごしている。
「ご用件は何でしょうか。司祭様?」
このまま話し続けても、聖都から追われただのという愚痴を聞かされることは目に見えているので本題を切り出した。
「ああ。そのことだが。王都より人が尋ねてきた」
「王都からですか?」
リリアが頭をかしげると、司祭が酒臭い息を漏らしながら顔を近づける。
「どうやら、禁書について探っている連中らしい」
呼気の臭いを不快に思いながらも、禁書を探るという言葉に強く胸が騒いだ。
「禁書ということは、ベゼルフォードの方でしょうか? ですが、それならわざわざ来なくても手紙や電話で済む話ではないでしょうか?」
「いや、ベゼルフォードではない。男が二人。それも若い労働者風情の格好をしているが、素性はわからん」
司祭は襟元を整えると、ドアに手をかけた。
「私一人で不安というわけではない。だが、お前がいれば若い男の注意もお前に行くだろう。余計な詮索もされずに済むからな。一緒に来い!」
強い命令口調で言い、廊下に出て行った司祭を、リリアは追いかけた。
周囲に目を向けて、誰もいないことを確認すると、蝋燭の明りが頼りの薄暗い石畳の床を歩く。
「司祭様、ベゼルフォードでお会いになった方からはご連絡ございましたか?」
声を潜めて問う。熱く速さを変えずに、司祭も声を潜める。
「まだ、何も。だが、ここに来るまでに会った貴族の男がいただろ」
「確か、カルパティエン侯爵でしたか。あの方にはよくしてくださいました。ここまでの旅費を出していただきましたし」
「男の顔は覚えやすいようだな。まあ、あの男がいなければ教皇庁からもらった金では、ここに来るのはしんどかっただろうな」
教皇庁からの支度金は、よほどの贅沢をしなければ十分あった。だが、リリアの目を盗み、その金を使い込んだ司祭のせいで、チェッカーボーンへの旅路は過酷なものになりそうだった。たまたま、ベゼルフォードで出会ったカルパティエン侯爵に援助を受けたから助かったものの、これからの旅路には不安を感じた。
石畳から木の床へ、廊下の質感が移ると、そこは世俗とのかかわりのある場所となる。目の前の応接室のドアの前に立つ司祭が、ノックをしようとして、思い立ったように振り返る。
「余計なことは言うなよ。お前は男たちに愛想を振りまいていればいい」
リリアが黙ってうなずくと、司祭はノックをしてドアを開けた。
ドアの向こうには赤毛でくせ毛の理知的な目をした青年と、金髪を手櫛で整えた見目麗しい青年が並んで座っていた。




